L'art de croire             竹下節子ブログ

dマガジンと、遊川和彦さんのおかあさまの話

インターネットのdマガジンというので日本の雑誌を拾い読みしている。このおかげで、日本に帰った時ももうほとんど週刊誌などは買わない。

そして日本にいても今まで立ち読みすらしたことのないような雑誌まで時々読む。
たとえば「男性ファッション誌」のカテゴリーに入っているGQ JAPAN では鈴木正文さんのEDITOR’S LETTERを今は毎月読んでいる。

全体としては消費文化の爛熟、煽情、健康カルト風記事の蔓延にショックを受けるし、たまに、「欧米では何々…」「キリスト教は何々…」とかいう記事の中の明らかなエラーや偏見や混同を読むと驚いてクリップしておくが、いちいち訂正する暇もない。

いろいろな人のインタビュー記事などは楽しく読むが、昨日読んだ記事の中に素敵な言葉があった。
週刊現代(1/28日号)にあった遊川和彦さんという脚本家(私とほぼ同じ世代)の回想にあるおかあさまの言葉だ。
広島県で母子家庭を支えて苦労していたおかあさまに、東京の映像系の専門学校に行きたいから「学費だけ出してくれ、後はバイトして迷惑かけないから」と息子が頼んだ。

するとおかあさまは笑って了承し、

「私に与えられるのは自由だけだから、あなたの好きにしなさい」

と答えたという。

いいなあ。人間に自由意志を与えて見守った神さまみたいだ。

母子の絆、と言っても、一方が一方を縛る絆であってはいけない。
きっとこのお母様は自分の息子をよく見ていて、信頼が二人の絆だったのだろうなあ。

親の「束縛」から自分を解放して「自由」を奪って自立する人も多いだろうけれど、親に自覚的に「自由」を与えてもらって自立できる人は、「親を否定する」という「原罪」からも自由だ。

愛と祝福は似ている。
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# by mariastella | 2017-01-17 02:59 | 雑感

ヴァン・ゴッホの耳と宗教

先週の土曜日、Arteでゴッホの耳切り事件の秘密解明のようなドキュメンタリー番組を見た。

耳を剃刀で切り落とした事件は、実は切ったのは耳たぶだけだったというのが通説だったのだが、実際に治療した医師のデッサンが出てきて、ほぼ完全にそがれていたことが証明されたという話だ。

ゴッホが耳切り事件の後でアルルの住民80人の署名で危険人物だとされて精神病院に監禁されたが、実は30名で、ゴッホが入院して二日目にもう彼の家を別の人に賃貸契約してしまったのを、ゴッホも契約中だから抗議したので困った家主がバーに集まった人などに署名を頼んだものだったという話もある。事実は、癲癇の発作はあったものの、何ら「危険人物」ではなかったという。

それら20世紀を通じて語り継がれてきたいろいろなことが、アルルに30 年住むイギリス人女性が7年かけて調べ上げて真実に迫ったというドキュメンタリーなのだけれど、私の驚いたのは別のことだった。

私も、私の世代の日本人にはよくあると思うけれど、ごく子供のころからゴッホの絵と耳切り事件などの話に親しんできた。「ゴッホの手紙」も読んだし、ある意味「伝説の人」の一人だった。
私が小学六年生の時に読んだ画集と伝記は今でも手元にある。
ゴッホの過激さと悲劇と、孤独、貧困、そして迫力のある絵柄には強烈な印象を受けたのを覚えている。

で、改めて確認すると、確かに、正気を失って耳を切った、血まみれの耳をもって娼館に行き、娼婦に渡して気絶された、などとある。

でもこの番組で初めて知ったのは、27歳でハーグで知り合ったシーンという娼婦をモデルにしたという話の真相と、パリを発ってアルルに発った動機だった。

シーンは、子供を抱えて妊娠中の路上生活者でゴッホが連れて帰って1年半同棲し、生まれた子も入れて二人の子供もいっしょに、シーンに守られているという安心感で落ち着いた生活を送ったというのだ。

もうひとつ、パリよりも南フランスに行きたいと思っていたのは事実だったろうが、突然それが排他的な地方都市アルルに特定されたのにはわけがあるらしい。
出発のひと月前に、アルルで狂犬病に罹った犬に腕をかまれて一昼夜かけてアルルからパリのパスツール研究所に連れてこられた16歳の少女がいた。ラッシェルというこの少女はパスツール自らの治療を受けて一命をとりとめたが、かなりの傷跡が残ったという。
ゴッホはこの少女とパリで遭遇した。で、彼女にインスパイアされたか、彼女を追う形でアルルに行ったらしい。

当時のアルルでは、21歳の成年に達していれば売春は公認の職業だったが、16歳のラッシェルは娼家で下働きをしていた。
ゴッホは二週間に一度はこの娼家に客として通っていたが、その度にラッシェルにも会っていたのだろう。切り落とした耳をもってラッシェルを呼んでくれと頼み、「これをぼくの記念に」と渡して気絶されているが、単に正気を失って理解不可能の行動をしたというより、ラッシェルに特別な思いがあったという方が納得できる。

そう思ってみていくと、ゴッホがプロテスタントの牧師の息子で、自分も牧師になりたくて神学も学び、労働者の運動も支援し、画家になってもオランダでは不幸な人、貧しい人、虐げられる人のようないわば「社会派」の暗い絵ばかり描いていたことも、シーンへの寄り添いも、ラッシェルヘの思いも、いや、ゴーギャンを呼びよせたように、画家の共同体を作ってみんなの収入を分け合う「共産主義」を夢見たのも、すべてひとつながりのことであったように思う。

アルルで住んだ場所が、1840年代にできた鉄道で働く労働者の住む界隈でプロテスタントが多かったということも分かっている。
1952年に80歳で死んだというラッシェルの曽孫はまだアルル近くに住んでいるらしいが、ひよっとして彼女の家庭もプロテスタントだったのかもしれない。

狂犬に咬まれて死の危険があったのだから、病院付きのカトリック司祭が終油の秘跡のためにやってきて、彼女がプロテスタントだということでプロテスタント教会になんらかの問い合わせがあったのかもしれない。ゴッホはカルヴィニストだから、少女もひょっとしてカルヴァン派で、そのつながりでラッシェルと知り合ったということもあり得る。これは全くの想像に過ぎないけれど。

このドキュメンタリーではそういう面は注目されていないけれど、今思うと、たった37歳で自殺したこの画家の不幸や悲しみへの共感や「共同体」への熱い理想と信仰の関係が分かってきて痛ましい。
ゴーギャンがいさかいの後で出て行った時の怒りや絶望の深さもその理想の高さ故だったかもしれない。

ゴッホの画集をつくづくと眺め返しながら、いろいろなことを思う。
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# by mariastella | 2017-01-16 08:42 | アート

フランス社会党予備選

フランス社会党の予備選も、共和党にならってか、候補が7人で、うち女性が1人だけ。

10日間で3度も公開ディベートがあるあわただしさで、1度目が12日の夜にあったが、盛り上がりはなかった。

それと並行してマクロンやメランションがミーティングで盛り上がっていた。

社会党と離れて中道左派を行って大人気の若いマクロン。
彼の周りに集まる人々が本当に投票所に出かけるのかどうかは問題だ。

社会党との共闘にうんざりして「本当の左派」を行くメランションは5年前より人気がある。

左派はこの5年間の社会党政権にうんざりしている。社会党予備選に出ている7人のうち4人までがヴァルスを含めて現政権の大臣経験者だから、予備選で勝って正式な社会党の候補になったとしても、4月末の決選投票にまで進める確率は少ない。
今の社会党は、ENA出身のエリート中心のエスタブリッシュメントが采配を振るってきたから、「民衆」から見放されている。

ここで、メランションのような「真正左派」のような受け皿に、「民衆」が向かうのならいいけれど、それがないとマリーヌ・ル・ペンのような極右に向かう。
アメリカの民主党予備選でバーニー・サンダースに希望をつないでいた人たちの票が、サンダースが敗れてからトランプに流れたことの二の舞になってもおかしくない。
実際、メランションとル・ペンの政策は重なって、この両極の二人がアンチEUと言っていい。その意味で逆に、ル・ペンの票を回収するかもしれない。

けれど、アンチEUではない「慎重で常識的な」左派は、そうするとメランションに投票することは控えるだろう。
でも社会党にはノンを突き付けたい。
かといって共和党のフィヨンには原則として投票したくない。

そこで、マクロンの登場。
しかしマクロンもついこの前までオランド政権の経済相だった。
ネオ・リベラリズム財界との相性もいい。
社会党に愛想をつかした「民衆」がマクロンなんかに投票してもいいのだろうか。

しかし、民衆がうんざりしているのは共和党・社会党にかかわらずここ20年の政権の無能さだ。

民衆が期待しているのは「変革」。
ラディカルな変革は、近代革命の旗手だったフランスのお家芸でもある。

それなら、経歴にかかわらず、わずか38歳のマクロンは、大いに「新しく」見える。

フランス革命が始まった年、ダントンが30歳でロベスピエールは31歳だった。ナポレオンは35歳で皇帝になった。マクロンはそれを意識しているし、それが伝わっている。

社会党予備選の第一回目のディベートは、かれらの間で互いを批判しない、という申し合わせがあるようで、上品だけれど覇気のないものだった。
まあ、社会党の現政権が不人気だと分かっているのだから、下手に批判すると藪蛇でもある。

番組後の視聴者アンケートではヴァルス、モンブール、アモンの三人が有力とか。

この3人を見てフランスっぽいと思うのは、プライベートだ。

ヴァルスがスペイン生まれでフランスに帰化していて、連れ合いは有名なヴァイオリニストだ。

モントブールは女性にもてて、最初の妻が貴族。他に女優、ジャーナリスト、元大臣などの女性と関わっている。

アモンの連れ合いはデンマークとカタルーニャのハーフのエリートで、高級ブランド・グループLVMHで要職についている。

アメリカならヴァルスなど大統領選に出る資格もない。他の候補もいろいろ言われそうだ。

ヴァルスの攻撃的な雰囲気は今やサルコジを彷彿とさせるし、アモンは大統領という雰囲気ではない。

「見た目」だけで言うとヴァンサン・ペイヨンが一番「大学教授風」の品格で、こういう人が、軍事と外交と共和国の統合という本来の大統領ポストを守って、内政はもっと民主的なシステムにすればいいんじゃないかと思ってしまう。

ともかく「社会党」は、右をマクロンに左をメランションにはさまれて、今の政権政党だというのに、冷ややかに見られている。

本選でマクロンが選ばれればまさにマーケティングの勝利だなあと思う。
今の時代の「若さ至上主義」もベースにあるかもしれない。

ともかく、来週の今頃は、社会党予備選の決選投票に出る2人が決まっている。
その2人のディベートには少しまともに耳を傾けるつもりだ。
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# by mariastella | 2017-01-15 02:09 | フランス

分からない日本語など その4

(これは前の記事の続きです)

Exil(亡命)に引かれているのはフィンランド語Kaihoとウェールズ語hiraethとドイツ語heimweh。

フィンランド語は、行きつくことのない遠い場所を求める嘆き、孤独と激しい欲求と実現不可能の感覚。

ウェールズ語は、亡命の傷。二度と戻れない故郷へのノスタルジー(その故郷は実は訪れたことなどない場所かもしれない)。

ドイツ語は望郷。しかしこの他に対照的なFernwehという言葉があって、それは自分の地平をどんどん広げていくという意味で、これについての解説があった。

私は「Fukushima」など思い浮かべてしまった。

最後の La Fuite 「逃避」。

中央アメリカのスペイン語のAchaplinarseは逃げるかどうかためらった後、チャップリンのように慌てて逃げるという意味だそうだ。
ブラジルのポルトガル語のQuilomboは、逃亡奴隷が奥地で作った共同体のことで、その他にバスク語と日本語があって、この日本語がこの日本語にこの号の最後を飾る長い解説(毎日新聞のTakashi Ishizuka氏の記事)がついている。

この日本語も私は分からなかった。

ひら仮名で検索したら出てきた。

Tendenko 「てんでんこ」である。

津波が来たらてんでんばらばらに逃げろ、ということだ。
他人の指示を待ったり、他の人と一緒に行動しようとする傾向の強い日本人だからこそ、津波の被害を体験した地域ではこのサヴァイヴァルの言葉を言い伝えて来たという風に読み取れる。

フランス語にも同じ意味のsauve-qui-peutという逃げることのできるものはともかく逃げろ、という表現がある。
連帯とか協調とか言っていられないタイプの危機があるということであり、また、そういう風にとりあえず自分の安全のみ確保するという反射によって救われる危機があるということだ。

それにしても、この年末年始特別号のクーリエ・インターナショナルに取り上げられた日本語、

Nensu、
壁ドン、
心中、
鼻血、
おかま
鶏姦、
のぞき、
ちらりズム
うなじ、
腹芸、
阿吽、
過労死、
居眠り、
OGU、
ネトウヨ、
飲みニケーション、
てんでんこ、

って...。 

得意になってこれらの言葉を選んだジャーナリストの目に映っている日本ってどんな国だろう ?
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# by mariastella | 2017-01-14 01:56 | 雑感

分からない日本語など その3

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Corruption(腐敗、汚職)の項には日本語は引かれていません。 
ほっ。安心していいのか・・・・

Mots dangereux (危険な言葉)。

ペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで引用されている日本語一つは、

Neto-uyo、ネトウヨでした。

これにはかなり突っ込んだ解説があって、東京新聞が「安倍首相が自分のFacebookにネトウヨのサイトの記事をシェアしたことがある(後に削除)」だとか、左派の時事解説者があってである北原みのりが安倍政権を「ネトウヨ内閣」と呼んだことがある、などと書いてある。

次のparadis(楽園、天国)では日本語は引かれていず、アラビア語が四つと英語一つだ。

英語はLubberlandで、怠け者専用の神話の楽園とある。知らなかった。

次のキイワードは IVRESSE(酩酊)だ。

ロシア語二つ、ドイツ語、デンマーク語一つずつ、ここでも日本語が一つ登場。
日本語の頻度が高い。

その日本語とは、

Nominication だって。

そこにもかなり長い解説があって、日経の統計では60%の日本人が、勤務後の飲み会に行く義務感を感じているとして、東洋経済のサイトのブログに「自腹を切る残業みたいなもの(パトロンが一緒の時は別)」、とあったと引用、日経からは、飲みニケーションについてのセクハラ注意の記事など紹介している。

他の国の言葉は泥酔、二日酔い、迎え酒に当たる言葉で、ロシア語のものにだけ、深刻な社会問題が提起されている。

次に、Bonheur(幸福)。

中国語はQING(遠い山の緑、または青)。ハンガリー語が「他者のつらさを見て得られる幸福)、ロシア語は「払うつもりでいたのに突然無償になる幸福」という意味の言葉。

ナバホ・インディアンの「生命、自然の美しさを見て喜びを得る生き方」、タイ語の「人生のすべてに喜びを求める」、スウェーデン語の「人生を深く愛しぎりぎりまでそれを生きようとする人」、ノルウェー語の「自然との完全な調和の状態」などと、なかなか哲学的なものもある。こにsekasekaという言葉があったので、また変なチョイスの日本語かと思ったら、コンゴやザンビアの言葉で、「理由なく笑う」という意味だった。 ほっとする。でも、幸福の項で取り上げられないのも寂しい。

次のHiver (冬)には圧倒的にロシア語が多い。エスキモーのイヌイット語もある。チョイスには地球温暖化のエコロジー的視点が感じられる。日本語はない。

最後は Exil(亡命)とLa Fuite(逃避)という難民問題を抱えたヨーロッパならではのキイワード。

さて、この二つに日本語は引かれているでしょうか? 引かれているとしたら、何でしょう?

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-13 07:10 | 雑感

分からない日本語など その2

(これは昨日の続きです。)

まず昨日の答え。

Travail(仕事、労働)を表す「よその言葉」として引かれているのが英語ふたつと日本語ふたつ。

まず英語がto cram で、日本語がkaroshi だ。to cram は過労死の前の状態かも。

「働きすぎによる死、日本では法律で認められた言葉」、と解説にあった。
これは確かによく知られていてフランス語として通用している場合もあるくらいだ。

二つ目は英語がTo moonlightで、夜に二つ目の仕事をすること。非合法なものが多い、とある。

日本語はinemuri。

丁寧に解説されている。居眠りはほとんど国民的スポーツで、ケンブリッジの人類学者が電車の吊革につかまったまま寝るサラリーマンの存在を報告していると。
日本はOECDの中で韓国に次いで睡眠時間が少ない、公共の場のセキュリティがしっかりしているのが要因かもしれない、週刊文春は居眠りがマイクロ・シエスタの役割を果たして健康の役に立つと書いている、オムロンは議員が60%以上居眠りしたら自動的にSMSを送って起こすというアプリを開発した、などといろいろ。

Créativité(創造性)の項で引かれている日本語は ogu 。

私には意味が不明。

解説には「使用不能な実用品を発明する業。例えば、パスタを冷ますためにフォークにつける携帯用の扇風機」とある。何? (検索しても出てこない。どなたか教えてください)

さて次はCorruption(腐敗、汚職)。

メキシカンが圧倒的に多い。果たして日本語は引かれているでしょうか? いるとしたらなんだと思いますか?

次が Nouveaux riches(新興富裕層)。ニューリッチ。ここは中国語のオンパレード。「成金」という日本語はまっとうすぎるのか出てきません。

その次は Mots dangereux (危険な言葉)。

引かれているのはペルシャ語とヒンディ語に堂々並んで日本語一つ。何だと思いますか?

次がparadis(楽園、天国)。

日本語は引かれているでしょうか? いるとしたら何?

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-12 03:19 | 雑感

分からない日本語など その1

日本でもクーリエ・ジャポンという関連誌があるフランスの『Courrier international』の1363号は12/15-1/4 でいわば年末年始の特別号だった。

「よその言葉」(他者の言葉)というテーマで、フランス語のいくつかのキーワードの外国語を紹介してフランスにはないコンセプトを開設するという比較文化的なものだ。

まあ、面白おかしくできているので、恣意的な選択であるのは当然なのだけれど、日本語が引かれている率がかなり多くて、しかもその中には私の分からない言葉がいくつもあった。

いくらサブカル的選択としてもなんだか抵抗のあるものもある。

最初の言葉がPouvoir(権力)。

これには日本語が紹介されていない。ジャワ語、中国語、ヘブライ語、ハンガリー、ウクライナ語などが挙がる。

次のVoyous(不良)は ロシア俗語、ブラジルのポルトガル語みっつ、ローマ俗語ふたつなど。

次がAmour(アムール、愛)。
ここにはメインページに日本語がふたつも。その後のサブページにはアラビア語が目立つ。たとえばAlkhoullaは愛と友情の混ざったもの、というようにさまざまなニュアンスだ。ここにも日本語がなんと7つも。

私が思いつくとしたら愛、恋、大切、いつくしみ、とかだけれど、ここに引かれているのは、

メインの2つが

nensu
kabédon

壁ドンは私にもわかった。解説には、男の子が女の子を壁に押し付けて右手を壁につけ、目を見つめる、とあり、日本では女の子はこれが大好きだとある。・・・・・・

nensu は胸を高鳴らせて同性の人にやさしく思いをはせる、とある。 ???

サブのリストに出てくる日本語は、
Shinju、
Hanaji (性的興奮。日本では鼻の大きさが男性器の大きさを表す、とある)、
Okama(通常受け身の男娼)、
Keikan(解説を読むまで何のことか分からなかった)、
Nozoki、
Chirarism、
Unaji

の七つ。

話を面白くするためだとしても「愛」で出てくる日本語がこれってあんまりじゃ…。
これを担当したのが日本にいるフランス人ジャーナリストだとしたら、サブカルオタクみたいな人で他の日本語ができるフランス人に対して自分のディープな知識を披露したいのだろうか。

その次がNON-DITS
つまり、言われないこと。(ディスクールの最中の「えー」とか「うー」とかいうためらいは、言葉と同じくらいに理解にとって不可欠なものである、とある)

ここには、ペルシャ語、韓国語が一つずつ、日本語は二つ。

Haragei(内臓的、間接的、非言語的コミュニケーション)
AH-UN(モノの最初と最後。とても親しい友人間の無言のコミュニケーション)

だって。

腹芸には「腹にいちもつある」みたいな言葉とリンクしている感がもっと強い気がする。
阿吽はいいとしても、どうせなら仏教的な意味も書いてほしい。

次の「怒り」には米語三つと英語一つ。

このチョイスを見ているとまあ、時事問題を解説したいという気持ちは分かる。

Redneck,  white trash,  hillbilly,  underdog

日本語はない。日本語のネット語の「死ね!」とかは出てこないようだ。

次はTravail(仕事、労働)。

ここには、ドイツ語、メキシカン、セネガル語とともに英語ふたつと日本語ふたつ。

何だと思いますか?  (続く)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
次はCréativité(創造性)。英語、アラブ語、ドイツ語、メキシカン、ヒンディ語、ボーランド語、エスペラント語とにぎやかで、日本語も一つ入っています。何でしょう ? ちなみに私はこの日本語も解説もよく分からなかった。

(続く)
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# by mariastella | 2017-01-11 00:38 | 雑感

Jeenerの新作『Mahomet』その2

昨日は、このMahometについて、今のフランスの状況を分析して続きを書こうと思っていた。
2005年以来のテロ対策の方向性のエラー、アメリカや中近東と違うヨーロッパ向けのテロの方向性と戦略の誕生、イスラム・イデオロギーのフランスを的にしたロビーCCIFとそれがメディアと左派社会学者(エマニュエル・トッドら)に助長されてISのテロを巧妙に使い、問題を混乱させている状況を詳しく書こうと思ったのだ。
でも、それをしていると、一冊の本になってしまうことが分かった。

だから、この問題についてはいったん筆を置こうと思う。
今書いている本の中に組み入れるつもりだ。

で、Jeenerの『マホメット』だが、これは決してイスラムの否定ではないが、Jeenerのキリスト者としての信仰告白になっている。

すごく単純に言って、イスラムがキリスト者に改宗を迫るとき、「唯一の神」なのに三位一体とか言って分裂させるのがそもそもおかしい、多神教だ、偶像崇拝だ、というのがある。

この戯曲でも、マホメットとペトリュスが、一人の女性の運命をめぐって、命がけの神学論争をする。
「コーラン」対「福音書」だ。

コーランは絶対の神の言葉。しかし大天使ガブリエルから伝えられた。
これに対して福音書も聖書も、聖霊にインスパイアされたにしても、人間の書いたものだから「人間の弱さ」を抱え込んでいる。

ところが、キリスト教的の神学的には、神の言葉(=ロゴス)が受肉して送られたのがイエス・キリストなので、もうそれ以後には神の言葉も必要ないし、それを伝える天使やそれを聞く預言者も必要ない。
ガブリエルが最後に現れたのは、マリアに受胎告知した時で、イエスが言葉を話せるようになってからは、イエス自身が「神の言葉」を体現していた。

だから、またガブリエルがやってきて神の言葉をマホメットに伝えたというのは受け入れられない。

その内容には関わりなく。

というのが、ペトリュスの立場だから、改宗を迫るマホメットと折り合うはずがない。

しかし、ペトリュスと妻の絆、神の前で結ばれた、という貞節の意志と、コーランで一般に定められたよりも多くの妻を娶る特権を行使するマホメットの女性観は当然対立する。

マホメットが25歳の時に40歳の未亡人と結婚し(3人の息子は夭折、4人の娘が残る)、その妻の死後9人の妻を娶ったことなども言及される。

この上演では、マホメットが若くて魅力的で、自身に満ち溢れ、自分の絶対的優位と正しさを信じ切って落ち着いているのに対して、ペトリュス役は妻もともに、きわめて「人間的」だ。
だから、マホメットの前で、妥協したふりしようとしたり、それが通じないと、怒りをぶちまけたり、支離滅裂な行動もとる。

けれども最終的には、

「あやまちある人を私たちがゆるすように私たちのあやまちをゆるしてください。」

という主の祈りを2人で唱えて去っていき、結局彼らの頑固な人間性を前にして、彼らを解放してしまったマホメットは、たった一人残って、

「神よ、私の弱さをおゆるしください」

と祈って芝居が終わる。

私たちはこの芝居を観て、Jeenerがなぜキリスト者であるのかを理解する。

ペトリュスは改宗を拒否したが殉教者にはならなかった。
妻を殺すと脅されても改宗はしない。

この2人を見ていると、日本のキリシタン迫害で、改宗せずに殉教した人々の気持ちがなんとなく分かる。

今までは、「踏み絵くらい踏めばいいのに。役人にいたずらに人殺しの罪を負わせることもないのに」と少し思っていたのだけれど。

そして、キリスト者としてのJeenerのことがよりよく分かるとともに、いろいろなことがはっきり見えてきた。

この戯曲で描かれているのは宗教の戦いや神学の戦いなどではなく、人間が信仰をどのように人間的に生きるかという話なのだ。

宗教は信仰の社会的表現であるが、信仰はイコール宗教ではない。

これからはこのことを分かりやすく書いていくつもりだ。
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# by mariastella | 2017-01-10 07:05 | 演劇

Mahomet

先日、Jean-Luc Jeener の新作戯曲『Mahomet』に行ってきた。

彼の劇場の今年最初のテーマは「宗教とライシテ」で、今とてもデリケートなテーマだ。

その上に新作が『Mahomet』なんて。

切符を買う人のほとんどが「モアメッド」と言っていた。
イスラムの預言者の名は、フランスではモアメッドで、ムスリムの名としてなじみがあるからだ(アラビア語の母音部分は国によっていろいろ変わる)。

これを「マオメ」と書いて読むと、そこいらにいるモアメッド君じゃないよ、最終預言者のマホメット(ムハンマド)だよ、という感じがする。

これが、大劇場だったら、私は怖くていけないだろう。すでにいろいろ話題になって警戒されているだろう。

舞台は前半が預言者とキリスト教徒のペトリュスの対話だ。
ペトルスはキリスト教のコミュニティの指導者的役割を担っている。
戦争に負けて連れ去られた妻を取り戻しに来る。
預言者は、イスラムに改宗するなら二人を生きたまま解放しようという。

真っ暗な舞台(と言っても観客席と同じ床だ)に明かりがつくと、金襴の布がかけられた椅子に預言者が座っている。

ちょっとどきどきする。

確か、預言者の顔を描くのも冒瀆で、演じるのもまずいのではなかったか ?

そう思う自分に驚く。

完全に、ここ10年来のイスラムへの警戒心が刷り込まれている。
舞台のマホメットを演じる俳優は若い。
イエス・キリストと同じ30代に見える。髭の具合もイエスっぽい。目はとても青い。

ペトリュスの方は年配でシーザーみたいな雰囲気だ。

マホメットの語ることばは慎重にコーランから引用されているらしいことが分かる。

それでも緊張を強いられる。

Jean-Luc Jeenerは 2005年くらいに、「宗教と正義」のテーマで、ヴォルテールの『Mahomet』を同じ場所で上演した。

その時と今では、イスラム過激派をめぐる情勢がかなり変わっている。

ヴォルテールの『マオメ、または狂信』と言えば、イスラムの野蛮さをテーマにした悲劇(兄と妹がそうとは知らずに愛し合う)で、コメディ・フランセーズで1742年に初演されたものだ。

ヴォルテールは「狂信者マホメットは残酷で嘘つきで人間の恥で、商人の若造が預言者、立法者、君主になった」などという言葉を手紙の中に残しているからほんとうにイスラム嫌いだったらしいが、この戯曲は実はカトリック教会を攻撃していたのだという説もある。それをごまかすためにヴォルテールはわざわざこの戯曲を当時のローマ教皇ベネディクト14世に贈呈したというのだ。

その後ヴォルテールはだんだんとイスラム好きになって、1770年には、イスラムはヨーロッパの誰よりもましなことを考えていると称賛したらしい。

そういう検証は、フランス語のイスラム系サイトにいくらでも載っている。
啓蒙思想のヒーローであるヴォルテールをイスラムの味方につけるのは大きな意味があるらしい。
その辺がフランスっぽい。

このヴォルテールの戯曲をドイツ語に翻訳したのがゲーテだ。
ゲーテはそのことをナポレオンに出会ったときに話題にした。
ナポレオンは、「私はあの芝居が嫌いだ。カリカチュアだ。」と答えたという。

ゲーテは「彼はそれを意に反して書いたのです。狂信を長々と攻撃したこの悲劇はイスラムではなくキリスト教会を攻撃しているのです」と言い、ナポレオンは「それがあまりにも隠されているのでローマ教皇に贈られて祝福されたのだ」と答えた。

真相はよく分からないけれど、確かなのはこの芝居が興行的に失敗だったこと、そして、ヴォルテールもゲーテも、宗教原理主義、宗教の過激派、人々を解放する代わりに縛り付ける宗教全般を憎んでいたということだろう。

(ナポレオンと宗教についてもっと知りたい方は『ナポレオンと神』をお読みください。)

Jean-Luc Jeener が2005年にこれを上演したのも、別にイスラムの批判ではなく、この芝居に出てくる狂信的言辞、全体主義的言辞に対する告発だった。

けれども、それを2017年に上演することは不可能だ。
で、自ら、同じタイトルで新作を書き下ろした。

先日は彼とゆっくり話すことができなかった。しかし彼の言いたかったことは分かる。
でもどうして敢えてマホメットなのか、それは、シャルリー・エブドの記念号を読めば分かってくる。
シャルリー・エブド襲撃事件なしにこの新作は存在しなかった、と、私は思う。(続く)
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# by mariastella | 2017-01-09 00:49 | 演劇

今日の記事

フランスの昨夜にアップした今日の記事が、操作エラーで「ファン限定」になっていました。
そんなものがあるのも気づいていませんでした。

お知らせを受けて解除しましたのでよろしくお願いします。
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# by mariastella | 2017-01-08 19:59 | お知らせ

「シャルリー・エブド」事件から2年経って思うこと

日本が全体主義独裁国家になりつつあるのではないかという不安の言葉がサイトのForumに寄せられました

この記事はそれに対する答えに代えるものです。

今、これを書いているのはフランスの1/7で、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件からちょうど2周年、シャルリー・エブドの2周年記念号はなかなか読みごたえがあった。

1周年の去年は、前年11月にパリで同時多発テロがあって、人数で言うと記録的な犠牲者が出たこともあって、テロリズムの深刻化、国籍剥奪や緊急体制などの様々な処置も議論されていたので、シャルリー・エブド事件そのものとの距離の取り方が混沌としていた。
その上、去年も、ヨーロッパレベルで、ベルギー、フランスではニース、年末のベルリンと無差別テロが続いたので、様相は、ますます、

「自由に楽しみたいヨーロッパ人が委縮しないで済むようにセキュリティを強化しなくては」

という感じにシフトしていった感がある。

けれども、シャルリー・エブドのテロは、他のテロとは違う。

他の無差別テロは、恐ろしいけれど、いわゆるISやISシンパのテロリストでなくとも、彼らのインスパイアされた人々、社会的、個人的な様々な病理を抱えた人々による暴挙、蛮行と近い。

アメリカでの銃乱射や日本でも繁華街での車の暴走などどこでいつ何が起こるかは分からない。

シリアの内戦にどういう立場をとっているかというような直接の外交問題とは関係のないものがほとんどだ。
それが口実に使われてマインドコントロールされている場合はもちろんあるとしても。

それに対して、シャルリー・エブド編集会議の襲撃は、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というタイプのものであった。

こういうと、やはりISが悪い、テロリストが悪いなどと思うかもしれないが、

「政治的に立場を異にする者を抹殺する」

というのは、まさに全体主義独裁の行動パターンである。

ロシアの反政府的ジャーナリストたちも、中国の反政府的ジャーナリストたちも、拉致されたり、白昼何者かによって暗殺されたり、毒殺されたりしている。
それなのにいつの間にかうやむやになっている。

全体主義独裁の行動パターンに合致する。

権力者を批判する表現の自由は否定されるのだ。

そして、こういう言い方をすると誤解を招くのであまり言いたくないけれど、
「欧米民主主義・自由主義」を絶対善とする「先進国」が、それに反するものを、宗教政権であろうと軍事政権であろうと「敵」と認定して殺しに行くのも実は同じパターンだ。

みんな同じパターンで動いている。
ある意味で、日本もそれを踏襲しているにすぎない。

外交上の影響力の大きい世界の主権国の首長の中で、その抹殺パターンを否定して、ひたすら話し合いと弱者支援を通しての平和を訴えているのはローマ教皇くらいだ。

そのローマ教皇でさえ、

「『じぶんちキリスト教』の正義に外れる者は抹殺しても当然」

と主張する少なからぬカトリック信徒たちから執拗に批判されている。
そのうち教皇も抹殺されるかもしれない。

日本の憲法九条は「抹殺パターン」を明確に否定した珍しいものだったけれど、それが例外だったので、行動指針とならぬうちに、早くから「その他大勢」のパターン、昔なじみのパターンに従って変質していった。

それは「原罪」なのだろうか。私たちは、「自分と違うもの、自分を否定するものは消えればいい」とほんとうに思っているのだろうか。

「自分と異なるものによって生かされている、人は関係性のネットワークを途切れずに紡いでいくことで生きている」

ことも私たちは知っているはずだ、とは言えないのだろうか。

怒りや絶望は人の判断を狂わせる。

キリスト教が正しいかどうかなどは知らないが、力によって紛争を解決してはならないという今の教皇の言っていることは正しいと思える。
その「力」が破壊兵器に守られる抑止力であっても同様だ。

どうやってこの確信を日常の生き方のレベルに反映できるのだろうか。

それなしには世界は変わらない。
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# by mariastella | 2017-01-08 00:42 | 雑感

ふくらはぎと中足の関係。 戦争は愛で勝つ?

2017年、新年初のバロック・バレーのクラスに行ったら、20年も踊っているのに、突然新しい感覚が得られた。

クリスティーヌ(そういえば彼女の弟が去年の秋から日本のフランス大使館の文化担当官になっている)が、つま先で立った時に、ふくらはぎが緊張していてはいけない、という。

いわばふくらはぎが中足骨に落ちてしまった、という感覚でないとだめだと。

これのコツがなかなかつかめなかったのだが、1700年代半ばのバレエの本に、ひざを曲げる時は、ひざを曲げるのではなくて足首を曲げるのだと書いてあることを応用したら実感できた。

確かに、踊りでひざを曲げるいわゆる「プリエ」の動作は、もちろんひざが曲がるわけだけれど、実はそうすることで脚と足の角度が小さくなる。だから、ひざを曲げる代わりに足首を曲げるのだと意識すれば、当然ひざも曲がる。

この時、「ひざを曲げる」と意識するのと、「足首を曲げる」と意識するのとでは、ふくらはぎにかかる感覚が変わってくる。

その感覚を思い出しながら、つま先で立つときも、足指と中足骨(足の甲の前半分)の間を曲げるのだという意識で床を押すと、確かにふくらはぎに力が入らない。

バロック・バレーはクラシック・バレーと違って巧みに脱力する部分が多くて気持ちよくできているのだけれど、「筋力で解決」してはいけないことがたくさんある。その緩急、強弱が面白いのだけれど。

その後で、リュリーの「アムール(愛)の勝利」の話になった。

今から10年くらい前に見つかった銅版画で、1681年のこのオペラ・バレエにはバッカスの子供たちとしてルイ14世の子供たちが出演していたことが分かったという。
ルイ14世そのものは1669年以来踊らなかったけれど、このバレエの女性ダンサーはほとんど彼の愛人だったという。子供たちというのも愛人たちの子供が多い。王太子が多分バッカスだったようだ。
コーラスに振付があったこともほぼ分かっているし、歌手がダンサーの踊っている真ん中で歌うこともあって、音楽と歌とダンスが別々に配されていたわけではないことも分かっている。

少なくとも宮廷ヴァージョンでは。

1681年のルイ14世は、アルザスも占領して絶頂期だった。
インドにも手を出していた。
「愛の勝利」にはその舞台であるギリシャ世界に本物の「インド人」も出てきたという。

そして、「愛の勝利」というのは、実は自らの戦功を称えたものなのだけれど、自分の出陣する戦争は力や欲望の戦争ではなくて「愛の戦争」なのだという含意がある。

いつの時代も戦争の言い訳をするリーダー、戦争とは「命」を守るための愛の行為であると主張する支配者がでる。
太陽王を自称する絶対君主でも、あからさまな「力」よりも、太陽の光や熱を「愛や命」の源として「侵略も愛」と正当化したかったのは、やはりキリスト教文化に生きていたからなのだろうか。
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# by mariastella | 2017-01-07 02:02 | 踊り

星の王子さまとプラトンとパスカル

星の王子さまについて前にこんな本を読んだ記事を書いた。

最近、ラジオのコメントと、ある論文を読んだことで、なるほどなあと思った。

ラジオのコメントは、星の王子さまは、jeunisme(若者中心主義というか若さ礼賛主義)のバイブルになっているというのだ。

大人たちが、子供時代の自由な発想、物事の本質を直観する力、といった幻想の楽園を懐古する教えだと。

子供たちが「星の王子さま」を読んで気に入るのは、最初の絵解きのところとキツネとのやりとりの一部だけだと。

まあ、そう言われてみれば納得できる。
よく人生の指南書みたいに扱われているからだ。

もう一つはフランスのDEAの論文で「星の王子さま」のイデオロギーのルーツを分析したものをネットで読んだことで、日本などでは特に「星の王子さま」由来であるかのように言われている様々な警句のほとんどすべてが哲学者や神学者から来ているものだというのが一望できた。

ある意味で、フランスの貴族家庭に生まれ、しっかりと道徳教育を受け、カトリック系の学校に行き、哲学の授業を受けて哲学のバカロレアを通過したというサン・テグジュペリが、20世紀前半のフランス上流の文化生態系の産物だった、という当たり前の事実である。

日本でもえらく有名な星の王子さまに与えるキツネの教え。

「じゃあ秘密を教えるよ。
 とてもかんたんなことだ。
 ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。
 いちばんたいせつなことは、目に見えない」

というやつだ。

On ne voit bien qu'avec le coeur,
l'essentiel est invisible pour les yeux.
(心で見なくてはよく見えないってことさ、
本質というものは目に見えないんだ)

 
本質というのを「かんじんなこと」と訳すものもある。

「本質は目に見えない」というのはプラトンだ。

「心で見なくてはならない」というのはパスカルだ。

 
プラトンは「善」を至高のイデアだとする。太陽が近く可能な光のすべての源であるように、「善」は知的な光の源である。「善」は、それ自体は目に見えないが、物事を見えるようにしてくれるものだ、とソクラテスに言わせた。

パスカルは、

C’est le coeur qui sent Dieu, et non la raison. Voilà ce
que c’est que la foi, Dieu sensible au coeur, non à la rai-
son (Pensées- 278).(神を感じるのは心であって理性ではない。信仰とはこれだ。神は心で知覚できるもので理性ではない(パンセ278)

と言う。

これを普通の日本人が目にしたら、遠い国の遠い時代の別々のことに聞こえるかもしれないけれど、サン・テグジュペリの生きた文化生態系においては、自然に結びついている行動指針の言葉だった。

よく見てみると、肉体の器官としての「目」と「心」を対比しているのではなく、「理性」と「心」の対比であり、それが見る「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」というのは実は、「善」であり「神」なのだ。
特定の価値観が前提になっている。

日本語訳が「いちばんたいせつなこと」とか「かんじんなこと」とあって、「「いちばんたいせつなもの」とか「かんじんなもの」とはなっていないのは本質をとらえている。
「善」や「神」は、「もの」ではなくて「こと」だからだ。

けれども、パスカルがあれほど悩んで「理性」から「心」に「転向」して「パスカルの賭け」を決意したのだけれど、今の「無意識心理学」によれば、理性と心は実は対立関係にあるわけではない。

「判断」「識別」には感情が大きく関係している。いや、感情抜きでは、情報の収集と分類はできても、絶対に結論に至らないという。
理性の機能をつかさどるのは感情だ。情報を最終的に処理するのは「心」だ。

脳と心は同じものではない。脳は頭蓋骨に納まった期間で、様々な働きをするが、「心」はネットワークの中にしか存在しない。心は脳と脳が相互にかかわった結果生まれるものだという。

パスカルにこの知見を読ませたかったなあ、と思う。
(私がパスカルと話したかったと前に書いたのはこういうことも関係している。)

理性と心に関するこのような知見に至るまで、西洋思想の文脈では、プラトン、アウグスティヌス、パスカル、サン・テグジュペリは一連であって大きな変革はなかったのだ。
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# by mariastella | 2017-01-06 00:05 | 哲学

ベルナノスの言葉 その2

<< Les dernières chances du monde sont entre les mains des nations pauvres ou appauvries. C’est, en effet, la dernière chance qui reste au monde de se réformer, et si généreuse et magnanime qu’elle puisse être, une nation opulente ne serait pas capable de mettre beaucoup d’empressement à réformer un système économique et social qui lui a donné la prospérité. Or, si le monde ne se réforme pas, il est perdu. Je veux dire qu’il retombera tôt ou tard à la merci d’un démagogue génial, d’un militaire sans scrupules ou d’une oligarchie de banquiers. >> (Le Chemin de la Croix des Ames)

「世界の最後のチャンスは貧しい国、貧しくなった国々の手にある。富める国はたとえどんなに寛大であっても、自らの繁栄をもたらしてくれた経済と社会のシステムを改革するのに本気でとりくむ力などない。しかし、世界は、変革しないなら、滅びる。遅かれ早かれこの世は巧みな扇動者、勇ましい軍人、少数の金融業者たちの意のままになってしまうということだ。」

この言葉も、まるで今の世界についてのコメントのようだ。
というより、もう、遅いんじゃないか、世界はもう扇動者や軍産共同体の意のままに動かされているのではないかという気もする。
でも、先日書いたベネズエラの「エル・システマ」だとか、キューバの医療制度とか、新自由主義経済の恩恵を受けていない貧しい国で新しい取り組みがなされてきたのは事実だ。

今、これらの国のシステムは揺らいでいるけれど、大国や大資本にすべてつぶされていくのではなく、問題提起が続いてくれるように 願うばかりだ。
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# by mariastella | 2017-01-05 02:24 | フランス

ベルナノスの言葉 その1

ジョルジュ・ベルナノスは60年の生涯の中で第一次大戦と第二次大戦の両方にしっかり遭遇した。そのせいで、フランスやヨーロッパや政治や宗教について観察し考え抜いた人でもある。今聞いてもなるほどと納得できる言葉がたくさんある。

<< Une Démocratie sans démocrates, une République sans citoyens, c’est déjà une dictature, c’est la dictature de l’intrigue et de la corruption. >> (La France contre les robots)
「民主主義者抜きの民主主義、市民抜きの共和国は、すでに一つの独裁だ。謀略と腐敗の独裁である。」


主義や理念だけ掲げていても、その実践者が内部で常に生きた対話を通してそれを更新続けなければ、残るのは私利私欲にとらわれた「独裁」と独裁者による支配だ。

共産主義も社会主義もそうやって壊れていった。
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# by mariastella | 2017-01-04 03:34 | フランス

多難な年明け

元日の夜のTV総合ニュースでは、大警戒のもとで賑やかに過ぎたシャンゼリゼのニューイヤー・イベントのことをやっていた。そういえば、前の年は11月のテロの影響で花火が中止されたのだった。
私は日本にいたからその雰囲気は分からなかった。

で、去年テロがあったニース、ベルギーのブリュクセルやドイツのベルリンなどでもいずれも、無事に年が越せた、ニューヨークもタイムズスクエアに人が集まった、とニュースのアナウンサーがにっこり笑って言っていたのを見て驚いた。

1日深夜のイスタンブールのナイトクラブの無差別射撃、31日と1日と、自爆テロなどで続けてたくさんの犠牲者を出したイラクのバクダッドはまるで数に入っていないかのようだ。
フランスからの距離で言うとNYより近いのに。

やっぱり「欧米」「キリスト教文化圏」視線なのかなあ、と思う。

オランドは1日にイラクに行って現場のフランス軍兵士たちを「慰労」した。
「そんなことをしてISを刺激するなよ」、と思ってしまう。
テロに「宣戦布告」している彼にとってはそれ以外にない選択なのだとは分かるけれど。
武器や戦闘機などを売りまくっている時点で私にとってはアウトだけれど。

今年はエピファニーが教会的には8日だけれど、ガレットはもう出回っている。
スペインでは昔通りに1/6がエピファニーの休日で、三博士がイエスに贈り物をしたことにちなんで子供たちにはプレゼントをもらえるのだそうだ。クリスマス・プレゼントから二週間も経たないのに。

スカンジナビアやアイルランドでは、クリスマス以来毎日灯していたクリスマス大蝋燭を灯す最後の日になる。

私がフランスに住むようになった40年前のクリスマスには、フランスでも、1/6のエピファニーで降誕祭が終わってツリーを片付ける、というのが習慣だった。でも今は、エピファニーも移動祭日で1月いっぱい飾りが出しっぱなしという家や店もある。

フランスでは毎年大統領にガレットが贈られるのだそうだが、フェーブは入っていないそうだ。
ガレット・デ・ロワは王様のガレットで、本来はイエスを礼拝に来た三憲王にちなんで、パイの中のフェーブに当たった人が王冠をかぶって「王様」になるのだけれど、「大統領は王になれない」からだそうだ。

なるほど「王殺し」のフランス革命を継承するシンボルの共和国大統領が戴冠してしまったら洒落にはならない。革命後にも「フランス王」でなく「フランス人の王」だの「フランス人の皇帝」だのという名目で戴冠してきた人たちもいるけれど、第三共和制以降は「王様」はアウトとなっている。

今では日本でもガレット・デ・ロワが登場しているようだ。
昔はガレットと言えば、『シェルブールの雨傘』でのドヌーヴの冠しか知らなかったっけ。

私が一時帰国して当時飯田橋にあったリセ・フランセで教えていた1980年の1月には、6日(フランスのカレンダーで新学期が始まっていた)の給食のデザートがガレットだったらしくて、午後の授業には金髪に金色の紙の冠をつけたままのかわいい女の子がクラスに出席していたのを覚えている。

あの頃にもすでに、中東ではテロがあった。
誰もそんなことを話さなかった。
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# by mariastella | 2017-01-03 02:13 | 雑感

グスターボ・ドゥダメルとニューイヤー・コンサート

元日のウィーンフィルの新年コンサートをTVで聴いて、はじめてグスターボ・ドゥダメルの指揮を見た。

もうウィーンフィルとは何度も共演しているとはいえ、35歳の若いベネズエラ人と、「老舗」ウィーンフィルの面々の取り合わせは不思議な感興を呼び覚ます。

ドゥダメルは、ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」の出身者で、ロサンジェルス・フィルの音楽監督となった今も、積極的に故郷の子供たちのために献身しているそうだ。

とても楽しそうで、エル・システマのユース・オーケストラを振るときも、ウィーンフィルを振るときも、同じ自然体というのがいい。
アメリカ型の新自由主義に反旗を翻すベネズエラの音楽政策の勝利というのも気持ちがいい。
ベネズエラの音楽にキューバの医学。
どちらも人間を育て、癒す。

ドゥダメルを愛する人たちはその生き方そのものも愛しているのだ。

エル・システマには「ホワイトハンド」コーラスというのがあって、肉体的・精神的障害を持つ子供たちと白い手袋をした手の動きで歌う聴覚障害・聾唖の子供たちがからなる合唱団だそうだ。

どんなものかと思っていたが、ドゥダメルを見ていると、その意味が分かる。

指揮するドゥダメルが、振付師に似ているからだ。

特に、時々、両手をおろして、まるでタクトを振るのをやめてしまったかのように見えるとき、彼が、オーケストラと一緒に「踊っている」こと、「指揮は振付けなのだ」ということが分かる。

「ジェスチャーによるコーラス」との距離は近い。
というより、内的な振付なしの音楽なんて考えられない。

以前に、聴覚障碍者のために、全身に振動で音楽を伝える活動をしていた方とお話したことがあったけれど、音楽を発する側も全知覚、全人間的なものだと分かる。

音楽とダンスの関係についてあらためてヒントを得ることができた。
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# by mariastella | 2017-01-02 00:14 | 音楽

新年のごあいさつ。 パスカルとクリスマス

これを書いているのは大晦日の午後です。
でもアップする頃には日本ではもう2017年に暦が変わっているでしょう。

だから、まず、このブログを読んでくださっている読者の方々に、2017年が平和で穏やかな年になりますようにご挨拶します。

私にとって2016年は大きな変化のあった年でした。

ひとつは、眼鏡もコンタクトレンズもいらなくなって活動時間が長く有効になったこと。
その一つの結果が、もう半年以上もブログを毎日更新していることに表れています。

前は、気づいたこと、思いついたことは、とりあえずストックして寝かしておいたのですが、その8割くらいは、全体の思考回路に加えてもらえないまま忘れられたという状況がありました。

今はかなりのことをブログに載せることでフロー化しているので、回転率がよくなった気がします。

読者を想定していない覚書なのでコメントも閉鎖しているわけですが、思いがけないところで私のブログを紹介してくださる人がいることを教えていただいたりして、少しはお役に立っていることもあるのかとうれしいです。
想定読者もテーマもないのですが、誠実に書くことを心がけているので、「あの人に読まれたらやばい」というようなものはないと思います。

変化と言えば、今年は、ブーレーズ・パスカルを見る目とクリスマスを見る目が劇的に変わりました。
何か決定的なことが起こったわけではなく、長年の積み重ねがある一線を越えて質的に変化したという感じです。

年末はとても忙しかったのですが、たった一日自分の時間が持てた時に、国立図書館のパスカル展(パスカル、心と理性)に駆けつけました。

パスカルが完全に分かったので、それを確認するためでした。

何がどう分かったのかというと長くなるので書けませんが、言えることは、今パスカルが私の前にいてEntretien avec M. de Saci. 1655. のように彼と対話ができたら、彼を、アウグスティヌスの呪縛から解き放つことができるような気がしていることです。

大げさだと思われるかもしれませんが、パスカルと同じ土俵で、同じ言葉と同じ感性を使って彼を助けることができる気がします。もっともそうしたら、『パンセ』の半分は残らなかったかもしれませんが…。

キリスト教におけるノイズとの付き合い方が自分の中ではっきり分かった年でした。

ノイズだから重要でないとか意味がないとかいうことではありません。

時代や場所が規定する文化や伝統の形としての典礼や神学、人間性と社会心理学的考察などからきれいに距離を置くコツがわかったということです。

クリスマスもそういう形で現れました。

キリスト教の降誕祭としてのキリスト教は、昔は、「救世主の誕生」、星が羊飼いを導くとか、三博士の礼拝とか馬小屋とか、ハレルヤとか「聖夜」とか、要するにまあ「おめでたい」出来事だと把握していました。

ところがある時から、あまりおめでたく思えなくなってきていました。

飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃん、この子が33年後にああいう無残な殺され方をすると知っているのに、どうしてみんな喜べるのだろう、と思ったのです。
もちろんその後で「復活」して神の子だとか永遠の命だとかいうことになって全人類を救うのかもしれませんが、まあ、私が親だったら、そんな立派なモノになってくれなくてもいいから、親の目の前で仲間に裏切られ鞭打たれ釘打たれて磔にされて息絶えるのだけは見たくない、と思ったからです(まあ、だから私の子は救世主にはなれないでしょうが)。

しかも、わずか3、4ヶ月後の復活祭の前には嫌になるほど受難の姿を見せつけられ、その後に復活昇天したとはいえ、どの教会にも十字架上の最悪のシーンが飾られているのに、クリスマスの時だけ、「わーい、救世主が生まれた」などと喜ぶ気がしなかったのです。

で、いろいろありまして、信仰の社会的表現である宗教のレトリックと「福音」とを自然にきれいに分けて考えることができるようになり、その後でクリスマスが来てみると…

残ったのは、

赤ん坊が1人、

でした。

神は自分の言葉(ロゴス)を人の形で世に送ったのに、言葉も話せない人間の赤ちゃんにそれを託しました。
アダムとイヴなんて神の似姿で「大人」だったのだから、天使とか預言者とかスーパーヒーローの姿でもよかったのに。

それが新生児。

この子を生かすこと、この子が言葉を覚えて話せるようになれるまで育てること、は神ではなく、人間の大人にしかできません。

イエスは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25-40)」といって、弱者を助ける、弱者に仕えることを、救いいを得る業としましたが、イエス自身が、旅先で生まれた新生児、そのすぐ後で亡命を余儀なくされた赤ん坊であったのだから、納得がいきます。

ルルドで病人のためのボランティアをする人たちが、病者の中にイエスを見る、と言っているのも当然だなあと思います。

クリスマスに、だれの助けも得られず両親にだけ見守られて生まれてしまった赤ん坊、放置されれば生きていけないこの子を守らなくてはいけない、みんなで、あるいは、自分の心の中で。

イエスを救世主とする「福音」を信じたいという人は、言葉もなく寝たきりで一人で生きていけない赤ん坊に寄り添うしかない。

天使が歌わなくても、星が導いてくれなくとも、三博士のプレゼントがなくとも、今ここで、裸の赤ん坊を温めて、抱いて、あやして、飲ませて、守ってやる以外に大切なことはない。

今年のクリスマスには、教会のプレセピオに一本の藁を置き、そこに寝かされた赤ちゃんの人形を見て、難民キャンプで暮らす赤ちゃんたちや、他の人の助けなしでは生存が不可能なすべての人々のことを本当の意味で考えることができました。
秋に釜ヶ崎に連れて行っていただいたこともシンクロします。「あいりん地区」ってそのものずばりでした。

日本では、クリスマスが終わったら、即「お正月」モードに切り替わり、それこそ、前の年を無事に過ごせた人ならそれを感謝し新しい年を祝うところですが、フランスは、クリスマスから、三博士の礼拝(エピファニー)やら生後40日でのエルサレムの「お宮参り」まで、「クリスマス・ストーリー」が続いているので、この話を新年のご挨拶に代えました。

みなさま、よいお年を。
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# by mariastella | 2017-01-01 00:05 | 宗教

プーチンとロシア正教

(これは昨日の続きです)

プーチンがヨーロッパにすり寄るには「キリスト教を」使う。前にも何度か書いたけれど、ロシア正教の使い方が、ヨーロッパ的には前近代的だ。

プーチンはよき正教徒であることをを自認していて、ことあるごとに、自分はソビエト政権下で母親自らの手で洗礼を受けたのだ、と証言している。

ソ連が崩壊する過程で、正教がナショナリズムの形成に役立ったのは理解できる。

もともと、ロシアの共産主義自体が、宗教のようなものだった。
スターリンは「ローマ法王は装甲部隊をいくつ持っているのか」と尋ねたと言われるし、
プーチンは、セーヌ河畔のロシア正教カテドラルの建設についてフランスと交渉した時に、
「カテドラル一つ造るのにエアバスを何機買えばいいのか」と聞いたと言われる。(当時の文化相の回想)

シリアの反政府軍への空爆を非難されたせいで10/19のカテドラル落成にプーチンは出席をキャンセルしたが、12/4には1億5千万人のロシア正教徒の頂点に立つキリル大主教が初めてフランスでのカテドラルの献堂式を行った。
パリ市長が出席した。

キリル大主教は、ロシアとヨーロッパの屋根の上でどんなに風が吹きすさんでいても、屋根の下ではみなが仲良くやっている、カテドラルの建設を祝うのは、ロシアとヨーロッパの人民と文化の親愛のシンボルだ、という感じのスピーチをした。

ロシア正教は必ずしもプーチンと同じ政見を持っているわけではないが、互いに互いを必要として一種の紳士協定を結んでいる。
シリアの反政府軍への攻撃も、ロシア正教から正式に支持されていた。
「中東のキリスト教徒を救うための正当防衛」という名目が使われた。

「キリスト教」を切り札にすれば、いろいろなことができる。

実は、今のほとんどのロシア人にとって、正教徒であることは宗教行為とほとんど関係のない愛国主義アイデンティティで、「キリストなしの正教」などと言われている。

で、プーチンのレトリックにおけるキリスト教というのは、なんと「ヨーロッパの白人のキリスト教」であり、だからこそロシアはヨーロッパと共にイスラム教を「征伐」する、という差別的含意が透けて見える。

けれども、ヨーロッパのほとんどの国は、EUの起源にあるキリスト教文化という言葉をあらゆる憲章から周到に消去したように、「世俗性」と「多様性」を建前にしている。

特にフランスのような無神論イデオロギーで近代革命を経た国では、「キリスト教仲間だから友好関係」というレトリックなどタブーに等しい。

だからプーチンが、セーヌ河畔に金ぴかドームのカテドラルを建てて「ロシアとヨーロッパの共通のルーツ」みたいなものを刷り込もうとするのは、どこかアナクロニックに響くのだ。

30日、プーチンはアメリカのロシア外交官35人国外退去処分に対して同じ形での報復処置はしないと表明した。冷静なプーチンの方が、なんだか怖い。

ともあれ、プーチンやメルケルのように長く政権に留まる人たちは、いろいろな意味で奥が深い。
同時代に彼らを観察できるのは興味が尽きない。
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# by mariastella | 2016-12-31 05:35 | 宗教

年末のニュース、オランドとプーチン

以前の記事でも触れたジャクリーヌ・ソヴァージュさんが28日に大統領による全恩赦を受けて娘たちのところに戻った。

オランドが来期に出馬しないと表明してから、多分、この不発に終わった部分恩赦を全恩赦に変えるだろうと予想していたのだが、それが当たった。
ジャーナリストへの暴露インタビューで、司法への不信を口にして謝罪に追い込まれていたくらいだから。

でも、この王政の名残である「恩赦」の制度を使うのは、社会党マインドのオランド自身が原則的に躊躇していたらしい。

でも今年の初めにJS(ソヴァージュ)さんの娘たちをエリゼ宮に招いてかなり心を動かされたというから、司法に裏切られた末、やはり強権発動に踏み切ったというべきか。

司法の側は怒っている。何度も法律にのっとって様々な制約をクリアして釈放拒否の判決を出しているのに、自由な大権であっさり覆されるのなら、これからみんなが司法を通さずに大統領府の門を叩くことになる、と。

しかし、JSさんには再犯の恐れというのはゼロだし、共に犠牲者だった娘たちが母親を救おうとして引き取るのだから、さすがに、政治家たちはみな賛意を表明している。
娘さんたちが父親から性暴力を受けていたのを守れなかったことでJSさんを責める声もあったというが、彼女は当時それに気づいていなかったという。
いや、自分自身が毎日激しい暴力の犠牲になっている時、人の識別力など曇ってしまうとしても無理はない。

仮にJSさんが、夫が娘に乱暴しているのを現行犯で目撃してその時に猟銃を持ち出して撃ち殺していたとしたらどうなんだろう。いや、そんなことをして娘たちのトラウマをより拡大するよりも、たった一人で謀殺を選んだわけだ。ともかく、すでに4年も投獄されていたのだから、この釈放は誰が聞いてもほっとするニュースだった。

それにしても、こんなことすら「いいニュース」だと感じられるくらいに、世界中から悪いニュースがどんどん届いている。

29日には、いいのか悪いのか分からない奇妙なニュースも入ってきた。

ロシアが「欧米」抜きで、トルコ、シリア、シリア反政府軍、の代表を集めて停戦条約をまとめようとしていることだ。

ISとの戦いは終わっていないので、クルド軍は相変わらず戦っている。

でも、アレッポをあれだけ叩いた後で、どう停戦に持っていくのだろう 。
アレッポでのロシア軍の容赦のない感じは不思議ではなかった。
今時、アメリカだってあれほどの絨毯攻撃はしない。
チェチェン戦争のグロズヌイ攻撃のことを思い出す。

そういうあからさまな殲滅作戦みたいなのを堂々とやって、プーチンは一方で、安倍首相と会ったり、トランプやフィヨンにすり寄ったり、イランや中国やトルコに働きかけたり、「外交」にも勤しんでいる。

その中で、フランスとヨーロッパに向けたレトリックがまたアナクロニックで不思議なものだ。(続く)
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# by mariastella | 2016-12-30 07:35 | 雑感

童話における男の子と女の子

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レミとミーファの冒険
のラストシーンです。

このDVDはまだ仲間のフランス人にしか見せていないのですが、そのうち2人が運悪く?フェミニストの活動家(一人はLGBTの活動家でもあります)で、彼女らから、男の子と女の子を主人公にすること自体に疑問を呈されました。

森に入っていくのに女の子だけがスカートだとか、カゴを持っているとか、行き先を指さして先導するのが男の子だとはいかがなものか、と。

私はそうは思いません。

まあ、この2人は日本語が分からないので、イラストだけを見てストーリーを追うのでそういうことが気になるというのは分かります。

でもナレーションでは、最初と最後にレミとミーファと出てきますが、後はずっと「子供たち」であり、男の子と女の子の区別をまったくしていません。

レミとミーファはもちろん音名のドレミファ由来ですが、日本ならレミだって女の子名でもあるし、それ自体は性別が曖昧です。もちろんフランス語ならレミは男の子だし、レとミは一音差だけどミとファは半音で軟弱だと文句をつけられそうです。

でも私の反論はこうです。

まず、大人たちからの余計な刷り込みさえなければ、子供たちは絵本を読むときに、自分の性別による感情移入をしません。
「星の王子さま」に「星の王女さま」が出てこないからと言って疎外感など感じません。アンパンマンがアンパンウーマンでなくとも平気です。三匹の子豚だって、人間でなくとも、また自分が末っ子とかでなくとも、子供というのは、一番気に入ったキャラに自分を投影します。

だから、女の子が、ミーファを見て、ああ、自分はカゴを持ってレミに従わなきゃいけない立場なのだなあなどと卑屈になるなんてことはまずないと思います。
こんなストーリーで、2人が同じ格好をして全く同じことをするという必要はないと思います。

それだけではなく、1人がイニシアティヴをとって前に進み、1人がちょっとおずおずして後ろからついていくように見える図柄があっても私はいいと思うのです。

それは男の子と女の子の役割の刷り込みなどではなく、どんな子供の中にもある二面性の表現だと思うのです。陰陽の原理や太極図と同じで、別にわざわざ全体をグレーにまとめなくても、黒白でひとつを提示するのは悪いことだとは思えないのです。

「先に進む男の子がリーダーで後に付き従う女の子は従属している」

とも言われましたが、私はそれも文化的な刷り込みがあるかもしれない、といい返しました。

戦争などで突撃隊とか、やくざの鉄砲玉とか、危険なところに真っ先にやられる捨て駒がいて、あるいは露払いがいて、リーダーは背後でゆっくり構えてリスクをおかさない、というシーンだっていくらでもあるわけですから。

しかし、今はなかなか難しい時代だなあと思いました。

同時に、今でも、子供時代に「女の子だから」とか「男の子でないから」とか「男の子に負けないように」とか、いろいろ親に言われてきたことで抑圧されてきたという意識を持つ女性がたくさんいることを、フェミニストのブログなどで読むたびに衝撃を受けます。

そのたぐいの言葉は、私自身は、少なくとも家庭内では一度たりとも耳にしたことがなかったので、そんなことをいう親がいることすら信じられませんでした。

危機管理や行政文書は別として、性別がアイデンティティの一部であったことはないのです。

この音楽ストーリー構成は「ピーターと狼」にヒントを得ましたが、ピーターが男の子だからといって「男の子向けの話」ではありません。

男の子と女の子が出てくるこれまでのよくある童話はたいてい批判されます。
難しいところです。

それに反論すると、「あなたは特別だから(分からないのです)」と返されてしまいます。でも、

「女の子も受動的ではなく能動的でなくてはいけない、決断して前に進まねばならない、それをさせないのが文化的刷り込みだ」

と言われても、だれでも、時と場合によっては受動的でいたい場合もあるだろうし、いろいろな能力の多寡によって、前に進めないこともあるだろうし、決断したくないことだってある、と思ってしまうのです。

誰かが前に進みたいし前に進む能力もあるのに社会や他者からの圧力で自由を遮られるような状況は打破されるべきですが、勇気や覇気が他の徳よりも特別上位にあるものだとも思えないのです。

先週の仲間うちでの議論がなんとなく心の中で尾を引いていて、その時は完全には言語化できなかったので、ここに覚書にしてみました。
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# by mariastella | 2016-12-29 02:41 | 雑感

「ハドソン川の奇跡」クリント・イーストウッド

少し前に観た映画。

その前に見た『インフェルノ』に続いてトム・ハンクスが主演だった。

ここの映画でも、ヒーローなのに、悪夢から覚める最初のシーンから、トラウマを背負って情けない感じで、インフェルノの冒頭が幻覚から覚めるのとかぶって、なんだか、トム・ハンクスって哀れをそそるなあと思ってしまった。

しかし、短いスパンの出来事をうまくフラッシュバックさせてよくできている。
乗客の扱いはミニマムで、母子と親切な隣席の人、ぎりぎりで乗り込めた父子など、少ないのに効果的に配されている。
結末を知っているのにどきどきする。

でも水温が2度で、体感温度は零下20度のNYなんて、私ならあの状況で、低体温で死ぬんじゃないかと思う。まあみなストレスでアドレナリン全開だからもったのかもしれないが。

鳥に突っ込まれてエンジン停止、左旋回して見えたハドソン川への不時着水を試みる機長。

「ラガーディアに行くにはマンハッタンを横断しなければいけない。そこは人口密集エリアだ。もし地上に被害を及ぼすことになったら…」。と、リスクを見積もったと報告書にあるそうだ。

いやでも、沖縄のオスプレイの「不時着水」を思い出す。
あちらは翼も折れて明らかに墜落だと言われているけれど、ニコルソン調整官という人が、住民に被害がなかったのだから感謝しろと言ったとか言わないとか批判されていた。

実際の会見では「私たちは副知事と話し、遺憾だと伝えた。この事故は遺憾なものである。しかし、私たちは沖縄の人々を危険から救おうとした若いパイロットの偉大なる行動については、全く遺憾だとは思わない。」と、言ったそうだ。

オスプレイのパイロットは負傷して入院した。
ハドソン川の「サリー」は無傷だった。

「ハドソン川の奇跡」の事件は、アメリカではものすごいインパクトのあるものだった。
日本でも、「アメリカ通」の人事関係者は、それ以来、「望むべき人材のプロフィール」として「ハドソン川」を引き合いにするそうだ。

確かに、9・11で飛行機に突っ込まれるテロを経験したニューヨーカーのトラウマは半端なものではなかったろう、と今更ながらに思う。

その上に2008年の金融危機の直後の2009年1月だったから、事故で「犠牲者ゼロ」という結果は人々の心をどんなに癒したことだろう。

でも、如何せん、ニューヨーカー、アメリカ人という「当事者」でない場合、メディアは、「心温まる話」や「勇気を与えてくれる話」などよりも、これでもかこれでもかと世界の悲惨を語ったり、来るべき不安を煽ったりすることの方がはるかに多い。
「世界の終り」の方が「売れる」のだろうし、人々が無意識に「怖いもの」に惹きつけられるのかもしれない。悪い予想が外れても誰も文句を言わないけれど、いい予想が外れると責任をとれと言われるかもしれない。

だからフランスにいると、「ハドソン川の奇跡」は普通の「ちょっとしたいいニュース」くらいですぐ忘れられるものだったけれど、アメリカにとっては救世主のような事件だったのだろう。
だから沖縄のオスプレイを「不時着水」とした強弁の裏にも本物の思い入れがあり、「沖縄の市民を救ったヒーロー」という発想は、「植民地に対する傲慢な態度」というより実感だったのかもしれない。

事故の場合のチェックリストは3ページもあって、アナログで、実用的ではない。
飛行歴42年の機長は豊富な経験をもとに、ほとんど直感で行動した。

ほんとうにこの機長はアメリカン・ヒーローの要素をそなえている。

「勇気と忠誠心と善良さ」。

こういうシーンだとフランスの「自由・平等・博愛」のスローガンなど唱えても何の役にも立たないだろう。

実際のサリー機長の写真を見ると、トム・ハンクスよりずっとかっこいい人だった。

自分も航空安全委員会の公聴会の調査側に立った経験があったので、エンジンが止まった時、

「これから自分の言う言葉も行動もすべてが今後10年先まで厳しくチェックされるだろう」

と瞬時に意識したそうだ。

けれどもそれが判断を惑わせることにはならなかったという。
人間の脳って、いざとなればコンピューターよりも早く複数のことを同時に高速で考える。

今読んでいる『あなたの人生の科学』ディヴィッド・ブルックス(ハヤカワ文庫NF)に、人間の脳は同時に1100
万個もの情報を扱えるが、意識しているのはせいぜい40個くらいだという説が紹介されていた。全ての情報処理は無意識によって行われていると。
(この頃自分でもそれを実感するようになった。いろいろなものをインプットして寝かせておくと、ざわざわと何か動いて、すっきり言語化されて出てくることがある)

それにしても、2009年初めのNY、テロと金融危機でニューヨーカーが「恐れと不信」の中にいた時期だからこそ、サリーはヒーローになった。
「奇跡」だけでは必ずしもヒーローは生まれない。
乗客を救うというより、自分の生存本能をプロとしての判断力に投入した。
生きるために全員を救った。

フランス国内でドイツ系の航空機の副機長が心中のようにわざと墜落させた事件とつい比べてしまう。
フランスではこちらの方が当然記憶に残って、定期的に飛行機を使う身としてはトラウマになりそうな事件だった。

それと比べたらえらい違いで、プロフェッショナルが危機を前にして平常心を失わず最適の判断を下す、ということのありがたさと難しさをあらためて感じる。
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# by mariastella | 2016-12-28 01:30 | 映画

田村洋さんのoriental dance のことなど

2014年の日本のコンサートで初演したバロック音楽童話『レミとミーファの冒険』は当初思ってもみなかった展開をしました。

バロック・オペラ仕立てのコンサート用の曲を、養護施設の子供たちのために作った物語に合わせて配したものですが、これに2人の方からの提案がありました。

調布美術研究所の師井栄治さんがイラストとナレーションをつけたデジタル童話をつくることを提案してくださり、そのために去年私たちもスタジオ録音して、このほどようやく完成しました。
来年に入ったらいろいろな形で配信できるようにします。

もう一人は、山陽小野田市芸術顧問の田村洋さんで、同じものを宇部市のコンサートで小中学生向けのコンサート仕立てにした時に聴きに来てくださいました。

夕方のバロック・オペラ仕立てのものは時間の都合で無理で午後のものにいらしたということでしたが、私たちの正五度ギターのバロック曲の演奏を的確にキャッチしてくださって、楽屋に訪ねてきて、私たちのために曲を作りますとおっしゃっていました。

先週、トリオで今年の練習おさめをしていた時、日本に一時帰国していた友人が楽譜をもってきてくれたので、さっそく弾いてみました。
すごく現代的な曲だったらどうしようかと心配だったのですが、弾いてみた「oriental dance 」の1番(tree of a dreamという副題がついています)と3番は、夢幻的でもあり祭礼的でもあり、別世界へのいざない、という雰囲気がフランス・バロック的で、私たちの新しいレパートリー(ラモー8曲)と全く違和感がありません。

全く面識のない同士が、宇部市の「ヒストリア宇部」でたった小一時間を共有しただけで、生の音による「出会い」があり、それが新しいものを生み出していくというのは驚きで、不思議で、わくわくします。

人生にはサプライズがいっぱいだなあと実感します。

来年の秋にはそれをまたいろいろな人と分け合いたいと楽しみにしています。
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# by mariastella | 2016-12-27 06:46 | 音楽

猫カレンダーのコラージュ

前回 アップしたカレンダーの図柄コラージュを気にいってくれた方がいたので、同じく猫カレンダーからのコラージュを披露します。2008年のカレンダーでした。これはもっと手抜きで20分もかかっていません。丁寧に切っていたらもっとマシかも。実はもっと丁寧なコラージュもよくやっていて、そういうのはテーマごとにいろんな人にプレゼントしていました。今なら、差し上げる前に写真にとってデジタル保存していたのになあと少し残念です。
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# by mariastella | 2016-12-26 00:42 |

メリークリスマス!

この2つのコラージュは、10年くらい前にもらったイタリア製の聖母子カレンダーの画像で、1年が終わった後で、画像を切り取って2つ作ったものです。両方で30分くらいで雑に作ったものですが、並べて飾ってみたらなかなか素敵なので、みんなに褒められます。私が作ったと言ったらなんだかがっかりされるのはどうして....

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# by mariastella | 2016-12-25 07:59 | 宗教

羊飼いの礼拝

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数年前、ドレスデンのクリスマスマーケットで買ったクリスマスの馬小屋。羊飼いたちが幼子イエスのもとに来ます。名もない庶民の代表です。
羊飼いの礼拝と言えばこの絵を思い出します。

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こんなふうに手を伸ばすのはどう見ても3ヵ月以降の赤ちゃんなので、生まれたてとは言えませんが、こんなに子羊との距離が近くて、後ろから羊飼いがリスクを回避するために羊を抑えている仕草が、赤ちゃんが触ろうとする猫を抑えるのと似ていて微笑ましいなぁといつも思ってしまいます。
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# by mariastella | 2016-12-24 00:13 | アート

バッハとラモー

クリスマス休暇で授業やレッスンがなくなったメンバーと、来年のコンサートに向けた新しいラモーの8曲を3日ほど集中練習した。

もちろんギタリスティックなものばかりを選んでいるのだけれど、ほんとうに、ギターの音で別世界が広がる。

それにしても、私たちはラモーのどんな小曲(すべてオペラの間奏曲とダンス曲)でも、研究し尽くし、議論し尽くし、試行錯誤を続けるのだけれど、その度に発見、驚き、感動がある。

時間に裂け目ができ、空間があらゆる方向に押し広げられる感じがする。

同時に、どうして世間の多くの人が、ラモーの曲を敬遠したり軽く見たりするのかという理由が分かってくる。
ずばり、ラモーのオペラを上演するオーケストラは、時間をかけないからだ。
リハーサル一回にかかるコストの問題だ。
ほとんどのオーケストラが、すごく少ないリハーサルで本番にかかる。

ラモーの世界は強靭で複雑な精神世界なので、弾く側も一定以上の「知性」を駆使しなくてはならない。
ラモーの秘密の一定線を越えなければ、時間の裂け目や空間の変化を感知できない。

前にも一度、ラモーにあってバッハにないものは「間」だと書いた。

バッハの曲を例えばチェンバロで弾くとすると、速いパッセージがたくさんあるし、構成も複雑で、何しろあらゆるところにびっしり音符がつまっていて、密度が異常に高いので、かなりの練習が必要だ。
けれどもいったん、指のメカニズムが動き出すと、後は楽譜がものを言ってくれる。
饒舌だ。
例えていえばフィレンツェの大聖堂のそばにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天井を埋めるモザイク画だとか、「スペイン人礼拝堂」の、壁も天井も柱もびっしり埋め尽くしたフレスコ画を連想する。

そう、バッハの音楽は、「祈り」なのだ。神の造った宇宙をくまなく讃えようとする信仰の情念が沸き立ってすべてを埋め尽くす、という感じ。バッハは信仰者だった。それは間違いない。

それに対して、ラモーの音楽は、「頭脳」でできている。
無神論者の音楽だという人もいる。
無神論者というよりソリプシストかもしれない。
(ソリプシストについては前に延々と書いたことがある。)

ラモーの音楽には「間」がある。

その「間」が、「間」ではない部分に意味を持たせる。

ラモーの膨大なハーモニー諭や数学体系の中には無限の要素があって、彼は神のように、好きなようにそこからいろいろ取り出しながら、組み合わせ、クリエーションを行う。

予測はできない。無からの恣意的な創造だから。

しかもそのベースには上機嫌がある。

『創世記』の神が天や地や鳥や獣や魚など創造するたびに、その後で

「神はこれを見て、良しとされた。」

と書かれているように、ラモーも、

「うんうん、さすがにぼくのクリエーションってなかなかいいよね」

と満足しているような、そんな感じだ。

粘土でいろいろなものを作っていく子供のように無邪気で明るい。

けれど、そのベースには、絶対の自信とノウハウと全能感がある。

「祈り」とは言えない。

ラモーを弾くには、そのクリエーションに参加しなくてはならない。
「協働」というやつだ。だから、彼の創造の秘密を徹底的に探らなければならない。

ラモーの「間」を理解して迫ると、クリエーションが理解できる。
ラモーを弾くのは祈りというより、恵みだ。

ラモー研究者といっしょに何十年も弾きながら、いつも、褪せることのない驚嘆を分かち合える私は本当に恵まれている。
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# by mariastella | 2016-12-23 03:52 | 音楽

ベルリンのテロと「民主主義」

これを書いている時点で、今度は24歳のチュニジア人が先日のテロの容疑者として捜索されているようだ。

メルケル首相は、こんな時でも、「戦争だ」とか言わないで、

「民主主義の根幹はオープンであること」にあるから、移民へのオープンドア政策そのものは見直すつもりがない、

という姿勢を(今のところ)貫いている。

この「民主主義」(彼女の政党もこの言葉を冠している)という言葉は、ドイツにとって大切なお題目なのだなあというのが実感される。

前に、アメリカのお題目の価値観は勇気と忠誠と親切心だと書いた。

この「親切心」が、勇気と結びついて識別を誤ると、よその国に出向いて行って、独裁者に支配されている民衆を救わなければ、などという政策に向かう。「小さな親切、大きなお世話」と言われるように「親切心」は上から目線になることが多く、時と場合によってはろくなことにならない。
でも、敗戦後の日本も、いろいろな部分で、末端のアメリカ人の「親切心」に助けてもらったという事例はたくさんある。

フランスのお題目はもちろん「自由・平等・博愛」で、これが「福音書的」と言われるものなのだが、ちゃんと憲法にも書かれている。

本来この「自由・平等・博愛」を突き進めると、日本国憲法九条と同じで、「絶対平和主義」しか行きつくところはない。

けれどもそれは無理なので、言っていることとやっていることがだいぶ違う。

それでも、どんなに揶揄されてもその「理念」だけは上書きしない。
それはそれで、大切なことだ。

で、ドイツの第一のお題目はどうも「民主主義」らしい。

第二次大戦のナチス全体主義への反省、反動から、「民主主義」絶対になった。

日本でも、国家神道と軍部独裁の敗北によって、「民主主義」が理想のお題目になった。
でもドイツと違って、ただのお題目で、それを支えるいろいろな方法の試行錯誤は見えない。

一方、イギリスやフランスなどでは、「民主主義」は今の時点で最も害のない政治体系に過ぎないと認識されているだけで、自負はあってもモットーにはならない。

フランスでも、ヴィシー政権の時代にモットーが「労働、祖国、家庭」になったように、「祖国」なんていうのを「国」が提唱するのはろくなことにならない。

けれども今のフランスでも軍隊の標語は「名誉、祖国」だ。
戦争をするときに「自由・平等・博愛」などと言っていられない。

逆に、国が主導して「祖国」や「愛国」を唱える時には、自由も平等も博愛も絶対に実現しない。

今のドイツの公式の標語は「統一、権利、自由」(Einigkeit und Recht und Freiheit) だけれど、これは敗戦後の東西の分断と全体主義化した社会主義のトラウマから来たものだろう。

ナチスの犠牲者の記念碑には

「平和と自由と民主主義のために。二度とファシズムを許さない」

と刻まれる。

テロに襲われた時、

フランスの大統領がそれをフランスの自由に対する宣戦布告だ、戦争だ、

というのと、

メルケル首相が、民主主義の価値観(オープンドアを含む)は揺るがない、

というのではニュアンスも違うし、拠って立つところも微妙に違う。。

そういえばメルケル首相は、トランプ次期大統領にも、

ほら、私たちは民主主義の価値観を共有している国同士ですよね、

という感じで牽制していた。

トランプは暴言にはオープンだけれど、オープンドア政策とは対極だ。

ベルリンのテロで、メルケルの民主主義を支える「開放」の精神は、否定されるのだろうか。

それともまだ、多くのドイツ人が「オープンドアの民主主義」をメルケルと共有しているのだろうか。

選挙は10ヶ月後である。
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# by mariastella | 2016-12-22 02:29 | 雑感

アレッポの司教の証言の続きとベルリンのテロ

(これは前の記事の続きです)

アレッポの司教の言葉

「2011年に内戦が始まったときもアレッポの住民は自分たちには関係がないと思っていました。それが1年後に波及してきても、まだ政府軍が止めてくれると思っていました。

工場やアトリエの大部分が閉鎖され、失業が増え、給料もダウンしました。一日数時間しか電気が使えず、発電機につなぐのは大金がかかり、占領されてからは70日間も断水しました。

マロン典礼教会のカテドラルと教区教会の二つは中央地区の戦場にあって損傷が激しいのでミサは司教館のチャペルで行っています。2012年以来、信徒の三分の二が逃げていきました。その多くはもう帰ってくることがないでしょう。

私たちが逃げないのは、カトリック教会にはオリエントとオクシデントという両肺が必要だからです。
10人でも残れば教会全部を鼓動させることができます。

2015年にこのアレッポの司教に叙任された時、どうして私がこの十字架を、と思いました。
でもそれはこの町の信徒たちへのメッセージだと思って引き受けました。
内戦開始以来なかった祭礼をスカウトたちといっしょに行い、ムスリムの友人たちも祝福して
くれました。
信徒たちに食事を配り、手当てをし、家賃も助け、彼らが留まるようにできることは何でもしています。
でも、彼らから自分たちの息子は爆死しないかと聞かれると、自分の無力さを痛感します。

私は離れません。羊飼いは羊を見捨てません。もう金もないし、5分後に生きているかどうかも分かりません。私にとっては天に近づける機会です。殉教者は地を見ず、天を見上げています。」

うーん…。

ブッシュのイラク侵攻の時に処刑前のサダム・フセインを尋問したCIAのジョン・ニクソンの本の中で、

アメリカのイラク情報は何から何まで間違っていた、

9・11はサウジアラビア、エジプトなどが関係していてフセインはアルカイダとも関係がなかった、

サダム・フセインは問題はあったがあれほどの人物であったからこそ、部族が林立するあの国を安定して統治できていたのだ、

アメリカはサダム・フセイン軍の兵士たちを登用するべきだった(追われた彼らがISの中核になった)

などとあるのを見ると、あらためて、これまで中東で起こったことの意味を考えさせられる。

19日にはベルリンのクリスマス・マーケットでテロがあった。

テロリストは、なぜか、難民排斥、差別主義、イスラム嫌いの極右政治家などをターゲットにしない。
普通の市民に無差別攻撃をしている。その中にはムスリムももちろんいる。

9・11の以前から、中東を中心に、毎年多くのテロの犠牲者が出ていた。
今でも、テロの犠牲者の90%はムスリムで、テロ多発国は、パキスタン、アフガニスタン、イラクだ。

ドイツはメルケル首相が、移民100万人OKで統合できるなどと言っていたけれど、領邦国統一の遅かったドイツにはいわゆる「旧植民地国からの移民の統合政策」という実績はない。
100万人OKと言ったときには、サウジアラビアが、ではドイツにモスクを200作る金を出しましょう、などと申し出ていた。フランスには絶対に言わないようなことだ。

ドイツは今年6度目のテロだけれど、そしてCDUも今まだ犯人が捕まっていない時点で移民政策を一から見直せ、とメルケルに迫っているそうだけれど、それでも、なんとなく、フランスほどにはショックを受けていない気もする。ショックの受け方が違うと言った方がいいかもしれない。

それはオランド大統領が「戦争だ」と言ったけれどメルケル首相は一度も「戦争」という言葉を口にしていないことの差だ、と誰かが言っていた。
テレビで、1980年7月のミュンヘンのビール祭りでの爆破テロのことまで持ち出して、テロの後も彼らは祭りを中止せずに続けていた、と言うのだ。

今年のシャンゼリゼのクリスマス・マーケットは夏のニースの事件があったから、トラックが突っ込まないことをように様々なブロックがなされている。ベルリンにはなかった。

結局、いつも思うけれど、災害対策と通じるところがある。

いつどのように起こるか予測できないこと、
だからと言っていつも戦々兢々として生活するわけにはいかないこと、
でも過去の被害に学んで対策を立てたり予防したりするべきであること、などだ。

災害対策と違うのは、ヨーロッパの国が、一方で、中東内戦の種をまき、武器を提供し、難民を作り出し、人道支援をし、難民救助をしながら、復讐されるリスクも高め、自国の中からもテロリストやテロリスト予備軍が生まれるのを放置するなど、力と金と石油と覇権主義のせいでその場しのぎの失敗を重ね、ことをさらに複雑にしているところだ。

ベルリンのテロが起こったらアレッポの難民などテレビの画面から消えてしまった。
フランスの大統領選も、セキュリティや難民対策に論点がシフトしていくのだろうか。
要観察。
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# by mariastella | 2016-12-21 09:00 | 雑感

仏大統領予備選 社会党の場合

フランス社会党(緑の党も含む)の大統領予備選の第一回投票は来年の1/22だ。
立候補しているのは共和党と同じく7人で、うち女性も共和党と同じく1人だけ。

普通でいうと、首相を辞任して立候補したマニュエル・ヴァルスが「優勢」というか、現政府の後継として社会党を代表する候補者になってもいいのだけれど、なぜか、メディアは、そういう予想をしない。

共和党の予備選で長い間、口をそろえてジュッペとサルコジの対決と言っていたのが見事に外れたので、もうそういう予想を口にしないという自制が働いているらしい。

分裂していると批判される社会党をまとめるために、みなしきりに、自分はrassemblerする候補だとかとかrassemblementの候補だとか強調している。

「結集する」とか「団結する」という意味だ。

いったん大統領になったら左右の溝を超えてフランス人すべてをまとめあげるというのが大統領制の建前だけれど、予備選までひと月、本選挙まであと4ヶ月だというのに、社会党をまとめあげることすら難しい。

7人の候補者がみなこの言葉を使っているのも滑稽だ(ジュッペもフィヨンももちろん使っていた)。

この言葉の「一致団結」というニュアンスは、自然に統合に向かうという意味ではなく、誰かが主体的に呼びかけて、そこに皆が集まる、という含意があるから、いわば団長のもとに団結するということになる。

だから、7人の候補者がみなこの言葉を使うと、団長7人でむしろ立派な分裂だなあという感じだ。

アメリカではトランプがヘイトスピーチを罪に問わない方向に向かうようだ。

そんな中で、カズヌーヴ新首相がカトリック左派の雑誌でとても重要なことを口にしていた。
フランスの理念は「福音的」だというのだ。

「キリスト教的」というのと「福音的」というのは似て非なるものだ。
私が今書いている本はそのことに光を当てている。
いったん行き先が見えてくると、同じ途上にいる人たちの姿が見えてくる。
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# by mariastella | 2016-12-20 04:40 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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