L'art de croire             竹下節子ブログ

『君の名は』

先月日本から戻る機内で観たもう一つの日本映画はアニメの『君の名は』だった。

評判が高いのは聞いていたけれど、高校生のラブストーリーのようだったので、少しだけ見て退屈したら他の映画に変えようと思って一応見てみた。

映像の美しさに度肝を抜かれた。

ほとんど「おもてなし」映画みたいに美しく、テクノロジーと伝統、都会と地方が共存するクール・ジャパン。
フランスではまだ公開されていないけれど絶対フランス人に受けると思う。

こちらで仲間にネットで4予告編の映像を見せたら息をのんでいた。

すごい。

美を昇華した芸術的な観光映画みたいだ。

飛騨の小さな村の神事やら、普通の女子高生が「巫女」となるシチュエーションやら見どころがいっぱいだ。

ストーリーの方は、はじめは、よくある「人格入れ替わり」ものかと思った。
それが若い男女の間で起こるというのが、新鮮なのか初々しいのか分からないけれど、まあおもしろい。
2人ともスマホをもって交信するというのは「今の子」ならではだし、男女の差だけではなく、都会と地方、マンションで父と2人暮らしの少年と、引き戸の日本家屋で祖母や妹も一緒に暮らす少女、と、シチュエーションが対照的で、目まぐるしく変わる「背景」の美しさが引き立つ。

そこで起こる失敗や友達の反応やらのエピソードは、まあ、コミックにはよくある展開なので、チープだしつっこみどころはいろいろあるものの、想定内という感じだ。

ところが、話は意外な方向に広がり、この「入れ替わり」が、実はヒロインが受け継ぐ伝統技術の組みひもと同じように、パラレル・ワールドが3年という時間のずれをもったまま絡みあっているものだと分かる。

少女の住む村は1200年ごとに彗星のかけらが落ちてクレーターをつくるのだとか、村の滅亡を救うために代々神職の「宮水」家の女性が、その「入れ替わり」能力を介して「協力してくれる男」を近未来で取り込むのだとかいうSFになってくる。

都会の夜、地方の村の夜、そして、そのどちらをも照らす銀河や彗星。
映像はますます美しくなる。

少年は自分に課せられた「使命」を発見できるのか、夢の中のように記憶が定かでない若い2人は村を救えるのか、というスリル、そしてそんな絶対不条理の状況の中でも生まれる2人の恋心は…、と結局、最後までしっかり試聴した。

けれども、ディティールを含めたすべての「背景」のほれぼれする美しさに比べて、当然とはいえアニメのキャラにしか見えない登場人物たちの、特に日常のシーンの貧弱さとのギャップが、魅力というより違和感として残ったのは不思議だ。

この映画のコメントをなかなか書く気にならなかったのは、その不思議さからくる一種のためらいのせいだった。それはまだ、消失は、していない。
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# by mariastella | 2016-12-10 00:45 | 映画

ポランスキー『おとなのけんか(Carnage)』2011

私は時々、フランス人と日本人のメンタリティの方が、アメリカに比べると近いような気がすると書いてきた。時代が変わっても古くからの権威や文化が古層のように残っているのも宗教への関わり方も含めてそう思うことが多い。

でも、このロマン・ポランスキーの映画を見ると、この部分(つまり都会のプチブルジョワの本音と建て前)に関しては、アメリカとフランスがほぼ同じ感じで、日本はまったく違うとつくづく思った。

それを雄弁に語っているのがこの邦題のつけ方だ。

『おとなのけんか』......

あんまりだ。

もとはフランスのヤスミナ・レザの『Le Dieu du carnage(虐殺の神)』という戯曲が原作で、舞台をブルックリンに移してアメリカでもヒットしたらしい。(その戯曲の邦題も『おとなはかく戦えり』だそうだ)
時間、場所、筋の「三一致の法則」に乗っ取ったフランス戯曲らしい構成だ。

映画は、アメリカが舞台だが、ある夫婦の自宅ですべてが展開するので、パリで撮影されたという(ポランスキーはアメリカに入国すると逮捕されるリスクがある)。

11歳の少年がブルックリンの公園で同級生を棒で殴り、前歯の2本を折る怪我を負わせた。「被害者」の親であるロングストリート夫妻は、事の次第を書面にして確認するために「加害者」の親であるカウワン夫妻を自宅に招いた。カウワン夫妻は協力的で下手に出て、お互いに、同じレベルの生活、階層であることに納得しながら上品にことをすませるはずだった。

ロングストリート夫妻の妻はスーダンのダルフールについての著書がある作家ペネロピ(ジョディ・フォスターが相変わらずすばらしい)、夫が金物商を営むマイケル。

カウワン夫妻は、妻が投資コンサルタントのナンシー(ケイト・ウィンスレット)、夫が製薬会社の副作用スキャンダルをもみ消そうとしている弁護士アラン。

最初は「子供の喧嘩」の解決だったものが、弁護士がしょっちゅう携帯電話で話していて、それにみんながストレスを感じ、気分が悪くなったナンシーが吐いて美術書を汚してしまう。
それをきっかけに社交的な仮面が剥がれて険悪になり、言い争いの組み合わせも、夫妻対夫妻、夫同士対妻同士、夫と妻の取り替った状態など、感情のまま、特に日頃のうっ憤などでエスカレートする。

子供のけんかが「大人のけんか」に変わる、という話であるのは事実だけれど、単なるヴォードヴィルではなく社会派ヴォードヴィルなのだ。

弁護士役のクリストフ・ヴァルツ は『ターザンreborn』で、帝国主義時代の差別主義の権化のようなベルギー人役をやった人だ。 この映画でも自分はコンゴに行ったことがあるというのもおもしろい。どこか最近亡くなったロバート・ヴォーンに似た雰囲気があってなつかしい。

両夫婦とも、NY のブルジョワだけど、ロングストリートの方がリベラルで民主党に投票するタイプ、カウワンは共和党に投票するタイプだ。

で、原作がフランスものだから当然とはいえ、この2組の夫婦や、招待されて出向くこういうシチュエーション、アパルトマン、会話の仕方など、フランスでもすごくありそうなことで、とてもリアルだ。こういう感じの夫婦をいくらでも知っている。
でも日本で子供がけんかした時に、夫婦で相手の夫婦とこういう感じでもてなしを受けながら話し合いに出かけるなどというシチュエーションは想像できない。
ブルジョワ家庭でも、子供のこの種の問題で当事者の2組夫婦が行動を共にすることはないだろう。
だからこういう感じの「おとなのけんか」にはなり得ない。

ジョディ・フォスターの演じる妻は、美術が好きで、スーダンの子供たちなど世界の悲惨に関心があって著書もあることをひそかに誇り、社会意識の高い人で、世界のどこで起こっていることでも自分たちに関係がある、と主張する。ジェーン・フォンダの例が出て来る。フランスならジェーン・バーキンか?

元のタイトルの「虐殺の神」というのは弁護士が口にするセリフで、「僕は虐殺の神を信じている」と言ったり、ジョン・ウェインの名をあげたりするのだけれど、要するに、強い方によって弱いものは淘汰されるということだ。動物の世界では最も強い雄だけが雌を獲得して強い子孫を残す。
けれども、人間は、分かち合ったり、助けたり、弱者を排除しないで生きていくように進化してきた。サバイバルのために争わなくていい人々は特に、弱者を助けることに情熱を燃やすことすらある。

言い換えると、、「子供のけんか」は、「動物レベル」だが、「大人」はそのレベルを超えて上品に平和に協調してやっていけますよ、という「文明人」レベルですよ、という合意がある。「けんかしない」はずだ。

ところが、それが過剰になって、弱者を救う姿勢における偽善や、それをしない他者の弾劾や、ポリティカリイ・コレクトの際限ない検閲や自主規制へとエスカレートしていく。

けれども、オーバーワークで疲れ、家族とのつきあいに疲れ、外面をつくろうことに疲れた人たちは、特に酒で自制心のタガが緩むと、本音が噴出する。

ダルフールについての本を書いた人に対して「セネガルのニガーが」と黒人差別の言葉を使ったり、タブーの差別語が連発される。クー・クラックス・クランの名も出る。

つまり、社会的、階層的な仮面が落ちると、「動物的あるいは動物的本能でけんかする子供たち」のような本音が垂れ流される。

とはいえ、自分だけの利益しか考えない状態から、共同体の利益を考え、近くの弱者を助け、さらに、遠くにいて姿の見えない弱者にすら思いをいたすようになるのも、また、人間が獲得してきた人間らしさのひとつであって、けっして虚偽ではない。

エゴイズムと博愛の気持ち、責任感と無関心、礼儀と乱暴、それらは共存していて、それらを分かつものは薄氷でしかない、ということだ。

この映画を見ていると、この登場人物たちは今年ならみなトランプに投票したかもしれない、と思えてくる。

トランプが勝利したのは、貧しい白人たちの不満の受け皿になったからだと言われているが、決してそれだけではない。NYのブルジョワだって、ストレスフルで孤独で、外面をとりつくろうことに疲れていたら、こうなるのだ。5 年前の映画だが、もうそこには、「トランプを選んだアメリカ」がある。
さらに、この映画を見れば、そのアメリカの心性が、人間性に根差した普遍的な問題だということが、分かってくる。

同時にきわめて21世紀的な問題でもある。

「虐殺の神」というのは、要するに弱肉強食のネオリベラリズムの神でもあるからだ。

20世紀の後半に、「自由世界」が第二次大戦後の「復興」を遂げた間、この「虐殺の神」には枷がかけられていた。「自由世界」の内部で、「共産主義」シンパという身中の虫が増殖しないように、「社会民主主義」を飼っていたからだ。

もとより「自由競争」は公平なシステムではない。
スタート地点からいろいろなハンディを負っている人がいて、そもそも全く競争に参加不可能な弱者もたくさんいる。それらの人々や競争の敗者も含めて、すべての人が尊厳をもって共存できるような社会を運営するために財を分配するという思想が生まれた。生産力が低い時代には個々の共同体でそれなりに機能していた互助システムが破綻したからだ。人間のモノ化に対抗して共産主義が生まれた。

けれども実際に現れたのは、必然的に全体主義化する「一党独裁型の社会主義」だ。
それに対して生まれたのが、「民主主義によって運営する社会主義」というスタイルの社会民主主義だ。

ところが冷戦が終わって、敵が自滅したので、「自由世界」の「虐殺の神」にかけられていた枷が外れた。

「虐殺の神」がグローバルする中で、統治者にとって不急不要になった社会民主主義は、冷戦時代の「意識高い系」の世代を中心に、アフリカの貧困や環境保全、差別撤廃、動物愛護などの方向にシフトしながら、ライフスタイルへとイデオロギー化していく場合がある。

それを担う人の多くが、競争社会におけるいわゆる「勝ち組」である。その中には、この映画が描いているような、

夫が「虐殺の神」を信奉して競争にはげみ勝ち組の場所を確保して、
妻がボランティアをして家庭における夫の不在を埋めて自分の生き方に意味を見出す、

という組み合わせが生まれてくる。

(「夫が稼いだ金で妻が消費に励んで経済を回す」方が多いかもしれないけれど。)

そのような矛盾や欺瞞などが膨らむと、見かけの「幸福」のあやういバランスなど、「逆殺の神」の聖霊がささやくたった「一言の本音」によって崩れてしまうということなのだろう。

『おとなのけんか』は、一見幸せそうな他人のカップルの化けの皮が剥がれる過程を見ておもしろがるような映画ではなく、「ポランスキーの映画を見に行ける」ような人たちに、自分の立ち位置と生き方について本格的な自問を促す映画なのだ。
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# by mariastella | 2016-12-09 00:09 | 映画

アンゲラ・メルケルとアンデン・パクトの男たち

Arteでアンゲラ・メルケルのドキュメンタリーをやっていた。

もう10年もヨーロッパのトップに君臨する彼女についてはすでにいろいろなところで特集とかドキュメンタリーを見たことがある。

父親がプロテスタントの牧師、東独出身の物理学者、牧師館には知的障碍者のための施設が併設されていて彼女も通っていたなど、多少のプライヴェートのエピソードもすでに耳にしたことがある。

でも、今回このドキュメンタリーを見て、なんだか改めて、奇跡のような人だなあ、と思った。

前に女性の政治家について書いたことがある。

フランスの女性政治家についてや、
ジャンヌ・ダルクとヒラリー・クリントンや小池都知事について

そのどちらにもメルケル首相は出てこない。

メルケルが「女性政治家」の観察のフィールドに入ってこないのはマリーヌ・ル・ペン女子と似たポジションのかもしれないと漠然と思っていた。

でも実はメルケルさんのことはかわいいなあ、と思っていた

この番組を見ると、若い頃は超かわいいし、おかっぱ頭もジャンヌ・ダルクそのもので、フランスだったら絶対そう言われていただろうなあと思う。

女性にも好かれていて、側近を信用できる女性で固めたというのも意外だった(girls campと呼ばれる)。 
番組で証言しているヴァチカンのドイツ大使も女性だった。

ちなみにフランスは14世紀から教皇庁に大使を送っているが、女性は一人もいない。

オバマ大統領はキャロライン・ケネディ(カトリック)を大使にするつもりだったが、彼女がプロ・ライフ(中絶反対)ではなかったので拒否されたという。フランスもゲイの活動家を送ろうとして拒否されたと言われている。
今の在ヴァティカンのアメリカ大使は外交官出身ではなく40年もアメリカのカリタス(カトリックの社会福祉組織)で働いていた人だ。昨年引っ越した立派な大使館にいる。

(大使の人選って、相手国が拒否できるのって知らなかった。それともヴァティカン限定? いや、ヴァティカンも公式に拒絶したわけではないけれど。カトリックでないとだめということもなく、イラン大使をはじめムスリム国の大使もいるし。)

話がそれたが、それでも、メルケルのドイツが女性大使をヴァティカンに送っているのはそれなりの意味がある気がする。

で、話はそんなことではなく、この番組で一番驚いたのは、東独から来たジャンヌ・ダルク風の、でも、控えめで野心を表に出さない感じのかわいいアンゲラが、自党内で、典型的なゲルマン男の政治家たちからなる「アンデン・パクト」(メンバーの名が分かるという意味では秘密結社ではなく「非公開互助会」とか呼ばれているが、まあ似たようなものだ。で、男限定。)を敵にしていたということだ。

彼らと彼らの戦略のすべてを出し抜いて、ヘルムート・コールの後に、SPDのシュレーダーの一期をおいて、CDU(キリスト教民主同盟)から出馬して首相になった。

今の堂々とした感じからは、マルティーヌ・オーブリーやル・ペン女史を思わせるけれど、オーブリーやル・ペンは、若い頃から意志の強さとか気の強さとか野心を感じさせる雰囲気だった。
メルケルの若い時は、学生時代ソ連の数学コンクールで優勝したりしているのに、西側の男たちの間にいると、本当に、田舎の物理研究所勤め以外の外の世界を何も知らないでポッと出てきた素朴な女の子(30代でも18歳くらいに見える)という風体なのだ。

一方、コールの後釜を狙う軍団のようなアンデン・パクトの男たちは、もう、「多様性って何?」って言いたくなるほど互いに似ているマッチョなゲルマン・エリートの風貌。
ラテンの男たちやドナルド・トランプみたいに分かりやすい男たちとは正反対の、「秘密」が似合う男たちだ。

よくこんなところで生き延びて彼らを鮮やかに出し抜いたなあと思う。

しかも、彼女の演説は、聞く人によって、左派にも、改革者にも、ナショナリストにも解釈されて共感を呼ぶ柔軟さだ。
社会主義体制、科学研究チームという、自由より規律優先の社会から来たので「変革」を肯定的にとらえるおもいきりの良さも、どこにいようと自分の立ち位置こそが「中道」なのだという自信に満ちたバランス感覚も、アンデン・パクトの男たちには想像もつかないことだったろう。

一方で、ヘルムート・コールとミッテランが思い入れたっぷりに独仏の和解やらEUの発展に尽くしたのと違って、メルケルはEUに対しても科学者らしい知的で冷静な打算を隠さない統治者の顔を持つ。

それでも、ヒラリー・クリントンが逆立ちしても演じられないような「素朴さ」や「暖かさ」みたいな空気を発することもできる。私生活は公開しないけれどジャガイモのスープを作るところはOK。

いやぁ、彼女は4期目も狙うらしいから、まだ先のことかもしれないけれど、リタイアしたらぜひ自叙伝でも読みたい。そんなの書くタイプではない気がするが・・・

アンデン・パクトの男たちによる回想も読んでみたいけれどまだ利害が一致しているからね。
番組でもアンデン・パクトのローラント・コッホなどが証言していたけれど、なかなか微妙なニュアンスも読み取れた。

それにしても彼らをここまでリスペクトさせたのはメルケルって、やっぱり、すてきかも。

(Arteのサイトでこの番組は今のところまだ試聴できます)
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# by mariastella | 2016-12-08 04:03 | フェミニズム

カズヌーヴが首相になった

月曜日、ヴァルスがようやく大統領選出馬を宣言して首相の座を離れた。

マクロンとヴァルスでは

「(上司であるオランドに対する)裏切り者同士の戦いだ」

と揶揄する共和党員もいる。

まあ、オランドも、選挙前にDSKのスキャンダルでチャンスが転がり込んだわけで、カリスマ性はもともとなかったが、ヴァルスやマクロンのようなキャラのたった男たちに囲まれていて大変だったろうなと気の毒にも思えてくる。

で、マクロンの後に、内務相のカズヌーヴが首相に就任した。
内務相から首相にという展開は、ヴァルスもそうだったし、サルコジやヴィルパンも内務相を通過した。

カズヌーヴについては、教会のテロの後に詳しく書いた
オランドもようやく、権力争いとは離れて、忠実なカズヌーヴといっしょに最後の数ケ月は「理想」に立ち返るんだろうか。

カズヌーヴはフィヨンと同じくカトリックだ。

でもこの記事に書いたように、政権にある人として政教分離についてとても気をつけている。

上の記事にあるサロモン・ルクレールは教育修道会の修道士だった。

フランス革命後、1790年の聖職者市民憲章によって、共和国への忠誠(11/26から義務となった)を誓わなかったので、パリで身を隠した。1792年8月に逮捕され、監獄と化したカルメル会修道院に閉じ込められたが、9/2にほとんど全員が修道院内部や庭で刺殺された。

2007年、ベネズエラで毒蛇に咬まれた少女のために修道女たちがサロモンに祈ったら治癒を得たのが、2011年にカラカス司教が奇蹟の治癒の認定をしたて、列聖の基準を満たした。

ベルナール・カズヌーヴ(内務・宗教相)は今回(10/16)の列聖式には出席しなかったわけだが、2015年のジャンヌ=エミリー・ド・ヴィルヌーヴ列聖には出ている。

ピウス11世がフランス革命の188人のカトリック殉教者を列福し始めたのは1926年のことだ。

カズヌーヴは1792/9のカトリック虐殺を容認するものではないし、共和国を守るために共和国の名でなされる犯罪行為を共和国が免償するものでもない。

何があったか?

7月のアメル神父の殉教との関係がないとは思えない。

ルクレール修道士もアメル神父も、個人として殺されたのではなく、信仰と宗教上の役割のために殺された。

アメル神父の死は共和国の「信教の自由」に反するイスラム原理主義者によるテロとみなされる。
フランス革命の「恐怖時代」は、まさに「テロ」という言葉を生んだ時期だった。

カズヌーヴの社会党はフランス革命の理念の継承者ということになっている。

難しい立場だが、カズヌーヴの選択はメッセージ性を発していた。

これからは、社会党の予備選やらマクロンやメランションの動向ばかりが取り上げられるだろうが、オランドとカズヌーヴの最後の五ヶ月を見まもってみたい。
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# by mariastella | 2016-12-07 00:11 | フランス

キリスト教ルーツの温度差

日曜の投票結果は一勝一敗という感じだった。

オーストリアで緑の党が極右を退けたことで、難民問題が切迫していても世界は必ず利己的なポピュリズム二流れるわけではない、とほっとさせられた。
一方、イタリアの国民投票の結果レンツィ首相の退陣が決まり、ローマ市長の選挙のような極右の流れが見えてきた。EUはまた危機に面する。ギリシャ危機を乗り越えたからノウハウはあるというのだけれど…。

さて、パリのセーヌ河畔で、12/4、新築の巨大なロシア正教のカテドラルの記念行事が行われ、キリル総主教と共に政府を代表して出席したのがウラジーミル・ヤクーニン(元外交官でプーチンの側近、元KGBことも言われ、2005-2015までロシア鉄道総裁だった)という人だった。

10月にプーチンの訪問がキャンセルされたことは前に書いた

ヤクーニンは、ロシアの「文明間対話研究機関」の代表で、フランス共和党のティエリー・マリアーニと共に「仏露対話」を主宰する。

今回、カテドラルを前に彼が強調したのは、

「ロシアとヨーロッパの国々は互いのキリスト教ルーツによって結ばれている」

ということだ。

つっこみどころがたくさんある。

ヨーロッパ連合が必死になって強調するのを避けてきたのがこの「キリスト教ルーツ」という言葉なのに。

それにロシアのキリスト教ルーツとなった東方正教と、西ヨーロッパのルーツとなったローマ・カトリックとは、伝わり方も違うし、確執が長かったしまだ解消されていない。

それに、こんな風に表現すると、

例えばトルコがセーヌ河畔に巨大なモスクを建設するのならまずいが、

「同じキリスト教の教会ならいいもんね、問題なし」

とでも言いたいのか、含意があるようなないような・・・。

そういえば、今話題の日露関係にも「キリスト教ルーツ」という言葉は使えないしね。

ヤクーニンの言葉、空気が読めないのか確信犯なのかよく分からない。

でも10月以来、多少状況が変わったと思っているのかもしれない。

あの後、プーチンはフランス共和党予備選の決選投票前にフィヨンにエールを送ったからだ。

フィヨンはそのことでジュッペに皮肉られていた。

フィヨンとプーチンは仲がいいと言われている。

誰か別のものを排除する形でなければ、ぜひみんな仲良くしてほしいものだけど。
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# by mariastella | 2016-12-06 00:55 | 宗教

ある新任司祭に聞いてみたこと その1

Bくんは6月末にノートルダム大聖堂で司祭叙階され、パリのある教区に9月1日付で赴任した31歳になったばかりの青年だ。
チャンスがあったので、近頃の政治状況も含めて好奇心全開でいろいろなことを聞き倒すことにした。

--フィヨンのことどう思う? 投票した? みんなで政治のこと話し合う?

ぼくらは共和党の主催の選挙には参加できないんです。大統領選は行きます。
政治のことはほとんど話しません。政治は教会に関与してはいけないけれど教会が政治に対して意見をいうのは大切です。

--でもフランシスコ教皇の難民とか移民支援などに批判的なカトリックもいるよね。どう思う?

教皇のことや司教会議の決定についてはよく話し合います。
でも、反対だとか賛同できないという言葉は使いません。
そういう時は「理解できない」って保留するんです。

--7月にノルマンディでアメル神父が殺されたよね、怖くなかった?

アメル師が殺された時はWYDに参加していたんです。驚きました。何しろミサを挙げてた時の犯行ですから。

--あなたの教会は荷物検査とかするの? 怖くない?

検査はありません。時々兵士が付近を見回ってます。
それに…あのテロがあったのは地方の村で、しかも平日のミサで出席者4人、パリとは全然状況が違います。
あり得ません。

--でも、襲われたらどうする? 護身術って必要だと思わない?

教区の建物の下で週2回クラヴマガ(イスラエル軍の護身術)の教室があります。でもぼくはやってません。
ぼくがやったスポーツはフェンシングくらい。

--ふーん、フェンシングじゃテロ対策は無理ね。まあ、あなたの教区ってムスリム自体が少ないかも。

そんなことないです。近くに大きな社会福祉住宅の建物があって、そこはほとんどムスリムです。
でもアメル師の事件の後、ムスリムの人がミサに参加する機会が何度かあり、むしろ結びつきができました。
ある日、子供をベビーカーに載せたムスリムの女性が訪ねてきて、「私たちを赦してください」と言ったので感動しました。
うちの教会ではは、毎月「野次馬参加OK」っていうミサもあります。信徒1人が5人まで見学の人を連れてきていいというものです。いいシステムです。子供の時以来教会を離れてしまった人も来ます。

--教会のそばに住んでるの? 自分のアパルトマンとかあるの?

あります。教会のそばの赤煉瓦の建物。教区の事務所とかいろいろなものが入っていて、上に住む司祭は現在6人です。9月からの新顔はぼくと、神学研究に留学に来ているルワンダの神父の2人です。

主任司祭は50代で、助任司祭が37歳の神父と、僕の2人。あとはベルナルダンで神学講座を受け持つ教授、他の福祉活動をしている司祭が1人です。

******

ふむふむ。

給料は1000ユーロ前後。

続いて、ミサのこと、説教のこと、告解のこと、召命のこと、将来のこと、など遠慮なく聞いてしまった。
少しずつ紹介しよう。彼はフランスで私の知り合った最も若い神父だ。新しい世代だから興味津々でもある。

一応「神父さま」でローマンカラーをつけて現れたので、まず話し方を決めた。私は彼をファーストネームで読んで親称でOK、彼は私に敬称を使う。年齢的に違和感がないのでOK。

彼の召命については、パリ大司教区のネットニュースでインタビューに答えたのを見ていたので、それももう少しくわしく聞くことにした。

彼のプロフィールは、両親ともいわゆる貴族の名家の出。
父親は5人きょうだいの末っ子。母親も5人きょうだいだ。
で、彼のところも当然のように5人きょうだい。

両親は早くからの熱心なエマヌエル会のメンバー。
(このブログのパリの奇蹟の治癒シリーズにでてくるカリスマ刷新派)

6歳上の兄は別の修道会に属する司祭だけれど、やはりパリの小教区を担当している。
姉は、ベネディクト会修道女。すぐ上の兄と下の妹は結婚している。

兄さんはビジネススクールを出て会計監査の仕事もした。
Bくんもフランスで王道ともいえる理科系プレパからグランゼコールへ進学し卒業している。

背が高くハンサムで学歴もあってパリに住んで、何が悲しくて司祭になるのかなあ…
それともこういう人たちって生まれ育った時からそういう感性の方向性があるのかなあ。

移民の子弟として生まれたり、同じインテリ家庭でも68年の学生活動家あがりの無神論家庭に生まれたりする青年とは最初から見えている世界、見えていない世界が違うのかなあ。

Bくんは、早くからカトリック系のボーイスカウトに入り、今も世話している。路上生活者の支援などボランティア体験も数限りない。

世の中には「神の名」のもとに人の命を奪う若者もいれば、Bくんのように

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」
(ヨハネ15-13。彼が引用するフランス語では「友」は「愛するもののために」となる)

を叙階の言葉に選ぶ若者もいる…。

外的な条件だけ比べると、カリカチュラルだ。

でも、人間性の深淵では、何の力が、どのように働いているのだろう。
本当は、若いジハディストにもいろいろ質問してみたい。

で、とりあえずはB君のことをもっと知ろうと質問続行。
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# by mariastella | 2016-12-05 01:31 | 宗教

オランド大統領の不出馬

木曜日、オランド大統領が次の大統領選への不出馬を表明した。
現職大統領が二期目をあきらめるのは珍しいことだ。

テロの後に、テロリストの国籍剝奪の提案をしたことだけが自分の失敗だった、とも言っていた。
それによって国民を一体化しようと思ったのに、かえって分断させてしまった、と。

確かに、国籍剥奪なんて、極右の言いそうな排除の論理だ。
フランスの普遍主義には似合わない。
それに、実際のテロリストはフランス国籍を持っているとは限らないし、実行犯の多くは自爆したり射殺されたりするから、その後では意味がないし、国籍剥奪されるのが嫌でテロをあきらめる、などという抑止力などあり得ないだろう。

それでも例えばイギリスが最近、シリアでISに加わったイギリス人の700人のジハディストのうち最も危険な80200人のリストを公開して彼らをすべて逮捕もしくは殲滅すると宣言したのは、フランスでは考えられない。

ISの訓練場所を空爆する時に、そこにフランス国籍の者がいるのでフランス人を殺すことになる、その是非、ディレンマについて議論があったことがあるくらいだ。

フランスの死刑廃止において戦時を除くという例外があったから、イギリスにもあるのかもしれない。
「テロリストとの戦争」が宣告しているのだから、国籍の有無にかかわらず「テロリストの死刑」はあり得るという理屈なのだろうが、少なくともフランスはそんなことを大きな声では言えないし言っていない。

オランド不出馬表明の後でヴァルス首相がすぐに出馬を表明していないのは「礼儀の期間」をおくからだ、と言われる。Delais de décenceだが、今回の場合、「喪の期間」にも似ている。

その辺もまあ、フランスらしい、抑制というかジェスチャーなのだろう。

どちらにしてもヴァルスの勝機は少ない。
マクロンの方がまだ人気がある。

けれども、「一度も政権に関わっていない」からまだ誰も失望させていない、という理由だけで、マリーヌ・ル・ペンが第一回投票で有利であり続ける情勢は変わらない。

どうなることやら。
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# by mariastella | 2016-12-04 10:01 | フランス

フィヨン、シャルリー・エブド、カトリック

フランソワ・フィヨンが共和党の予備選で大勝したら、今週の『シャルリー・エブド』は、フィヨンを揶揄する傑作なカリカチュアが表紙で、中味も、例のフィヨンとカトリックを結びつける短絡な記事が満載だった。

カトリックがこんなに攻撃されるなんて、なんだか19世紀末か20世紀初めですか、と言いたくなるくらいアナクロな感じがする。
でも私の直接知らなかった反教権主義イデオロギー自体のカリカチュアを見ているようで興味深くもある。

ちょうどフランス司教会議が、政治の理念についての声明を出したし、議長のマルセイユ大司教が、中絶を考え直させるサイトの禁止法案に異議を唱える手紙を大統領に出したものが公開され、翌日のラジオで広報担当の司教がそれを解説するというタイミングでもあった。
11/30にはリヨンのバルバラン大司教が司教区の議員ら260人を連れてのローマ巡礼の3日目に教皇の話を聞いている。
教皇は言わずと知れた格差社会の底辺にいる人の味方で、難民の味方でもあり、その話は極右はもちろん共和党の主流とはかけ離れている。

私が感慨深く思うのは、フランスのインテリ左翼の系譜の人たちがいまだに、というか最近あらたに、カトリックというと、偽善者、小児性愛者、終わったコンテンツ、のように唱え続けることだ。
そして、それが、ヨーロッパの他の国、特に、旧共産圏の国々とはまったくずれているということだ。

東ドイツ出身のメルケル首相のいるドイツも含めて、多くの国では、無神論的物質主義は、政治警察、迫害、強制収容所などを思い出させる。
ロシアでは、ミハイル・カリーニンの時代、1930年に「神なき5年」プロジェクトによって教会は壊されイコンは焼かれ、聖職者や修道者が虐殺された。
アルバニアでもキリスト教だろうとイスラム教だろうと、宗教を信じているという人はすべて殺されたり強制労働に送られたりした。

東ドイツでは、プロテスタント教会は独裁からの避難所として機能し、1989年にベルリンの壁崩壊に至るデモの組織にはライプツィヒやドレスデンの牧師たちが大きな役割を担った。

これらの国々の人たちは、国家による20世紀の殺人が、神の名よりも、科学の名や無神論の名でより多く犯されてきたことをまだ覚えている。

一方、メルケル首相のドイツキリスト教民主同盟や、キリスト教社会同盟など、主要政党に「キリスト教」の名が冠されるなんて、フランスでは考えられない。

アメリカと宗教の関係も根が深いけれど、フランスの反教権主義の根も深い。

そういえば2002年のマリー・ド・ラ・パッションというフランスの修道女の列福式にフィヨンが参加してヨハネ=パウロ二世に謁見しているけれど、フランス革命で殺され殉教したサロモン・ル・クレールが10/16に列聖された時は、フランス革命を加害者にする儀式には出られないとして、カズヌーヴ内務相(宗教も担当)が欠席した。

それにもちろん、フランスではイスラム過激派はもちろん、普通に敬虔なイスラム教徒をどう扱っていいか分からない、彼らだけを差別していると取られると困るから宗教全部を規制しようという動きもある。

『シャルリー・エブド』など、イスラム教への揶揄より何倍もひどいというより下品な表現をカトリックに向けているのは有名で、フィヨンにもそのネタが応用されたわけだ。

フィヨンがカトリックのボーイスカウトに属していたこと、息子たちもそれに続いていることまで、まるでベネディクト16世がヒトラーユーゲントに組み込まれていたのと同じように書き立てているメディアもある。

なんだかいろいろなトラウマをまだ消化も昇華もさせないで抱えているような複雑なものが底に流れている。
オーストリアの状況もそうだし、イタリアの国民投票もリスクが大きく、ヨーロッパは一体どうなるのだろう。
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# by mariastella | 2016-12-03 08:15 | フランス

イエズス会のジョーク

イエズス会士とフランシスコ会士とドミニコ会士を比較するジョークは面白い。
いろいろ考えさせられる。

****

ある人がフランシスコ会士に、懸賞でレクサスが当たるようにノベナをお願いしたいと頼んだ。

(ノベナというのは、「9日間の祈り」という意味で、イエスが昇天してから弟子たちが9日間ひたすら祈り続けたら10日目に聖霊が降臨したという話に由来するとも言われる信心行で、聖母や聖人に神への執り成しを頼むものだ。個人でもできるけれど、修道会に頼んで祈ってもらうとより「効験」あらたかそうなのか、いろいろな折に修道会に寄進してノベナを頼む人がいた。それをふまえたジョークだ。)

フランシスコ会士は「レクサスって何ですか?」と答えた。

「高級車ですよ」

「おやおや、聖フランチェスコさまは、それは清貧の誓いに反するとおっしゃるでしょうよ。
残念ですが、私にはその種のことのために祈ることはできません」

その人は次にドミニコ会士を見つけた。

「レクサスが手に入るようにノベナをお願いしたいのですが…」

「レクサスって何ですか?」

「高級車です」

「おやおや、聖トマス・アクィナスさまはこの世の財への愛から身を守るようにおっしゃっています。
残念ですが、私にはその種のことのために祈ることはできません」

がっかりしたその人は、最後にイエズス会士に頼むことにした。

「神父さま、お願いです。レクサスが手に入るように私のためにノベナをお願いできるでしょうか…」

「ノベナって何ですか?」

*******

このジョークについてのイエズス会士の解説はこうだ。

イエズス会士の活動範囲は広くて、天文学者、数学者など科学者もいれば、エコロジーの専門家、経済倫理学、ロックミュージックから国際政治、インターネット、映画、ダンスなどいたるところで活動している。

いたるところで神の働きがあることを明らかにしたり問いかけたりすることが使命だからだ。
世間の垢にまみれることなく世間の中で活動する、という姿勢だという。

イエズス会出身の現教皇が聖フランチェスコを崇敬していて教皇として初めてフランチェスコ(フランシスコ)を名乗ったことなど考えると楽しい。

イエズス会を創始したイグナチオ・ロヨラには峻厳なイメージがあるけれど、
同時代人のLuis Gonçalvès da Câmaraの証言によると

「小柄で、少し足を引きずっていて、いつも楽しそうな眼をしていた」

そうだから、ジョークだってOKだったかもしれない。
それにしても、18世紀後半にローマ教会から一度禁止されてしまった修道会から250年後に教皇が出たというのも考えてみるとすごいことだ。

フランシスコ教皇も、いつも楽しそうな眼をしている。
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# by mariastella | 2016-12-02 03:53 | 宗教

『後妻業の女』

日本からの帰りの機内で見た日本映画のひとつが『後妻業の女』。

日本映画の独特のおもしろさをよく伝えているので、見ていて「日本人としての視点」を離れることができない。

よくできた映画は、どんなに特殊な国の話でも、遠い過去やありえない未来の話でも、その特殊性の中にかえって普遍的な人間性がくっきりと見えてきて、観客の自我の普遍的な部分に訴えて人間性を養ってくれるところがある。

でもこのタイプの日本映画って、どこかでとても日本的な心性に居直って作られているので、見ているとすごくおもしろいのだけれど、「普遍」どころか、いわば末梢神経を刺激されるような満足感に着地する。

大竹しのぶや豊川悦司が巧いのは分かるが、特に印象的なのが、笑福亭鶴瓶だった。

大竹しのぶらは「演技が巧」いので、このブラック・コメディが生き生きと展開する。

でも笑福亭鶴瓶の演じるキャラは、なんだかリアリティがあって怖い。

笑福亭鶴瓶という人は、いかにも飾り気がなく優しく楽しく、誰からも親しまれて好かれるタイプだと思う。
彼がそのキャラのまま出てきて、それが実は、後妻業のカップルを上回る「ワル」だったという設定だ。
こういう「見かけによらない悪い奴」というか、「相手を警戒させない見かけを武器にした悪い奴」というギャップの怖さが、鶴瓶だからこそ強烈だ。
そして、ある意味リアルだ。
こんな奴はいくらでもいる。いや、人は誰でも「他人を警戒させないようにふるまって生きている」のだから、その本音が出るか出ないかは紙一重の差ではないか、と思えて怖くなった。

その点、「後妻業」カップルは、もちろん詐欺のために表の顔をつくろってはいるのだけれど、いわば「分かりやすいワル」であって、相手が下心や欲で目が曇っていない限り、「想定内のワル」だ。

一方、鶴瓶の演じるワルは、にじみ出る「全人格」を裏切る想定外のワルであり、相手の「無防備」を襲う最もたちの悪いものだ。

こういうタイプをこういう形で見せるのは日本映画以外で見たことがない。

いいことにつけ悪いことにつけ、癖になる感じのすごく日本的なツボというのは確かにある。

今回、ハロウィーンの後では、日本でもクリスマス用のデコレーションや小物がたくさん売っていた。
その中には、同じように、日本以外では絶対お目にかかれないような、独特のものがたくさんある。やはりどこか末梢神経を刺激するような、とか言えない。
とても新鮮で、日本にいた時あれこれ買いこみたくなった。

いやいや、私は中東やアフリカに帰るわけではない、フランスに帰るのだから、クリスマス用品やプレゼントはいたるところで売っている。日本のようにクリスマスが終われば正月用品に切り替わるのでなくクリスマスと新年が一体化しているから、市場の規模も大きい。フランスで買えばいいのだ、と自分に言い聞かせてセーブした。

フランスに戻ればやはりクリスマスセールが始まっていてとても華やかだし、奇麗なものがたくさんある。
けれども、ちょっとひねった、ガラパゴス・テイストのものはない。

LEDランプが一般化してからは家庭用イルミネーションの種類はぐんと増えたし、メイド・イン・チャイナのものもたくさんある。でも、全体的に大味、正道、というか、普通というか、がほとんどで、あとはブランド品や伝統工芸品などのすてきなものがあるけれど、日本のようにはっとするひとひねりしたものが巷の隅々にまでほとんどデフォルトになっているのとは違う。

『後妻業の女』のおもしろさを考えていたら、そんなことに気づいてしまった。
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# by mariastella | 2016-12-01 03:18 | 映画

子供と政治 その2 と、聖霊

8歳の少年と世界情勢を話す

この夏、日本で参政権が18歳に引き下げられた話題を見ていて、まるで子供に政治について説明してやらなくてはいけないという調子のものが少なくなかったのに驚いた。

フランスでは高校生がデモに参加するというのは社会の通過儀礼のひとつのようなものだからだ。

日本でも私が高校生だった頃は、いわゆる大学紛争のあった「政治の季節」で、政治活動に参加したり議論したりする高校生はめずらしくなかった。

フランス人はもともと、ホームパーティでもメトロに乗り合わせた者同士でもバカンス先でも、政治の話をするのが好きであり天気の話と同じくらいにハードルが低い。それでもこの夏に8歳の少年と2人きりで小1時間も世界情勢の話をすることになったのは初めての経験だった。

家庭で大人たちといっしょにテレビニュースを見て大人たちのコメントを聞いていろいろ考えていたらしい。でも最も意外だったのは、少年と話していると、普段仲間と議論している時とは全く別の言葉が私の口から出てきたことだ。

まず少年は、フランスの極右政党の党首を批判して、

「フランスから外国人を追い出すと言うのはよくない、外国人のいないフランスはフランスではない」

と言いだし、その党首が人種差別主義者だとかなり激しく弾劾した。
これが大人と話しているのなら私も同意したかもしれないけれど、不思議なことに私はその党首を弁護し始めた。

「でも彼女(党首ル・ペンのこと)のような人が自分の意見を言えるということが表現の自由だし、彼女のような人がそういうことを言ってくれるおかげで、『それは良くない』と人々が批判したり差別の存在を意識化したりできるから大切なことよ。差別感情は必ずあるもので、もし誰もそれを外に出さないままでいたら、偽善がまかり通ったり排外感情が蓄積したりなどもっと深刻なことになるよ。」

と言ったのだ。

「彼女のような人の発言のおかげで私たちは自分の感情も含めて何が正しくないことかについて考えることができるでしょう」と。

次に少年はイランの情勢について語り、イランは大統領がいる共和国で民主主義だと言ったが、私は

「問題は、そういう政治システムとの上に宗教のリーダーがいて、宗教のリーダーが最終的な権威を持っていることだ」

と言った。

「イスラム共和国はイランを利用したけれど、イランにはゾロアスターの伝統も生きていたし、日本に仏教が伝来しても民間信仰と習合したように、一宗教のリーダーが上から社会を縛り異質なものを排除するのは民主主義とは言えない」。

こう話しながら、ああ、政教分離というのは人間が獲得した本当に大切な知恵だなあ、と私は初めて実感した。

話はさらにフランスから遠ざかり、少年が、今度は「絶対悪」として北朝鮮を引き合いに出して来た。

それにも驚いたけれど、私はまたもや弁護し始めた。
朝鮮が分裂したのは当時の政治イデオロギーの対立のせいでむしろ犠牲者であること、その後冷戦が終わって北朝鮮はソ連から見捨てられ、市場経済政策によって欧米と接近した中国からも裏切られて孤立せざるを得なくなったこと、などを説明したのだ。

切って捨てられるような「絶対の悪はない」と。
実際に人の自由や安全を脅かす個々のケースを批判して対応しなくてはならない。

同時に、政治や社会を論じる時には、「恐怖」と「怒り」に基づいてはいけないと話した。
「恐怖」にとらわれている時には正しい判断、識別ができないからだ。

また「怒り」に駆られた時は、必ず自分が絶対正しいと思ってしまうからだ。ところが「絶対正しい」などということはあり得ないのだから、怒りにまかせた判断は必ず間違っている。いったん怒りを鎮めた後で状況を検討し判断しなくてはいけない。
これはセネカの『怒りについて』の受け売りで私が自分に課しているものだけれど、少年はすべてについて納得したようだった。

共和国理念よりも上にあるもの

「外国人とは何か」についても話し合った。私は日本人だし、フランス生まれの少年も祖父母やその前まで遡ればフランス以外のいろいろな国のルーツを持っている。
少年が「ぼくはフランス人というより外国人かもしれない」とむしろ自慢げに言った。
私はこれに対しても、普段とは違う反応をした。

「いや、きみはフランス人だよ。フランス人というのは国籍や血統でなくてフランス語とフランスの理念を共有しているかどうかだから。その意味では私もフランス人だと思う。」

そして「共和国理念」とは自由・平等・きょうだい愛(フラテルニテ)だと付け加えた。

「きょうだい」とは、人種や言葉と関係ない普遍的な人類のことだから、人種差別や外国人排斥とは相容れない。
たとえこの理念が現実には反映されていなかったり捻じ曲げられたりしているとしても、これを掲げるかどうかは譲れないところだ。

話がこの段階に入った時、少年はいたずらっぽく笑って、「いや、その理念よりももっと大切で上位に来るものがある」と言い出した。

「なんだか、分かる?」

「分かるよ」

私は腕を広げた。

さっきまで真剣な表情で「天下国家」を論じていた少年は天使のように幸せな表情で私の腕の中に体を投げかけてきた。

「アムール(愛)!」

二人は同時に言った。

私と彼が話しているあいだに「聖霊」が二人のそばにずっといたことを感じた。

夏休みに入り、旅行に行く前にうちに寄っていた少年とのひと時である。
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# by mariastella | 2016-11-30 01:20 | 雑感

幼児は右翼か左翼か?

社会党系のリベラシオン紙の中にある「プチ・リベ」というおそらく中高生を対象にしたページが時々ある。その15回目(2016/11/5-6)のテーマは「政治における左と右」というものだった。

もともと右翼、左翼という言葉自体が、フランス革命後の国民議会に由来する言葉で、その歴史や、15歳の少女の政治観、「左」と「右」の考えたの違いなどが紹介されているが、その中に『幼児は「左」か「右」か?』という記事があった。
ここでは「右」とは既成の権威に服する保守、左とは被支配者側につく、というくらいの意味だ。

で、結論は、3、4歳では「右」、
5歳はばらばら、
8歳は「左」、

と、はっきり傾向が変わるそうだ。

三つの国立大学とCNRS(国立科学研究機関)が共同で行った「子供における政治観の誕生」という研究でヒエラルキーに対する感受性を扱ったもの。

やり方は、まず、キャラメルという名の猫とノワゼットという名のネズミのマリオネットが遊んでいるシーンを子供たちに見せる。

その寸劇の中で、何かを決めるのは必ず猫の方で、ネズミはそれに従う。
猫がリーダーだということが明らかに分かる。

それを見た後で、子供たちは大小二つのチョコレートをもらって、それを猫とネズミに渡すように言われる。

3、4歳の子供はみな、大きい方のチョコレートをリーダーである猫に渡す。

5歳の子供たちは、ばらばらだ。

8歳の子供たちは、大きい方のチョコレートを、決定権のないネズミに渡す。

3、4歳の子供たちは生活の多くのシーンで両親による決定に従っている。だから猫の権威を認める。

8歳になるとある程度の自立を獲得するので、弱い方のネズミに多くを与えることで、自分が助けを必要とするときにも与えてもらえるだろうという意識が働くのだそうだ。
猫に比べてネズミの権利が制限されているのを見て、大きいチョコレートを与えることでその「不公平」を「是正」してバランスを取ろうという感覚が働くという。

この結果から、3、4歳の子供たちは保守陣営の大人に似ているのではないかというのだ。

また、社会への見方、政治的志向は、自分の生活の環境や文脈によって変化するということでもある。

おもしろいといえばおもしろい。

フランス人は家庭でも盛んに政治の話をする。

8歳にもなれば親の政治的意見にも左右されるだろう。

逆に、8 歳の子供と政治の話をすることもあるし、その時には自分自身も責任を感じて慎重になる。

そういえば最近こんなことがあった。(続く)
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# by mariastella | 2016-11-29 02:17 | 雑感

フランス大統領予備選 その8

フランス共和党の大統領予備選は、予想通りフィヨンが大勝した。
全回のフィヨン票とサルコジ票を足した感じだ。

フィヨンの「公約」はかなり具体的なので、「後出し」に向かうル・ペン(FN)や社会党(PS)は戦略が立てやすい。
今朝のラジオではFN(国民戦線)が、フィヨンは国民皆保険の社会保障を事実上なくして、低所得者は医療が受け入れなくなる、と攻撃していた。

昨日の調査では初めて、来年の大統領選の第一回投票でもフィヨンがル・ペンを上回るという結果が出て、決選投票ではジュッペに勝ったのと同じ三分の二の得票、と出ている。
それでも2002年のシラクとFNの決選投票程の差は出ていない。
ポピュリズムが経済格差と比例して増大しているのは確実だ。

首相のヴァルスが出馬する気が満々で、ジュッペが敗れたことからバイルーら中道も出馬しそうだし、(ラマ・ヤデはすでに出馬表明)、フィヨンに対抗する陣営は票が割れそうだ。

それにしても、もう何十年も政治家をやっていて、首相も5年務めたフィヨンが、今になって反動カト(カトリック)呼ばわりをされて揶揄され続けるのを観察するのはおもしろい。
もう一世代前になりつつある「インテリ-左翼-無神論」の伝統がどっと蒸し返されて楽しいくらいだ。

レイモン・アロンは「フランス人は革命はできるが改革はできない」と言ったそうだが、実感がある。
朝のラジオで傑作だったのはフィヨンの勝利でミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』の中のヒット曲
「カテドラルの時代」が流されたことだ。

この曲のこの部分
で、「Il est venu le temps des cathédrales 」というフレーズがとても有名で、「カテドラルの時代がやってきた」とフィヨンが揶揄されているわけだ。
反動カトのフィヨンでは政教分離ももうおしまいだ、宗教行事に合わせて国家試験の受験をずらすことができるようになるかもしれない、とも批判されている。
まあ、ここ最近、イスラム原理主義を規制する度に、イスラムを名指ししないために他の宗教も同様に新たな規制を受けるようになったので、マジョリティであるカトリック側から「信仰の自由を保障せよ」という声が上がっているのは確かだ。

でも宗教の社会的スタンスはそれぞれの歴史的文脈があまりにも違うので、まとめて扱うのは恣意的に過ぎる。クリスマスの馬小屋(イエスの誕生シーン)設置は宗教だと批判されても、中国の新年の行事は文化としてもてはやされる。イスラムに対しては完全に政治的な判断だ。

まあ、今回の大統領選については、前回、DSKのスキャンダルで繰り上がった形のオランドが「反サルコジ」票を集めて当選したことに比べると、まだ冷静に議論されるだろうとは思うし、保守と革新(こういう区別の仕方はもはや成り立たないが)の政権交代があること自体は健全だとも思う。PSから距離をとったマクロンあたりが力を蓄えているようだが、まだまだ伸びしろがあるだろう。

ジュッペは最終演説で、環境やヨーロッパについてふれていたのはよかったが、人々が不満を持つ今の状況を「鎮静させるには、安心させなければならない、安心させるには強くなくてはならない。国を再武装して全雇用の経済を再建するために強くありたまえ(Pour apaiser, il faut rassurer, pour rassurer, il faut être fort. Soyez forts pour réarmer l'État et reconstruire une économie de plein emploi)」などと言った。レトリックではあるが、「武装」とか力とか強さとかいう言葉や経済再建とかいう方向性自体は、みんな同じだ。フィヨンも、幸福とは奪い取るものだとか、特別な力だとか、フランス人の誇りだということばを使っている。

選挙「戦」というだけあって戦闘的なのは分かるけれど、どちらも今の状況を嘆かわしいものというところから出発して、それから脱却するには強くなくては、という路線は同じだ。

しつこいようだが、シモーヌ・ヴェイユの言葉をいつも忘れないようにしている私にとっては、賛同できるものではない。

フランス人であることの誇り、それを子孫にも伝えて…などという言説も、どこの政治家もいうことだけれど、誇り=自尊心というのも、たいていは他者との優劣関係におけるものだ。

経済力や軍事力の優位に担保されるような「誇り」ではなく、命そのものの「尊厳」が大切だという多くの宗教が伝えるメッセージとも合致していない。

フランス人仏教者とも話したが、同じ意見だった。
その人は、第一回投票の前の7人の候補者の討論で、唯一の女性であるNKMが、司会者たちから他の候補者に比べて2倍の22回も発言を中断させられたことを指摘して、フェミニズムの観点から彼女に投票したと言っていた。

何にしろ、「戦い」を前にしてはいろいろな本音が見えてくる。

それを観察するのは勉強になる。
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# by mariastella | 2016-11-28 20:31 | フランス

アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』

今年のカンヌ映画祭で脚本賞、シャハーブ・ホセイニーが男優賞を受賞したイラン映画。

前作の『ある過去の行方』については前にここで書いている。その前の『別離』についてはここで

『セールスマン』というタイトルは、主人公のカップルが、劇団員でアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を演じているからだが、フランス語タイトルの『顧客』という方が、意味深長だ。

最初にカジノだとかボーリングだとかいうネオンが出てきたので一瞬驚いたけれどアメリカが舞台の芝居の大道具だった。テヘランでアメリカの芝居をやるリスクにも触れられている。女優が帽子の下にちゃんとスカーフで髪を隠しているのもイランならではだ。
主人公が教師を務める学校の文学の教材も検閲されている。

脚本賞を得たのが納得できる、まるでミステリーのようなスリリングな展開で、はらはらするし、驚きの結末だ。
夫婦の関係、そこに仲間の子供が加わるときの関係、隣人関係、高校教師と男生徒たち、怒り、憎悪、復讐、憐憫、赦しなどが、アクションとリアクションとして連なっていく。

どこをとっても巧い。
しかも、決めつけがない。
人はおかれた人間関係や立場によって色々な欲望を持ち、誘惑にさらされ、自分を正当化したり、自制を完全に失ったりする。
強さも弱さも卑怯さも優しさも、みんなほんものだ。
哀しいし、痛切でもあるけれど、主人公の二人が演劇という芸術に情熱を傾けているところ、最後にそれがクラスの生徒たちの心もとらえるところなどに、救いを感じる。

こういう映画を撮ることが、宗教原理主義体制に対する何よりも有効なレジスタンスであり、自由の意味を考えさせてくれる。

いつもは映画についてコメントするときはいわゆる「ネタバレ」を気にしないのだけれど、ここではそれを書く気がしない。

その「ネタ」は思いがけない重いテーマであって、この映画もその解決を語っていないし、主人公たちのリアクションを肯定も否定もしてしない。

これについて書き始めたら映画評ではなく、哲学に足を踏み込んでしまう。

「悪の陳腐さ」はいつも哀しい。この映画で突きつけられる「悪の弱々しさ」は、もっと哀しい。
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# by mariastella | 2016-11-28 04:12 | 映画

ロン・ハワード『インフェルノ』

ダン・ブラウン作のロバート・ラングドンの映画化シリーズ第3作『インフェルノ』。

『ルイ14世の死』があまりに息が詰まりそうだったので、気分を変えるためにハリウッド映画に行ってみた。
フィレンツェが舞台というのも大画面で見るのが楽しそうだったし。

なんかもう、007みたいに追跡シーンばかりで展開が速くて飽きないのだけれど、007ならヒーローが絶対強そうでカタルシスもあるけれど、このラングドン教授は最初から最初まで傷だらけで記憶はないの体調は悪いの幻覚は見るの、で、映画を見ているこちらが疲れる。

一方、女優は悪役もふくめてすてきで元気いっぱいだ。イギリス人のフェリシティ・ジョーンズ はかわいいし、デンマーク人のシセ・バベット・ クヌッセンは相変わらずすばらしい。
前にもフランス映画でいい味を出していたが、最近も「ブルターニュの女」というフランス映画でヒロインを演じている。
ひっぱりだこだ。
知的で抑制があって、しかしとても優しく温かく女性らしさがあるというギャップがいい感じで、地味なのだけれど印象に残る人だ。

この映画ではWHOの事務局長役で、最初に出てきたときは、腹に一物ある怖い女ボスというイメージなのだけれど、実はラングドンの元恋人だった。ラングドンはハーヴァードに、彼女はスイスのWHOにと、それぞれ自分の天職の使命を発揮するところに別れていくという設定。

それはなんだか中学生の恋みたいなのだけれど、ファブリス・ルキーニが相手役でもそうであったように、この人が演じると説得力があっていい感じだ。

男の悪役は、フランスのコメディアンのオマール・シーや、目玉が飛び出しそうで怖いインド人イルファン・カーンなど個性的で、パッとしないトム・ハンクスを補っている。
マッド・サイエンチストを演じるベン・フォスターという人だけが普通っぽい。

話は歴史や美術、宗教と直接の関係はなく、007の敵風の陰謀論みたいなものなので、前2作のようなつっこみどころはない。

実は、今年映画館で観たハリウッド映画に『スター・トレックBEYOND』がある。
付き合いで観たのだけれど、そして、飽きずに見て、後からいろいろ情報を収集したのだけれど、
コメントを書くことがどうしてもできなかった。

今年観た中で、同じ種類の映画、つまり、それなりに面白かったのに、コメントの書きようがなかったものに、実はディズニーの『ズートピア』がある。

二作とも、ポリティカリー・コレクトというか、アメリカの描く人類の正しい理想みたいなものがある。

性格や条件や「強さ」などがまったく違うキャラクター間の友情、
平和が実現して戦争のない世界、
しかしそれを軟弱で平和すぎる刺激のない世界とみて、争いの種をまく「悪者」。

『スター・トレック』で、多様な人種が、同じ連邦の理念のもと、平和的に協力し合いながら宇宙探索を進める世界、それを異星間の平和条約にまで拡大しようという使命感。
『ズートピア』で草食動物と肉食動物が共存し、キリンもネズミも同じ列車で旅行できるような多様性を実現している世界。

なんというか、それらのあまりにもの「正しさ」と、理想を鼓舞してくれる「いい感じ」が、現実のアメリカやアメリカが主導している世界の状況とギャップがありすぎて、居心地が悪かった。

その点、この『インフェルノ』には、そのマッド・サイエンティストの「巨悪」みたいなものも、それを善意で信奉してしまう人々の「間違った理想」「間違った正義感」も、ある意味で、リアルな愚かさなので、イデオロギーが入り込む余地もない。なんだかぱっとしないヒーローの等身大のあがきの後を追うだけ、という気楽さがある。

大仰な人類救出劇の中で小さな安堵、小さな迷い、などの表現が一応成功している。

まあ、この『インフェルノ』を見てライフポイントを回復したので、次はシリアスなイラン映画アスガル・ファルハーディー の『セールスマン』に挑戦だ。これについては次に。
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# by mariastella | 2016-11-27 00:51 | 映画

フランス大統領予備選 その7

日曜に最終投票となる今回のフランス共和党予備選、事実上の本選だとも言われている。

そのくらい、オランド大統領の人気はないし、社会党が内部分裂を起こしていることもあって、政権交代の可能性は大きいからだ。

では私がフィヨンとジュッペのどちらがましかと思っているのか、と聞かれたのだけれど、社会党の分裂を反面教師とし、アメリカの共和党の分裂も反面教師とし、彼らは、どちらが選ばれても協力態勢で行くことは大体予想できる。

2人ともフランシスコ教皇を引き合いに出して「良心」のある所を強調しているけれど、如何せん、2人とも、教皇とは正反対の「経済成長優先」であることは明らかだ。

いまだにサッチャーの規制緩和を見習えなどと言っているが、考えたら、これ以上経済成長を指標にしたら、地球が壊れてしまうのが分かっているような時代にどうしていまだにそんなことを言えるのだろう。

セキュリティの問題や社会の不満は、みな失業者が多くて可処分所得が減っているのが原因だ、だから「企業と投資家を優遇して景気を良くし、雇用を創出して、利益をみんなに還元する」という理屈がうまくいかないのはもうどこでも証明されていると思うのに。

フィヨンもジュッペも富裕層の特別税を廃止してTVA(消費税に相当)を上げる、などと言っている。

国際的な競争力、発言力はとにかく経済力だ、というのは、もう通用しない。

しかも、今の世界の国々の経済力の大きな部分は軍産複合体にある。
早い話が、経済成長のためには、武器や軍備を増強するのがてっとりばやい。
それは潜在的に戦争を必要とするということであり、街や道路を戦争で破壊したら、今度はそれを再建するための公共事業や復興産業が待っている。

こういう、かなり分かりやすい利権構造が見えているのに、みんな、とりあえずは自分ちの庭に爆弾が落ちなければいいのだろうか。

もう一つ、フランスのカトリックが共和党寄りか社会党よりかという質問だが、全体の傾向としては、
ソシアルにはとても左寄り、ソシエタルには右寄りであると言えるだろう。

ソシアルというのは、同じ共同体のメンバーに対する人間的な関係で、弱者やマイノリティに寄り添う無償の社会福祉的なものは社会党と親和性がある。

ソシエタルは、主として経済的政治的なレベルで使われる言葉で、異なる社会に対する関係と言える。
例えば、企業が自分の従業員に対するのはソシアルだけれど、外国の原料供給者だとか、地球の環境の保全とか、地球レベルでの平等や持続可能性などを考えるのはソシエタルである。

その意味で、自分ちの経済、自分の国の国力増強を優先するのはフィヨンもジュッペも変わらないし、フランスのカトリックと親和性があるだろう。 経済至上主義や金の偶像崇拝を弾劾する教皇とはまったく反対なんだけれどね。
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# by mariastella | 2016-11-26 06:14 | フランス

フランス大統領予備選 その6

先ほどTVでフィヨンとジュッペの最終討論を見た。

週明けは両陣営から非難と揶揄の応酬が続いたので、おやおやアメリカ化するのかと思っていたら、まあ、まともだった。

今週フィヨンは保守反動カトリックのレッテルを貼られたし、ジュッペはボルドーのモスクに絡めてアリ・ジュッペなどと言われた。

特にジュッペは70代の年よりだというイメージを払拭するためか月曜のミーティングで

「J'ai la pêche! Mais avec vous j'ai la super pêche!" 」

と気勢を上げたことでSNSでさんざんからかわれた。

la pêche は「桃」で、元気いっぱいという意味の口語で、くだけた言い方だけど、「私は元気です、皆さんといると超元気です!」と 「la super pêche 」と言ったのが、私は覚えていないけれど前世紀のスーパーマーケットの宣伝文句だったらしくて、藪蛇というか、かえって年より臭い、ということになった。

アメリカならなんでもありかもしれないけれど、確かにこんな言葉の使い方をフランスの大統領にしてもらいたくない。おまけに pêche には、ボクシングのパンチという意味もあるので、その pêcheをジュッペの顔面に打ち込んでやる、みたいな応酬もあって、揚げ足取り、言葉遊びのレベルになっていた。

こんなことでは、本選でポピュリストに敗れる種をまいているようなものだと心配だったが、公開討論ではまあまあ上品だったのでほっとしたけれど、インパクトもなかった。
そうなると、「見世物」としては、サルコジがいないとキャラが立っていなくてつまらない。

アメリカでトランプやサンダースが傍流から飛び込んだのと違って、2人とも同じ共和党の同僚同士で親称で呼び合っているし。

でも、サルコジがいなくなったので、決選投票に行く人は減るのではないかとか、フランス人は天邪鬼だから今度はフィヨンを落として番狂わせを狙うとかいう人もいて、どうなるかは蓋を開けないと、分からない。
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# by mariastella | 2016-11-25 08:12 | フランス

 アルベルト・セラ『ルイ14世の死 La Mort de Louis XIV』

イオネスコに『Le Roi se meurt』(王が死ぬ)という戯曲がある。死を受け入れない王の周りで舞台の小道具や装置が少しずつはぎとられる。

この映画『ルイ14世の死』は、1715年、太陽王ルイ14世が寝たきりで過ごす最後の3週間。
なにもはぎとられない。はぎとられるのは生命だけ。

薄暗がり。
鳥の声、虫の声、羽音、時計の音。
ひそひそ話。
孤独。

足の切断をためらう医師たち。すでに完全な体ではなくなっている。
イギリス人にしか抽出できないというエッセンスを入れたあやしい薬を売り込む男。
豪華な部屋と黄昏の暗さ。まるでレンブラントの絵の世界。
特に解剖のシーンは。



入れ歯を飲み込んだ大理石のライオンのような顔
の周りを大振りの鬘が覆う。

容態が変わるたびに医者たちが議論する。

嚥下できない。
話せない。
ミサ。
告解。
終油の秘跡。

宗教は役に立っているのか?
ナントからかけつける枢機卿。
王がMonseigneur と呼んでいる。
それは司教の呼び方で枢機卿は votre Éminence ではないのかなあ。

監督はカタルーニャのアルベルト・セラ。スペイン・バロックの色も濃い。
撮影はポルトガルだったらしい。

こんな映画、だれが観るのか。

ルイ14世とその時代のファン。
ダンサーでバロック・ギタリストでダンス・アカデミーやヴェルサイユ文化を作ってくれた人への敬意。

ヌーヴェル・ヴァーグへのノスタルジー。
ジャン・コクトーとフランソワ・トリュフォーに見出された少年ジャン=ピエール・レオ-がヌーヴェル・ヴァーグのシンボルのような映画人生を生き、72歳になって、75歳のルイ14世を演じているからだ。

すごい迫力だ。

権力者の死、に興味がある人には必見かもしれない。

ナポレオンの死を思う。
生前退位できずに苦しみながら死んだヨハネ=パウロ二世。
生前譲位できない日本の昭和天皇の死。
パブリックの死。
逆説的にすごく孤独だ。

半熟卵を口にしたりビスケットをかじったりするたびに宮廷の人が拍手する。
目を開けると大仰に歓声を上げる。
見世物のようでもある。緩慢な公開処刑。完全に死ぬまで退位はできない。
職務、機能、権能を担ったまま死ななければならない。

こういうのを見ていると、権威も権力も宮殿もいらないから、清潔で近代的で、鬘と宮廷服をつけていない医師に看取られて安らかに死にたい、と実感する。

今の時代に生きていてよかった、とも思うけれども、中東の野戦病院で血を流して死んでいく子供たちを思い浮かべると、やはり、問題は死に方でなくて、どう生きるかなのだ、と分かる。
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# by mariastella | 2016-11-25 00:23 | 映画

聖ウラジーミル・プーチン

共産主義体制が崩壊していく経過においてロシアがそれまで人民の阿片などと蔑んでいた宗教にすり寄ってロシア正教を利用したのは理解できる。

でも、今(11/4)になって、クレムリンの前に17メートルのウラジーミル一世が右手に十字架、左手に剣を持っている彫像をプーチンが建てるとはね。

ウラジーミル一世は10世紀にロシア、ウクライナ、ベルラーシの揺籃の地であるキエフをキリスト教(東方正教)に改宗させた人物だ。
この像の建立に反対する人は多く、当初予定されていたの30メートルの高さを17メートルに縮小させた。

それまで最大のウラジミール一像はキエフにあった。
モスクワ市民はこの像を歓迎しなかったようだ。

ウラジーミル一世は、ウラジーミル大王、赤い太陽、聖ウラジーミルとも呼ばれる。

ビザンティン皇帝の妹と結婚する条件(他にもクリミア半島の征服や、眼病治癒もあり)で988年に正教の洗礼を受けて、正教を国教に制定した。
実質的に人々に帰属を強制した。

イスラム教も、ローマ・カトリックも、ユダヤ教も当時のキエフに「勧誘」に来たという話が伝わる。

イスラムは天国であてがわれる70人の処女のことを聞いて心を動かされたけれど、酒が飲めないのは問題外なのでやめた。

カトリックの使節団は断食の典礼のせいで追い返された。

ユダヤ教は、ユダヤ人が神のみ旨によってエルサレムを捨てて世界中にばらまかれたのだから説得力がないと言った。

正教は典礼が華麗なところが気に入られた。

プーチン大統領の名はウラジーミルだ。ウラジーミル一世は彼の守護聖人のようなものだ。
剣と十字架を持つ聖ウラジーミルの像は、聖プーチンの自意識を反映しているのかもしれない。

先ごろ青土社から出した『ナポレオンと神』には、ナポレオンが自分の権威を聖なるものにまで高めるためにどのような彫像を創らせたかについても書いた。

フランスでは『ウラジーミル・ボナパルト・プーチン』などという本が出ているし、今のEU会議がプーチンを批判する様子を、2世紀前にウィーン会議がナポレオンを扱った様子に例える人もいる。

そういえば、プーチンは、昨年だったか、ナポレオン戦争でのロシアの勝利の記念式典を行った。

無神論的共産主義から一転して政治と宗教がずぶずぶになったロシアのシンボルとして、聖ウラジーミルの巨大像が、人々を威圧する。
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# by mariastella | 2016-11-24 03:02 | 宗教

フランス大統領予備選 その5

アメリカの大統領選に比べてフランスは腐っても鯛、上品だなあと思っていたのに、フィヨンとジュッペの一騎打ちになって、突然相手への誹謗が飛び出した。

フランスがカトリック文化圏の国で、それを倒して共和国を造った国だというのもあらためてよく見えてくる。

カトリック信仰を隠さないフィヨンには「カト、トラディ(伝統主義者)、レアク(反動)」などの言葉が浴びせられる。
カトリックを「カト」というと、すでに、反革命、蒙昧な保守主義者、ブルジョワ王党派などの含意がある。

これを受けてフィヨンは

「カトリックです。でもトラディでもレアクでもない。すべてを変革しようとしているのだから」「信ずる価値観があるのは大事です、私は家庭、国の権威、労働などの価値を信じます」

と答えていた。

ジュッペも、「自分の方がフランシスコ教皇に近い」と明言するし、カトリックに属する二人ともが教皇を引き合いに出して自分の立場を正当化している。

今のローマ教皇は、フランスが力を入れている環境保全の最大の味方だし、社会政策についても、保守どころか社会党からも共感を寄せられるくらいの徹底した弱者擁護である。

ニースのテロの犠牲者や家族を宗教と関係なくヴァティカンで励ましたことも好意的に受け止められている。

アメリカの方が「宗教共同体」の縛りや建前がはるかに強い国だけれど、フランスのような「無神論的共和国」の建前の強い国の「建前の狭間」から漏れてくるカトリック臭というのはある意味で「かわいい」と思ってしまう。

そう思うこと自体、私の世代の日本人がいかに「信仰に無関心」の空気の中で育ったかの表れかもしれない。
建前宗教共同体のアメリカに比べると日本とフランスは似ているなあと日頃思っているけれど、日本の霊的無関心の荒野の乾燥度は半端でないかもしれない。そこを狙われたら誰に水を与えられても識別力が働かない可能性がある。

フランスは果たして、砂漠を掘り返すと泉の気配が見えてくるのだろうか。
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# by mariastella | 2016-11-23 19:27 | フランス

フランス大統領予備選 その4

(追記あり)
予備選の結果について仲間2人と話し合った。

2人とも投票に行かなかったことを後悔していた。
2ユーロ払えば誰でも投票できる。
投票率は高かった。

2人は次の日曜にフィヨンの当選確率が高いことにショックを受けている。
もちろんサルコジが敗退したのはいい。

でも、同性愛のカップルの養子問題についてフィヨンが保守的なこと、
労働時間を週35時間から39時間に戻すこと、
公務員を50万人減らすと言っていること、(ジュッペは25万人)

が受け入れられない。

2人とも、公務員(音楽教師)で「当事者」だ。
50万人減はかなり非現実的だ。
公務員の労働時間についてはジュッペも同じだが、他のセクターまでは48時間まで可、とフィヨンは言う。

アスペルガーの支援団体の表看板になっているフィヨン夫人への評価は高い。

うーん。

私の周りのリタイア世代の元公務員にこのことを話したら、
自分たちは現役のころ39時間をはるかに超えて働いていた、
と言われた。

音楽教師で、勤務時間を調整してコンサート活動をしている演奏家とは比べられないかもしれない。

週末には、フィヨンの地元で彼を知っている人がうちに泊まる。
地元での話を聞いてみよう。

宗教に関しては、フィヨンは二人とも洗礼を受けているという点ではカトリックだが、ジュッペは教会へ通うことはなく、離婚や再婚もしている。フィヨンは伝統的な地方のカトリックのタイプ。

フランスの司教団は政治的声明を出した。
新自由主義経済推進の政策に反対する。

ジュッペの考え方は司教団の意見書に近い。
でもフィヨンは、司教団の意見書に対して文書で回答したはじめての大統領候補者だ。

フィヨンの側近には保守的なカトリックが数名いる。

今回の予備選の一度目に投票したのはコアなカトリックの15%程度などであまり影響はなかったと言われる。
これからは意味を持ってくるとも言われている。

要観察。
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# by mariastella | 2016-11-23 03:58 | フランス

ジュッぺとフィヨン フランス大統領予備選その3

今日のニュースではジュッペとフィヨンがそれぞれ別のチャンネルでインタビューに答えていた。

サルコジはカルラ夫人と末娘を学校(幼稚園?)に迎えに行くシーンが映されていた。

で、ジュッペとフィヨンの政策の違いが比べられたが、確かに大きな相違点はない。
フィヨンの「勢い」みたいなのは目に見える。
ジュッペへの投票が多かったのは彼の地元であるボルドー近辺とパリだった。
なんとなく分かる。

ボルドーにもフィヨンの地元にも親戚がいる。
フィヨンに投票した人はその「人がらのよさ」を強調する。

うーん、「見た目」のポピュリズムとは別に「私生活」をポピュリズムの視線で見ると、確かにフィヨンはフランスの政治家として珍しく安定している。

ミッテランは愛人を公費で住まわせて隠し子がいた。今になってラブレターが公開されている。
シラクも隠し子の噂で有名だった。
サルコジは3度の結婚のたびに子供がいる。トランプと同じ。
オランドは事実婚のロワイヤル女史との間に子供が4人もいるのに、ジャーナリストと浮気して別れて、そのジャーナリストとも別れて暴露本を書かれているし、今も女優と交際中。
ジュッペは2度の結婚で3人の子供。

フィヨンはリセで知り合ったウェールズ出身のイギリス人の奥さんと1980年の結婚以来5人の子供のカトリック家庭。昔から家族写真がよく出ていた。

マクロンのような型破りの純愛家庭もあるが、フィヨンはまず、クラシックな家族イメージ。
強烈な政治と権力の鬼みたいなキャラクターの政治家たちからそろそろこんいう落ち着いた感じの家庭人を人々が求めるとしても不思議ではない。しかもただの優等生ではなくて、中学時代も高校時代も「停学」歴があって、趣味はカーレースというのもユニークだし、若いころはなかなかハンサムだった。

フィヨンがこのまま公認候補になる確率は高い。
プーチンと気が合うという話は、緊張緩和の役に立つかもしれない。

「2番目の男」のイメージが完全に覆った。こういうこともあるんだなあ。
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# by mariastella | 2016-11-22 07:20

フランス大統領予備選 その2

昨日の深夜と今朝のニュースなど。

サルコジの敗北演説の落ち着き、格調の高さが称えられていた。
2012年の敗北の後も堂々といい演説をした。
この人のこういう演説の技量はすごいのだから、こういう調子で選挙戦をやっていたら結果が出たかもしれない、という人もいたくらいだ。
いやそれではサルコジにならない、などの声もある。

ナポレオンの国だなあと思う。

失墜してフォンテーヌブローを去るナポレオンの演説について『ナポレオンと神』に書いた。
引き際の美、というのがある。
でも、一年もたたずにエルバ島から戻った。

サルコジも現職大統領として2012年の敗北の後、今回の選挙運動中、またチャレンジして戦闘的なアジ演説を繰り返した。
まだ現役の大統領のままであるかのように。

やはり、ナポレオン・テイスト?

で、今度は、セント・ヘレナ島?

ナポレオンには二度目の敗北の時に、演説の機会が与えられなかった。
裏口から逃げだすしかなかった。
まあその後十分時間をかけて聖人伝のような回想記を残したけれど。

敗北、失脚の仕方には国民性ってあるなあと思う。

日本でもフランスでも、一種の「潔さ」が評価されるが、

日本なら、「消え方」は、討ち死に、切腹、出家だった。

フランスでも、「討ち死に」はヒーローの一つの形でナポレオンも望んだが、殉教者は崇められるので、敵はそれを望まない。

キリスト教文化圏には、イエス・キリストの受難と復活というモデルがある。
だから、「屈辱」を味わっても、敵に対して

「神よ、あいつらを赦してやってください、自分たちの愚かさが分かっていない、私の真価、私が神から遣わされたということを理解できないのですから」

と言って去っていける美学がある。

同時に、イエス・キリストやナポレオンが期間限定(イエスは40日、ナポレオンは100日)で「復活」したように、「復活」の可能性もにおわせる効用がある。

昨日の結果は、コペの0.3%がみじめだった。
数年前に、サルコジの後継者として党代表(UMP)をフィヨンと争ってひと悶着起こした男とは思えない。

それこそ「潔さ」とは正反対のあの騒動のせいで、コペもフィヨンも悪印象を残したから未来はないなあ、と誰もが思っていた。それなのにフィヨンの復活、というか新生を遂げた。
それに比べてコペはみじめだ。決定的にカリスマ性がない。

コペに比べると泡沫候補とされたポワソンですらもっと票を獲得している。
昨日の投票者の15%は保守・中道以外から来たという。
極右と極左がポワソンに投票した、と揶揄されている。

中道を唱えるジュッペが落選したら、バイルーら中道が独自に大統領選に立候補するのかどうかまだ分からない。
フィヨンは、まあ安定した「保守」を掲げているからかえって安心感を与えたと言われている。

また、ジュッベの立ち位置(左右をまとめ上げる)には、イデオロギー的にはマクロンがすでに立候補している。

ともかく、共和党はこれで二人の対決になったので、政策の違いやニュアンスがまな板にあげられるだろう。
「見た目」ポピュリズムの影響は少なくなるだろう。

木曜は二人の討論になる。

こうなると、サルコジがいない分だけ、かなりレベルアップすると思う。
「政治の言葉」としてのフランス語はアメリカ英語よりもはるかに強度がある。

「見た目」よりも「中身」の重要度が増すだろう。
でも、それよりも重要視されるのは、大統領の本選において、どちらが有利かということだ。

予備選でサンダースを落としたアメリカ民主党の失敗の教訓は記憶に新しい。

5月の大統領選でマリーヌ・ル・ペンが決戦に出てくるなら、右派の票も集められるフィヨンの方がル・ペンを切り崩すことができるだろう。
それ以外なら、中道の支持を得るジュッペの方が危機の時代のまとめ役としてふさわしい。

現職のオランドは、この予備選の結果を見てから、来年の大統領選に出るかどうか決める。
今は、社会党の分裂ぶりを見せつけられた左派の人々が「オランドよりジュッペ」、と言っているが、フィヨンとなると、左派がどこまでついてくるかは、分からない。
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# by mariastella | 2016-11-21 18:18 | フランス

フランス共和党予備選の結果

共和党予備選の結果が出た。

フィヨンとジュッペの決選投票になる。

ほっとしてなんだか気が抜けた。

サルコジが敗れたのはトランプの反面教師効果だなあと思う。

フランス人、ブレクジットを批判し、アメリカの大統領選をせせら笑ったからには、ここでサルコジ、とはいかなかったのだろう。

フィヨンもジュッぺもゴ―リストでありソシアル、ソシエタル路線なので、どちらが勝っても「フランスらしい」候補者になりそうだ。

しかし、最後の2、3日でフィヨンの勝利がこれほどはっきりと「分かった」のはおもしろかった。
アメリカにいたら、こんな感じでトランプの勝利が「分かった」のだろうか。

本命の3人、ジュッペはシラクと組んでいたし、フィヨンはサルコジの首相だったのだから、どいつもこいつも、という感じで、新しさはないと思っていた。

最後のアンケートで、ジュッペが17%失い、フィヨンが15%上がった。

明らかにジュッペ支持者がフィヨンに乗り換えている。

あるジャーナリストが、フィヨンがだんだんと器を大きくしていくのに比べて、相変わらず落ち着いたジュッぺは、「ancien」だ、と評したのを耳にした時、あまりにもぴったりだったので説得力があり、ああ、これはフィヨンが勝つ、と思った。

確かに、今回の本命の3人は、いずれも普通なら定年でリタイアの年齢だ。
でもフィヨンとジュッペの間は10歳近く離れている。この年代での10年の差は看過できない。

「ancien」つまり、過去の人、だ。
シラクのスケープゴートになって有罪になり、カナダで暮らしていた過去もある意味で暗い。
それに見た目の差もある。
一度「年寄り」と言われれば、ついこの前までの「賢人」「長老」風のプラスのイメージが劇的にひっくり返った。

ポピュリズムは言動にだけでなく「見た目」にもはたらく。

ジュッペの禿げ頭は、ミッテランやシラクを思い出させてしまう。

髪が薄いこと自体がマイナスというわけではない。
サッカーのジダンのように、生え際が後退してきて髪を剃ってしまう人もいるし、それはそれで精悍な感じがする。でも、一定の年を超えた人が、一定の形容をされると、「おじいさん」に見えてくる。

考えてみたら、同じ70代のトランプも、75歳になったサンダースも、髪がある。
トランプの金髪はジョークの種になるほどのトレードマークだ。
サンダースはきれいな白髪だ。

もちろん誰も髪のことなど言わない。
でもこれだけ姿がメディアに出ずっぱりの状況で、最も目立つ顔かたちの印象を大きく変える髪や髪形は無視できない。

フィヨンは姿かたちが「大統領候補」の形に追いついた。
ジェスチャーや声も大きくなった。

ジュッペの余裕たっぷりで落ち着いた感じは、「覇気のなさ」に見えてきた。

興味がわいてきたので、候補者7人の年齢と身長も調べてみた。
コペとジュッペが182cm、ル・メールが190cmとトランプと同じ。フィヨンは175cmとある。
前に165cmのサルコジと組んでいたからもう少し背が高いかと思っていた。

コペは51歳と若いが、彼も額が禿げ上がっているので、老けて見える。

サルコジは来週フィヨンに投票すると言っている。

もしフィヨンがこの先、大統領になるなら、またフランソワだなあ、と思う。
フランソワ・ミッテラン、フランソワ・オランド、フランソワ・フィヨン。

フランシスコ教皇もフランス語読みではフランソワだ。
アッシジのフランチェスコは父親がフランスに行っていたときに生まれたのでフランチェスコと名付けられた。

とってもフランスっぽい名前だが、実は、若い世代ではほとんど見られない。
この名前だけで、もう、60代以上だと分かる。

フィヨンといえば、ギニョールのカリカチュアではいつも目の下にクマができた暗い顔で登場していた。
近頃は、明るい顔をしている。

マクロンほどではないけれど。

マクロンは不思議なキャラだ。あまりもの若さがどう受けとめられるだろう。
ナポレオンは皇帝になった時、35歳でしかなかった。
マクロンの話しぶりを聞いていると、ナポレオンもこんな風だったのかなあと思う時がある。

さて、木曜日にはジュッペとフィヨンの最終討論を聞いてみよう。
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# by mariastella | 2016-11-21 07:41 | フランス

クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』

2003年のこの作品。昨日書いたように、「名作」とは私には思えない。
俳優たちが名演なのは認める。

でも『ポリナ』のような、ビルグンドゥス・ロマンやイニシエーションの物語がない。

人は人生のどの段階でも、少しずつ新しいものを発見したり地平や視界が開けたり、見えないものが見えるようになったり、試練や喪失を経ても成長したと思えたりできるものだ。
だから、映画のテーマというのも、どこかにそんな要素を描いているか、あるいはそのような体験をさせてくれるものがほんとうに心に残るのかもしれない。

少なくとも小さなエゴを突破するようなシーンがほしい。

『ミスティック・リバー』は人間の心理のいろいろなスペクトルを描きだして見事であるのに、そこに閉じこもっているせいでカタルシスを得られないのだ。

人は人生で受けた傷をどのように生きるのかに関しての洞察は与えてくれる。
この映画の中心になる傷は、ある少年が子供の時に友人2人の目の前で拉致されて監禁されたトラウマが大人になった3人に残っているというものだ。

この映画の救われなさから、教えられることもある。

やはり、「恐れるな」ということだ。

「他者からの残忍な行為に対して恐怖を抱く」ことが「他者に対して残忍になる」ことにつながる。

恐怖が悪の連鎖を生むのだ。
憎悪が憎悪を生むというのもそうだが、憎悪にまでいかない恐怖が十分、残忍さを生む。

テロリズムというのもそうで、いつ襲われるかもしれないという恐怖(テロル)を与えることが最大の効果となる。無差別殺人の残忍さへの恐怖が、人の心を残忍さで武装させる。
抑止力などという名がつくこともあるが。

そのことからしても、子供の虐待はもちろん、残忍な行為の犠牲者にトラウマのケアをすることがいかに大切かが分かる。

フランスでカトリックの聖職者による過去の小児性愛スキャンダルを隠してきたことについて、司教団がルルドでの総会で公式に謝罪した(11/7)。
この種の事件は隠れてひっそりと扱われるべきだと考えたことが誤りだったと。
もちろん、保身の意識もなかったとは言えない。
これからはこの悪と立ち向かうために、自分たちの存続を優先しようという誘惑に負けないで立ち向かうと明言した。

ナチスの時と同じだ。一人一人のユダヤ人の運命よりもカトリック教会はカトリック教会の存続を優先するために、ナチス非難の矛先を和らげた。その意味で、今回、そこまで踏み込んで謝罪するのはなかなか潔い。

そのことについてあるカトリック新聞に一コマ漫画が載っていた。

男の子の手を引いた男が暗い顔をしている。
男の子が心配して「悲しいの?」「あの人たち(司教たち)が謝ったのはパパにだったの?」と聞く。
父親は答える。
「ぼくの中にまだいる君と同じくらいの年の男の子にって言った方がいいかな」「だけどどうやってその子の年でも分かるような言葉で説明していいのか分からないんだ」

そうなのだ。
傷ついた子供は傷ついたまま葬られている。
その屍をかかえたまま大きくなったのは別の男だ。
屍を蘇生させ、傷を癒さない限り、謝罪など意味をなさない。

『ミスティック・リバー』の犠牲者にも過去の自分と同じくらいの年の息子がいる。
父親となった自分は、子供のころの自分ではない。傷ついた子供はゾンビとなって大人の男の中に巣くっている。
男は、自分を葬ることでしか、傷ついた子供のゾンビを追い払うことはできなかった。

この映画をこのように終わらせては、トラウマをかかえて生きている多くの人たちに希望のメッセージを届けることはできない。『ポリーナ』の美しさを観た後なのでなおさら、アートというものの使命について考えさせられてしまった。
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# by mariastella | 2016-11-21 01:56 | 映画

Polina, danser sa vie『ポリーナ、命を踊る』ヴァレリー・ミュレール, アンジュラン・プレリオチャイ

原作はなんとバスチャン・ヴィヴェスのBD(2011年に各種の賞を受けた)で、ロシア人の少女が大人になる過程で、バレエの練習や振付を通して真に「生きる」ことの意味を獲得していくビルドゥングス・ロマン、イニシエーションの物語だ。

親元を離れる。
恩師を離れる。
国を離れる。
怪我をして練習を離れ、役を失い、恋人を失う。
金を失い、住む場所を失う。
バーでの仕事で世間を観察し、
「即興」と出会い(実は子供時代にも即興の動きをしていたことが映されていて伏線となっている)、
パートナーと出会う。

このBDは日本語に翻訳出版されているようだ。

映画は、まず、バレエが好きな人は必見。

カメラワークが斬新だ。

ほとんど真上からとらえたクラシック・バレエのシーンは、脚が見える範囲が限られているのにチュチュがまん丸でくるくる回るのが新鮮だ。
トウシューズの動きだけのクローズアップもある。

ロシアのバレエ学校のレッスン風景は、用語が全部フランス語なのをきいて、あらためてバレエはフランスから来たんだなあと思う。
半世紀以上前の日本でだって、意味の分からないフランス語ですべてのステップに名がついていたのだから、今はその「意味」が分かるのが不思議だ。

バロック・バレーを始めて20年にもなるのに、やはりクラシック・バレーのレッスンや振付がいまだに恋しいのだから、子供時代に習うということの重大さが分かる。
そういえば、ヴィオラももう始めてから四半世紀近く経つのに、まだ自分が擦弦楽器を弾けることの実感がない。日本から帰って久しぶりにカルテットの練習に行って、モーツアルトを2曲、ベートーヴェンを1曲弾きながら、こういうものを初見で弾けることが非現実的な気がする。くらくらするほど美しく、両者はあまりにも、違う。どちらも天からの贈り物のような感じがするのは同じで、こういう曲を一緒に弾いて味わう仲間がいることの幸せを思う。

で、このポリーナ。

監督のひとりアンジュラン・プレリオチャイは、フランスのコンテンポラリー振付師で、映画にあるエクス・アン・プロヴァンスのカンパニーは彼のものだろう。ジュリエット・ビノッシュが素晴らしい。

ポリーナのロシアの恩師は、「演技の難しさ、苦労を外に出して感心してもらえるのはサッカーのサポーターくらいだ。バレエはエレガンスと優美さのみを外に出さなくてはいけない」と言う。

これは楽器演奏でも同じで、難しいパッセージをいかにも難しい部分であるように弾くのは言語道断だ。
(けれども、フィギュア・スケートを見ていると、いつもこのアートとスポーツの境界が分からなくなる。優雅さ、演技力は芸術点になるけれど、各種4回転などはいかにも難易度が高い上に、オリンピックレベルの選手でさえ失敗して転倒することがあるのだから、エレガンスどころか見ている方までハラハラだ。水泳や陸上では実力を出せなくてもタイムや記録が伸びないだけで、「失敗する姿」を見せられるわけではない。でも、スケート・リンクで転倒したら、素人の転倒と同じでエレガンスはなく、克服できなかった困難さが見える。楽器演奏でも、バレエでも、普通は、ミスタッチの一瞬前、バランスを崩す一瞬前に分かるもので、「ごまかす」「失敗を回避する」というテクニックが身につく。弾いたふりをして一瞬音が消えても、流れさえあれば聴衆が脳で補完してくれる。スケートなら、4 回転を2回転とか1回転にするとかスルーするのと同じだ。でもスケートは先にいつ何を飛ぶかが分かっていてカウントされるからだろうか、それとも難易度が高すぎて、失敗の予測がつかないのだろうか、転倒シーンを必ずと言っていいほど見せつけられる。不可解だ。以上、余談)

次に、エクスの振付師(ジュリエット・ビノッシユ)は、うまく踊れるのは当然で分かっている、もっと自分自身を表現しろ、恐れや拒絶、人生の中で足りなかったこと、などの情念を踊らなければ何の意味もない、と言う。ダンサーでなくポリーナが踊るのだ、と。

別のオーディションでも、手足が動くのは分かった、それを見せる必要はない、自分にしかできないことを見せろ、と言われて、床に寝転がるが、追い返される。

ベルギーの即興のクラスで、「動物になれ、模倣でなくエネルギーを表現しろ」と言われて、はじめて、子供のころにやっていた「何かになりきる」自由さを少し取り戻す。

最後に、自分の振付でフランスのフェスティヴァル参加のオーディションを受ける。

アンジュラン・プレリオチャイ(フランス語ではこう発音されるが日本語ではプレルジョカージュという表記があった)は、難民としてフランスにやってきたアルバニア系ユーゴ人の両親から生まれて、パリ・オペラ座バレエ団に所属したクラシック・バレエ出身だ。共同監督のミュレールは彼の伴侶であり、エリック・ロメールの弟子でもある。

プレリオチャイの振付は、映画の中のビノッシュもそうだが、徹底したクラシックの要素が前提となっている。ラストの舞台でポリーナがアドリアンと踊るところ、アドリアン役の俳優はプロのダンサーでないのにすごい(ポリナ役は600人から選ばれたマリンスキー劇場の本物のバレリーナだ)。

私はコンテンポラリーが好きではないけれど、これを見ると、男と女の体の美しさ、体の使い方の美しさに、圧倒される。
バレエの歴史において、バロック・バレーにあった心身統合の官能の追求が、クラシック・バレーの技巧、難易度の高さ、商品となるヴィルチュオジテへと変わっていった。
コンテンポラリーは、バロック・バレエに戻る代わりに、時計の針をさらに進めて、螺旋的にバロック・バレエの臓腑的な官能をクラシックのテクニックの彼方に再発見したという感じかもしれない。

単に、動物的な即興のエネルギーとか、情念を垂れ流すというのではない。
考えつくされた情念の再構成、即興に限りなく近く見せるよう計算しつくされた緻密に統制された流れ、など、実はとてもバロックだ。

私がこれまで苦手だったのはプリミティヴ系のコンテンポラリーだったらしい。

思えば、「大地を踏みしめて、エネルギーを吸い上げて、声を上げて叫んで、自分の内なるマグマを噴出して」系の即興ダンスのクラスにも何年か通ったことがある。

楽しくはあったし、そこに通ってくる人の性格やリアクションを観察するのもおもしろかった。

でも、自分も含めて、踊っている人たちの体、姿が特に美しいと思ったことはない。

見て楽しめるのはやはりクラシックのバレリーナの体の使い方かなあと思っていた。

バロック・バレエでも、プロで踊っているほとんどすべての人はクラシックから転向した人だ。
(コンテンポラリーやロマンティックから来た人もいたが。)

ポリーナの映画は、若い女性の「自分探し」のような、ある意味で平凡なテーマなのに、その若い女性が苦行者のように肉体を鍛え上げる特殊な人物であり、心と魂の迷いや震えが肉体のパフォーマンスと一つになっていることから強烈なインパクトを受ける。

時代は携帯電話の形から見て古くない設定のようだが、社会主義が崩壊した後のロシアでも、アメリカの曲を積極的に使う振付師が「愛国心が足らない」と批判されるという話は結構リアルだった。

寒そうだし、いろんな意味で、ロシアに生まれなくてよかった。

パリでこの映画を観た同じ日の夜、TVで2003年のクリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』をはじめて観た。名作の評判高い映画なのに、後味も悪いし、あまり気に入らなかった。

『ポリーナ』の方がいい。

なぜだろう。

(ミスティック・リバーについては次に)
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# by mariastella | 2016-11-20 01:56 | 映画

「感動」の文化史

11月後半から新しい仕事に専念するつもりで、少しの間、テーマとは別の本を読む贅沢を味わった。この本はシリーズで、いつも最高に面白い。

なんでもネットで検索できる時代でも、圧倒的に豊かで整理された上質の情報が編集されているこのような本を読むのは至福の時だ。

“Hisoire des émotions” (Seuil) の1巻2巻だ。

情動、感動というものの文化史という感じで、ヨーロッパにおいて人間の感動表現がいつどうして生まれて受容され展開されて行ったかが豊富な図版と共に紹介される。
ぱらぱらと読んでいるだけでも発見の連続で楽しいが、私が真っ先に読んだのは、もちろん、第一巻で、Gilles Cantagrel というバッハ研究者でバロック音楽学者の受け持つ項目『L'émotion musicale à l'âge baroque』(バロック時代の音楽的情動)というやつだ。

16世紀までは、神へ捧げる賛歌は中世の神学と同じで完璧な秩序によって高みへ上ろうとしたポリフォニーで、そこには人間的な「情動」がなかったが、ギリシャ演劇の復活の試みと共に「人間の情動の演出」が生まれていった経緯が語られる。

音楽がディスクールになること、作曲者と演奏化のレトリックとロゴスが聴衆のパトスを喚起することなど、これまでに何度も読み、弾き、聴いてきたことではあるが、非常に明快にまとめられていて分かりやすい。

音楽がディスクールになることと、ダンスがディスクールになることの関係をもっとパラレルに考えてみたい。
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# by mariastella | 2016-11-19 03:07 |

トランプとアメリカのカトリック (移民政策とプロ・ライフ)

11/15、バルティモアで秋のアメリカ司教会議の総会が開かれて、新会長に67歳のダニエル・ディナルド枢機卿、副会長に65歳のロスアンゼルス大司教のホセ・ホラシオ・ゴメスが選ばれた。

会長は慣習的人選ですんなり決まったけれど、10人の候補者から、三度目の投票でゴメス大司教が副会長に選ばれた意味は大きい。

彼は熱心なアメリカの移民支援者であり、この人選が、2, 3百万人の不法移民を追放すると言っているトランプ新大統領への牽制を示しているのは確かだろう。

ゴメス大司教は副会長に選出された最初のヒスパニック聖職者だ。
メキシコ生まれで今も姉妹がメキシコに住む。アメリカ国籍を取得したのは1995年。
彼がトップに立つロスアンゼルスは70%がヒスパニックであるアメリカ最大の司教区である。

トランプ選出の2日後にロスの市長と共に移民とその家族を擁護するコメントを発した。

トランプが「壁を造る」といった場所に橋を渡さなければいけない、
移民が恐れて逃げたり隠れたりするようなことがアメリカに起こってはならない。

これを受けて、11/14に「人間的な政治を推進し移民の尊厳を守る」と確認した 270人のアメリカ司教団は、翌日ゴメス大司教を選出したわけだ。

もっとも、移民難民に対するバティカンの路線を継承するアメリカ司教団も、フランシスコ教皇のすべての方針に満足しているわけではない。

向こう3年のアメリカのカトリック教会の優先事項は「福音宣教、結婚と家族、人間の命と尊厳、召命と宗教の自由」とされた。
19日に教皇から枢機卿に任命されるインディアナポリス大司教は教皇の推進する「環境保全」がそこに含まれなかったことを悔やんでいる。

司教会議に属する「正義と平和協議会」の会長にも、教皇に近い立場のサンディエゴ司教に対して、軍隊担当の司教であるティモシー・ブログリオが127対88で選出された。

移民の支援は本来国境のないカトリックとしては当然だとしても、実は今回選出されたゴメス副会長も、トランプに投票したカトリック信者に支持されるプロ・ライフの保守派で、オプス・デイのメンバーだ。

民主党政権によって同性婚や中絶合法化が広がったことに対する不満が、今回の選挙でのアメリカのキリスト教徒のリアクションの一つだった。
ディナルド枢機卿は2015年10月に「家族シノドス」の結果を憂える手紙を教皇に出した13人の司教の一人だった。

司教総会で強調されたもう一つのテーマはルイジアナ、ミネアポリス、ダラスなどで起こった人種差別に関する抗議行動で、トランプの当選によってレイシズムが高まってはいけないことに警報を発している。これは妥当だろう。

しかし、プロ・ライフなどの事情をフランスから見ると、アメリカのメンタリティの中で政教分離は根づいていないなあ、と思わざるを得ない。
革命を生き延び、政教分離や共和国主義を自分のものにしたフランスの司教会議では絶対出てこないようなことが出てくる。

例えば、前にも書いたが、中絶の合法化は政治の問題で宗教の問題ではない。
中絶を自由に選択した女性やそれを助ける医療機関を「非合法」として闇に追いやることは間違っている。

「中絶を非合法にしない」ことと、生命の尊厳としてのプロ・ライフは本来別の問題であるはずだ。

これも前に書いたことがあるが、法律上の合法化が必要であることとは別に、カトリック教会が中絶をしない選択をした女性、中絶ができなかった女性と、生まれた子供を全面的に支援し、励まし、祝福するのは大いに意味がある。

一方、レイプされたり胎児の障碍が見つかったりなどの理由、あるいは経済的、社会的な理由であるにせよ、女性が中絶を決意するのはそれだけで大変なことだからこそ、そこに違法性などを加えてさらに苦しめるのは神の無限の「いつくしみ」に反する。
それでなくとも中絶は「試練」であるが、それでも、それを克服する方法はいろいろある。
すでにいる他の子供を愛することに集中する、次に子供をつくる、養子をとる、ペットを飼う、趣味や仕事や他のクリエイティヴなことや利他の行為にエネルギーを振り向ける、いろいろな方法で、「喪に服」したり、「忘却」したり、「ポジティヴなものに変換し」たりすることは不可能ではない。

それに対して、望んだ子供を産む人はもちろん問題ないにしても、宗教的な理由、身体的な理由(中絶不可能な時期になった)、社会的な理由(戦争、中絶可能なシステムや支援者がいないなど)などによって中絶できなかったりしないことを選択したりした女性がその後の試練を克服するハードルは高い。
自分だけでなく子供の命を守り、子供を愛し、責任を全うしなくてはならないからだ。

いや、望んで産んだ子供だって、親や子の障碍、事故、病気、貧困、両親の不和などによって母子の関係が難しいものになることなどいくらでもある。
全ての子供、すべての人は「中絶をしなかった母親」から生まれたわけだが、生まれてからその母親との関係性に苦しむ例は少なくない。

その上に、レイプだの不倫だの障碍などというスタート時点のハンディがあるとしたらもっと大変だろう。

そんなケースを助ける社会政策ももちろん必要だが、そんな時こそ、「霊的な権威」が、「母子を無条件で祝福する」ことの意味は大きい。

中絶を選択した人、あるいは子供のいない人、子供をもたない選択をした人たちが人生における試練の克服のために「霊的権威」による祝福を必要とする度合に比べて、子供との関係において悩み続ける人たちと、それを支援する人たちが、無条件でプロライフを肯定され、励まされ、祝福される必要は無視できない。
だから、宗教者が家庭や母子関係を祝福するのは当然であり必要だ。

しかし彼らが、家庭や母子関係を選ばなかったり選べなかったりする人に石を投げるのは言語道断であり、そのような法律に加担するのも間違っている。

でも本当に深刻な問題は、子供がほしいのに、社会的、経済的、伝統的なさまざまな基準や圧力やそれらの結果としてのそ育児の困難さ故に、中絶をせざるを得ないというケースかもしれない。

「自由な選択」というのは簡単だけれど、「自由」にも霊的な根拠が必要だと、つくづく思う。
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# by mariastella | 2016-11-18 03:45 | 宗教

マレク・シェベルの死。 ベリーダンス。

宗教人類学者でイスラム啓蒙主義を唱えていたアルジェリアのマレク・シェベル(Malek Chebel)が先日(11/12)パリで亡くなった。63歳。残念だ。

イスラムの核にある陶酔やエロティシズムについても語った人だった。
スーフィズムに近い。

ベリー・ダンスが、女性の腹を「商品」としてではなく装飾品として提示した画期的なものであるとか言っていた。これは盲点だけれど本当だなあと思う。

私はサウジアラビアとモロッコでベリーダンスの講習に参加したことがあるけれど、すごく健康的で楽しかったのを思い出す。
先生の腹の動きの見事さに惚れ惚れした。
腹筋が割れているというのではなく脂肪もついている。
その柔らかさの不思議ななまめかしさは、確かに商品としての性的なものではない。

変な話だけれど私はうちの猫たちのしっぽの動きを、本体と切り離してイメージするのが好きだ。
柔らかい毛におおわれた爬虫類、というシュールな感じで、くねくね、するりと動く。
しなやかで意外性もある妖しい美しさだけれど媚びるところはみじんもない。

ベリーダンスの腹にも同じように魅惑される。

これって別にイスラムと直接の関係がないのかもしれないとも思うけれど、シェベルが言うのだから、イスラム文化圏の産物なのだろう。
まあ、気候的に言ってもヨーロッパで生まれることのないタイプのダンスであることは間違いがない。

モロッコでは男性も参加していた。
女性の腹の方が絶対に、やわらかで美しく妖しい。
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# by mariastella | 2016-11-17 03:47 | 雑感

フランスの大統領予備選挙とキリスト教

来週末が投票日となるフランスの共和党予備選に立候補している7人のうち1人にジャン=フレデリック・ポワソンという人がいる。

知名度も低く、世論調査では下位だがこの人の公式のプレゼンテーションが興味深い。

姓のポワソンというのは「魚」という意味だ。
だからポワソンのところに魚のアイコンをあしらっている。

でもこのマークはキリスト教のシンボルでもある。
ギリシャ語の魚「イクチュス」は、イエス・キリスト、神の子、救い主ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡという五つの単語の頭文字をつないだもので、初期キリスト教徒が迫害された時代にキリスト教徒同士のが確認しあう暗号の役目も果たした。
受難の十字架と同様のシンボルだが、魚が海という生命の発祥地に生きることからキリストの神秘そのものも表すとアウグスティヌスが書いている。

ポワソン候補は、このシンボルマークを縦にしているのでポワソンのPの形と似ていなくもないし魚の形で名前を表しているので、一見、なかなかしゃれたロゴに見える。

でもこのポワソン候補はキリスト教政治団体に所属していて、カトリックであり、フランスのようなカトリック文化圏の国においてはこのマークがサブリミナル効果でキリスト教を喚起するのは計算済みだろう。
我らの信ずるところを表に出そう、というのがスローガンだ。

ただし実態は、環境規制に反対する新自由主義者で、蝶々や草よりも親子が大切なのだから環境省は家庭省に従属すべきだなどと言っている。

カトリック陣営からはもちろん異議も出ている。
環境保全を訴える教皇回勅にあるように、環境も人間も神の被造物であり、環境を守ることこそ、すべての命、子供たちの未来にとっても重要であるからだ。

フランスではさすがに、ポワソンのような主張は、環境保全に対するトランプのような主張(アメリカ経済を牽制する中国の陰謀だ)のようには受けない。

COP 21のパリ条約の主導と「成功」は、昨年11月の多発テロの後でのフランスではポジティヴな要因だという合意が形成されているからだ。

でも、例えばサルコジが予備選に勝利したら、ポワソンに取り入って、カトリック保守派の票を固めようとするに違いない。この人が予備選に立候補できたということ自体が、必要な推薦数を確保したということだから十分に力になる。

トランプはアメリカの「中絶禁止」陣営にもすり寄っている。
政教分離共和国主義が徹底しているフランスでは、さすがに今はそこまではいかない。

「中絶の禁止」と「中絶の合法化」とは決してシンメトリーな対立ではない。

「中絶の禁止」とは、中絶する女性や関係者を裁くこと、罰することだが、

「中絶の合法化」とは、中絶を強要するものではもなく、中絶しない人を罰するものでもない。
選択の自由を保障するものだ。

本当の意味での「自由の行使」とは、いつも霊的なものとつながる。

中絶そのものに反対か賛成かという対立とは違うのだ。

「中絶禁止」はキリスト教のブルキニ問題だという人がいた。

女性を性的な側面にモノ化して何かを力で強要するからだ。

「トランプ・ショック」の後でフランス共和党予備選(木曜日に最終公開討論)があるおかげで、いろいろなことが見えてくる。
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# by mariastella | 2016-11-16 00:18 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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