L'art de croire             竹下節子ブログ

「忖度」とグラムシのヘゲモニー論

今年の流行語大賞候補とか言われている「忖度」という言葉。

これを聞くと、グラムシのヘゲモニー論を思い出す。

20世紀イタリア共産党の創始者グラムシの唱えた「ヘゲモニー」とは、法に依る権力や経済権力による「支配」とは別の、

「指導」や「同意」として行使される権力の形態のことだ。文化による権力だともいえる。

これはまさに今話題の文脈における「忖度」の定義のようだ。

ヘゲモニーとは「同意を積極的に調達するもの」ということだが、「忖度」そのものだ。

自発的な同意を行使させる「忖度」だけではない。

日の丸君が代を起立して歌い敬う「指導」がいつしか処罰をともなう強制に変化してきたように、「忖度」を拒否する人を監視し取り締まる「共謀罪」も成立しようとしている。

安倍一強のヘゲモニーは、出生率の向上や女性の就労支援などといった生き方のありようそのものにまで広げられている。これもグラムシの分析した「生き方を含む対抗文化」の戦略を裏返しにしたものだ。

阿部首相は安保法制の議論の中で「我々が提出する法律についての説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」と言ったそうだけれど、ヘゲモニーを可視化しすぎ。

グラムシは「新しい時代」を切り開くにあたっての知識人の役割を強調した。

政治とは哲学にひとしい。ある文化圏の中に強固な地層を残している哲学は批判の対象になる。

歴史的に形成された文化と知の要素を批判的に洞察する必要がある。そのためには「すべての人は知識人である」必要がある。

ポピュリズムの対極にある考え方だ。

となると、出自を「でじ」、便宜を「びんせん」とか読む文科副大臣がいたり「云々」を「でんでん」と読むリーダーがいたりする政府によって、無批判に「戦前」の思想を持ち上げられてヘゲモニーを形成している国って…。



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# by mariastella | 2017-05-28 00:08 | 雑感

『禁じられた歌声(ティンブクトゥ)』アブデラマン・シサコ監督

2014年から15年にかけていろいろな映画賞を獲得したフランスとモリタニアの合作映画。
シサコ監督はモリタニア生まれマリ育ち、モスクワで映画を学びフランス在住という国際派。
見た目もトゥアレグと黒人の混血っぽいコスモポリタン風。

アフリカのマリ共和国北部のティンブクトゥという世界文化遺産にも登録されている町が2012年からアルカイダ系イスラム過激派に占領された様子をドキュメンタリー風に描いたものだ。
2013年の初めにオランド大統領が単独で介入して過激派から町や住民を「解放」した。フランス軍は救世主のように歓迎された(その後フランス軍の兵士による現地の少年への性的虐待などのスキャンダルが発覚したが)。
周りが広大な砂漠なので過激派を追いやったと言っても、どこかに「追い詰める」わけではないので、今もフランス軍は駐留中で真理の「政府軍」を訓練したり援助したり、新大統領のマクロンの最初の訪問地(ベルリンの次)もこのマリの駐屯地だった。そのくらいフランスにとって政治的な意味の大きい場所なので、この映画も政治的な思惑から逃れられない。

2012年に羽田からパリに戻った時、驚いたことを思い出す。普通なら、空いている時間帯だ。JAL便から降り立つ日本人に対する警戒はとても低く、入国審査でもほとんど機械的に通してくれる。けれどもその時は、圧倒的に黒人が多かった。日本人が隠れてしまうほどで、審査窓口には長い長い列で全く進まない。窓口でもめた後どこかへ連れていかれる人も多い。周りの人を見ると、マリのパスポートだと分かった。後から、彼らは過激派支配から逃れてきたのだと納得した。出口のホールも、到着した親類や知人を迎え入れる人たちでいっぱいだった。どこの国へ来たのかと思った。ああいう状況だったからフランスが慌てて侵攻したのかなあと後で納得がいった
とはいえ、フランスがマリのガオやティンブクトゥーを「解放」しても、ジハディストたちは移動するだけだ。
最近のマンチェスターのテロの実行犯の父親や弟はリビアにいてISとつながっていると言われる。イラクやシリアを追われたISがリビアに拠点を移すという予測はもう実現しているのかもしれない。

映画に戻ると、アルカイダの専制への抵抗としてボールなしでサッカーをする少年たちの詩的な映像などが予告編でいたるところに出回り、本編を見る必要がないほどだ、などと言われもした。
シャリア法では女性は髪も手も足も隠すべきだとか、音楽も禁止、酒もタバコも集団をつくるのも禁止、サッカーも禁止、石打ちの死刑や、手の切断刑や、斬首や鞭打ちなどの実態が、すぐ後に続いたISのプロパガンダよりも先に、この映画によって「イスラム過激派のひどさ」として広く知られるようになった。
けれども、「白いIS」と言われるサウジアラビアのワッハーブ派がもう何十年も公然とやっていることもほぼ同じだ。
ただ、サウジではタバコとサッカーはお目こぼしだった。既得権益と関係があるからだ。
街中で10人以上集まるのが禁止だしサッカー以外は音楽会も他の娯楽も、人が集まること自体が禁止。公開処刑は「普通」だった。

9・11のテロリストを輩出しながらも、冷戦時代からのアメリカとの同盟関係や「共通の敵」イランへの牽制などでなぜか「自由陣営」っぽい姿を容認されているサウジは今も「国連女性の地位委員会」のメンバーになったり人権理事会議長国になったりしている。
自由とは金で買えるものだ」という金の支配の方が「神の支配」より実効性があるということなのかもしれない。

で、この映画。特に女性たちが抵抗の姿勢を見せたり、「過激派」たちがイマムとじっくり話したり、プロパガンダ映画にならないように「人間」を描こうとしているわけだけれど、そのことが中途半端にヌルい、という評価も受けている。
画面が美しく、暴力的なシーンが少ないことは個人的にはほっとするけれど、確かに、どこか強度が足りない。

シサコはマリで非婚のカップルが石打ちで殺されたことにショックを受けてこの映画を作ると決めたそうだけれど、石打ち刑自体はすごく古くからある。
新約聖書で「汝のうち罪なき者が石もて打て」とイエスが言ったことで有名なように、シャリアでなくてもユダヤの律法でも普通だったし、最初の殉教者ステファノも石打ちで殺された。イエスは個々の人間の事情を無視した原理主義的「律法遵守主義」を徹底して批判し否定した。
イエスに足場を置いたキリスト教文化圏が最終的に死刑廃止に向かったのは論理的に整合性があるし、私もあらゆる形の死刑に反対の立場だけれど、2012年のマリの「石打ち」刑だけが突出してシサコに大ショックを与えたというのは興味深い。彼はアフリカのチャイナタウンやカラオケ、中国も舞台にして中国人男性と黒人女性のラブストーリーも撮影している。もともと感覚が国際派なので、この映画も本来、政治的なイデオロギーを伝えるようなものではないのだろう。

でも、ともかくドキュメンタリータッチなので、リアルだ。過激派が乗り回す軽トラックみたいなものが全編に出てくるのだけれど、その後ろの大きなTOYOTAの文字にどきっとする。
最も印象的なシーンは、「鶏の女」だ。
女たちは徹底的に服装を統制されるのになぜか一人の初老の女性だけが、派手な格好で鶏を肩にのせたりして長い裾を引きずって闊歩している。これも、マリでの実際のモデルに基づいているそうだ。1960年代にパリのキャバレー「クレイジーホース」のダンサーだった女性で、フランス語を話し、ティンブクトゥーでなくやはりアルカイダに占領されたガオの町で、この女性だけが、髪も覆わず、歌って踊って煙草を吸って、ジハディストたちを平気で罵倒していたのだという。

一見、王宮の道化というか、トリックスターというか、そこだけカーニバルのガス抜きというか、「狂気」と「聖性」のアンタッチャブルが交わるところというか、社会学的なことを連想してしまう。
宗教者が自由に生きるために突飛な生き方をする「佯狂」(狂を装う)というのは日本の『発心集』などにも出てくるある意味古典的なサバイバル戦略だ。
為政者が自らの権威を知らしめるには、「普通の人」「一般人」を取り締まってこそ意味があるので、最初から社会の「枠外」に突出している者を取り締まっても意味がない。そういう人たちは「社会」がすでに制裁、排除している形で存在を許されているからだ。

で、この「鶏の女」がリラックスして横たわっている前で、一人のジハディストが「踊る」。
腕を広げ恍惚として踊る。
自由のあるところにはインスピレーションが降りてくるかのように

イスラム原理主義の「音楽の禁止」についても改めていろいろ考える。フランスのブレストのモスクでサラフィストのイマムが子供たちに「音楽を聴くだけでサルになる、豚になる」と教えているビデオを見て、さらに、コンサートホールでのテロの後、戸外を含む集団の音楽イヴェントに参加を決めたことも思い出す。
もう20年以上前になるけれど、私の主催するパリのアソシエーションで亡命チベット人の音楽コンサートをしたことも思い出した。中国植民政府の方針でチベットの楽器も内も禁止され、夜にうちの中でひっそりと弾いていたのだという話だった。

シサコの映画の邦題が『禁じられた歌声』とされたことを的外れだというコメントも目にしたけれど、歌や踊りや音楽が自由のシンボルであることを思うと、含蓄がある。


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# by mariastella | 2017-05-27 00:45 | 映画

マクロンとトランプ

楽しみにしていたマクロンとトランプのはじめての出会い。ベルギーでのNATOの会議だった。トランプはNATO本部の立派さに驚いたと言われる。

アメリカの金でできているんだ、と予定通りの文句を言うより、素直に「大きなものがすごい」と思ってしまうところが無邪気?なのか…

で、マクロンは多分わざと演出したのだろうと思うけれど、他の首脳よりも遅れて到着した。皆がずらりと並んでいるところに一人ゆっくりと近づいて、なぜかラ・マルセイエーズが流れ、というできすぎる登場。

まずメルケルとは親しさを強調してハグをし、何人かとの後、いよいよトランプとの握手。
トランプはいつものようにぐいと自分の方に手を引き寄せる。
そして左手をトランプの腕にかける例のしぐさも忘れない。

メラニア夫人に握手した時も左手を添えて彼女の手を包む形。

アメリカ大使館でのトランプとツーショットの両者が座っての握手はもっと愉快で、マクロンの力が強くてトランプの手首が白くなった、トランプが手を離そうとしたのに握って離さなかった、というので、 ネットメディアがすぐに書き立てた。

そんな時に並べられているのが安倍首相との握手だというのはなんだかなあ。
私も前に書いたけれど、トルドー首相が一歩も引かなかった映像もまた登場。
メルケルには逆に、握手を拒否したり全く力を入れなかったりしていたのも。

あすのG7サミットではどうなるのかまた組み合わせが楽しみだ。

トランプとマクロンの会談が予定の1h15を30分オーバーしたとかで、プラグマティックなものだったと珍しくマクロンがすぐにtweet。
(昨日のフランシスコ教皇とトランプとの会談は予定の30分より5分前に切りあがった)

トランプはルペンを応援していたと言われるのを否定するように、マクロンのことを「You are my guy」と言ったそうだ。





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# by mariastella | 2017-05-26 04:49 | 雑感

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(ペドロ・アルモドバル)

今開催中のカンヌ映画祭で審査員長を務めるスペインのペドロ・アルモドバル監督の1988年の作品だ。

赤が印象的。真っ赤なトマトをザクザク切ってつくるガスパーチョが睡眠薬になる。

映像と音楽をたどるだけでも楽しい。ポップアートの美術館にいるようだ。

ヒロインのアパルトマンが凄い。テラスに植物が茂っていて、ウサギやアヒルがいる。

「明日は家政婦さんが来る日だから」と言っている。

マドリードのブルジョワの暮らし、けれども上流階級というのではなくてテレビコマーシャルにも出て人に顔を知られている芸能人の暮らしなのだ。

シリア人のシーア派のテロリストと関わってしまった、と助けを求めに来るヒロインの友人の話など、30年前とは思えない今こそリアルな話だ。

マンションの管理人の女性が「私はエホバの証人だから嘘をつけない、」と何度も言って、エホバの賛歌を口ずさんでいるのも注目。


出産してからずっと精神病院にいた女性がピンクのスーツに派手な付けまつげという新婚旅行のような格好でピストルを両手に男への復讐に向かうのもグロテスクで怖い。

コクトーの戯曲『人の声』にインスパイアされたというだけあって、電話でのやりとりがシンボリックな意味を持っているのだけれど、それはいつも留守電のメッセージとなる。声優のアフレコ収録シーンも出てくる。「対話が成り立たない」ということ自体が鍵になっている。


大きな電話機が何度も出てきて、電話の修理屋も出てくる。

こんな風な男女の別れやすれ違いも、今の携帯の世の中なら全く様変わりしただろう。

といっても、今でも、「会話」を拒否しようとしたら、SMSやLINEでのみ別れを告げることもできるし、それらに返事しなかったり未読にしたりスルーしたり削除したりなどもできるので、「留守電に入れる」「留守電を待つ」というオプションだけの時代よりも当事者はもっと「神経衰弱」になるかもしれない。


「通信手段」に焦点を当てると、1930年のコクトーの戯曲は半世紀以上経ったアルモドバルの映画に応用され得たのに、その後20年も経っていない今は、様相が決定的に変化したということだ。

人間関係は深いところで確実に変わっている。




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# by mariastella | 2017-05-26 00:10 | 映画

『海よりもまだ深く』(是枝祐和)

海よりもまだ深く』(是枝祐和)


去年のカンヌ映画祭に出品されたもの。

フランスは是枝作品やドラン作品が好きだ。

家族の間の微妙な関係、特に母と息子の愛憎の葛藤とか、とても特殊で個人的なものをクローズアップしてそこに普遍性というか家族のアーキタイプを見る満足が好きなのかもしれない。

主人公が、別れた妻の新しい男に向ける視線は、ドランの『マミー』の中で、主人公が母親の新しい男へ向けるそれとかぶる。

これは東京郊外の話なので、『マミー』のモントリオール郊外よりも身近かなはずだけれど、そして、多くの人(日本人)が「実家」映画と言っているように、日本の家庭で「あるある」的な原風景が丁寧に描写されているのだけれど、私にはそういう風には感情移入できなかった。

是枝監督が実際育った団地だそうで、マンモス団地ってこういうものなのかと知った。

子供の時に「団地」らしきところに足を踏み入れたことはあるけれど、木造一軒家にばかり住んでいたので「鉄筋のおうちってこういう感じなんだ」と思ったくらいで、この映画で初めて、ハイパーリアルに団地体験ができた。団地でも分譲区域があって格差があるというのも知った。

それを言うなら競輪場もはじめて見た。

ダメ男である主人公の阿部寛と彼を捨てた元妻の二人が美男と美女なのがある意味かえってリアルだ。

いかにもダメそうな男と必死でサバイバルしている元妻という感じのキャラを無理にあてはめているわけではない。美男と美女でもうまくいくとは限らない、という実感がこもる。

デジタル時代の今時あまり問題にもされない「字の上手さ」というのが伏線になっているのがおもしろい。

夫の急死で未亡人となって「解放された」気分の母は、長男にバイオリンをずっと習わせていた母であり、長女の娘のフィギュアスケートのレッスン代を払ってやろうとする母であり、団地内のカルチャースクールみたいなところでクラシック音楽の鑑賞教室に通っているシニア女性でもある。その混ざり具合が絶妙だ。

姉弟間の微妙な嫉妬、息子の見栄、父との確執、それらは「普遍的」とは言えなくても国を越えて多くの人に共通するテーマであるというのは分かる。

探偵事務所の後輩である若者とのコンビがとてもいい。

自分も両親の離婚によりトラウマを蒙ったというこの若者が、なぜかよく分からなかったけれど主人公に借りがある、と感じていること、彼のすべての逸脱に付き合うこと、それらをなぜか自然にやってしまうことが、映画全体のアクセントになっている。

「小説家」とか「探偵」とかいう息子の特殊な職業と、年金で団地に一人暮らす未亡人という普通さのコントラストに台風という外的なインパクトを絡ませているのもうまいし、飽きさせない。

「なりたいものになれなかった」大人が

それでもあがくのか、

自分を偽るのか、

あるいは諦念の境地で今ここのささやかな幸せを見つめることにするのか、

プラグマティックに最善の道を探るのか、

ろいろなケースが描かれていているのはいい。

でも、それらに囲まれた11歳の少年が、ホームランよりフォアボールを、野球選手より公務員になる将来を望む、芽生えた唯一の希望らしきものは宝くじに当たって両親といっしょにまた暮らせるようになるというのは、やりきれない。子供に夢を持たせる社会的な契機がここには何もない。

樹木希林の口から出る賢者の人生訓みたいなものも、正直言ってなんだかなあと思う。死んだ夫とは違って息子にも元嫁にも孫息子にも一目置かれていたり尊敬されているのだから、私が彼女の立場だったらもっとポジティヴなことを言ってやれるのに…(って、自分を重ね合わせるのがおばあちゃん役ということが少し悲しいが)。


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# by mariastella | 2017-05-25 00:16 | 映画

イギリスのテロ、トランプ、韓国、パレスティナ…

これを書いているのはフランス時間で5/23。

国際情勢の動きから目が離せない。


マンチェスターのテロはバタクランのテロを思い出させるが、マンチェスターのアリーナの規模は桁違いに大きい。

この事件で、フランスの劇場やコンサート会場などの警備に緊急の通達があった。折しもカンヌ映画祭の開催中である。

何が特に注目されているかというと、「コンサートが終わった後」だ。ホールへの入場には念入りに所持品のあらためや身体検査がされるが、終わった後の「解散」の時には警備が手薄になる。慣習がどっと出てくるところを狙われるというのはセキュリティの盲点だった。

犯人はリビア系でマンチェスター生まれの22歳のイギリス人。シリアやイラクのISの元で「訓練」した経歴があるかどうかはまだ判明していないが、ともかく、国境を閉鎖したところで、EUを離脱したところで、「自国内」の若者がネットなどでISに鼓舞されてテロに走るとしたら防ぎようがないというのが再確認された。


イギリス型の共同体主義社会は、様々な「文化圏」がモザイク状に「共存」している。

それらが互いにリスペクトしあって共存しているならいいが、そのうちのどれかが自分たちの優越性を掲げ、他のコミュニティを「不信心者」として攻撃するなどに走れば、フランス型の「統合」志向の国での逸脱よりもさらにやっかいなことになる。

私がフランス型のユニヴァーサリズムを支援するのは、たとえ多様な共同体が互いをリスペクトして共存していたとしても、どんな共同体に生まれつくかは誰にも「選択」できないし、共同体内部での差別や支配関係は自体は改善されにくいからだ。

その共同体から出ていく自由がより高位の権威によって保証されているべきであるし、共同体の伝統やコードよりも、すべての人間が自由と平等と安全と幸福を追求する権利と尊厳が優先されるべきだと考えているからだ。

生まれついた共同体のマジョリティで戦争や飢饉のない時代を過ごしてきた人にはなかなかぴんとこないかもしれないけれど。


ここ数日は、トランプのはじめての「外遊」も注目を集めている。

ツイッター発信を禁止された?とかで、ここまではシナリオ通りに動いているようだ。

でも国際情勢はシナリオ通りにはいかない。

イランを共通の敵にしてイスラエルとアラブを結束させてパレスティナの平和協定を実現させるという構想自体は悪くないし、関係者たちはすでにアメリカに来て話し合っていた。けれども、イランではアメリカとの関係改善をスタートさせたロハニ大統領が再選された。イランに投資つつあるマルチナショナル企業はほっとしているだろう。

こんどはイランとサウジアラビアと、どっちが長い目で見てより良いビジネスのパートナーになるのか、などという基準で外交が進むのだろうか。

イスラエルの嘆きの壁に手をあてるトランプの姿は世界中に配信され、「壁」ジョークに大いにネタを提供した。トランプと言えば「メキシコ国境に壁」が有名だから、「嘆きの壁」の前で「これはメキシコが支払ったのかな」とつぶやくようなカリカチュアがたくさん出た。

今日はパレスティナのアッバス議長と会っていたし、5/24がローマ法王との会見だということで、「聖水をたっぷりふりかける必要がある」となどとからかわれている。(悪魔祓いという含意?)

翌25日がマクロン大統領との初の会食の予定。

これも、「マクロンの方がトランプよりも英語がうまい」などとからかわれている。

マクロンのフランス語の語彙の豊かさについては前に書いたが、確かに英語の語彙もトランプより豊富なことだろう。


韓国の新大統領も決まった。

「親北反日」だという形容も耳にしたけれど、この「半島危機」の時代に、「反日」だから気に入らないとかいうのは大局的に見ると優先事項ではない。

北と南が穏便な形で平和条約を締結して「朝鮮戦争」を終結させて南北を統一し、米軍が撤退すれば、中国も介入しないですみ日本の「危機」も回避できるというのが理想的なシナリオであることは自明だ。

南北統一が果たされて米軍と中国が矛先を納めさえすれば、核兵器があろうとなかろうと、維持する必要そのものがなくなる。


イスラエル、インド、パキスタンの核兵器の現実の方が危うい。

一番怖いのは自爆型テロリストに核兵器を奪われたり、原発に突っ込まれたりする可能性の方だ。

ドローン攻撃やサイバーテロのことを考えるとほんとうに真剣に対策を立てることは別にあるような気がする。

顔の見える国に対して「制裁、制裁」などと煽っている場合ではない。


生きている間に、イスラエルとパレスティナが互いを認め合い、スンニー派とシーア派が共存し、南北朝鮮が統一されるのを見たい。

いや、それよりも、今現在のベネズエラや南スーダンの内戦状態が気になるし、今週末から始まるラマダンも心配だ。ISはラマダンの期間(特に金曜)にジハードで殉教すれば天国直行とかまた宣伝するだろう。フランスでは昼が一番長くなる時期だからムスリムのつらさも目に見える。

木曜はキリストの被昇天祭だ。せっかく復活したイエスが、後を使徒たちに託して天に昇ったという日。そして翌日の金曜からラマダンが始まる。

(断食は土曜の朝から)


世界中の宗教者にはぜひ平和のために祈ってもらいたい。





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# by mariastella | 2017-05-24 05:27 | 雑感

『Mommy/マミー』(グザヴィエ・ドラン)

Mommy/マミー』は、当時まだ25歳だったグザヴィエ・ドランカナダ映画(2014)カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。基本的に批評家好みの映画。

最初にこれを観た時は、フランス語が聞き取れないので驚いた。カナダ映画ははじめて観るわけではないのに、フランスに来て最初の頃、映画のフランス語がとても聞き取りにくかったことを思い出して懐かしくなったくらいだ。

これは要するに、ケベック訛りというより、完全にケベック方言だからだ。

映画の最初に施設の人が母親役のアンヌ・ドルヴァルに話しかける言葉はよく分かる。つまり、「標準語」なのだ。

これまでケベックから来た人とも何度もフランス語で話したけれど、別に不自由は感じなかったのは、ちゃんと「標準語」を使っていてくれたからなのだ。

植民地でほど宗主国の言葉は古いままで維持されるというのはよく言われることだ。フランス語の「単純過去」は、もう普段の会話で使われないけれど、アルジェリアなどでは今も普通に使われていると聞いたことがある(それももう古い話だけど)。

今のフランス語では音便になってoiが「ゥワ」、aiが「エ」と発音されるのを、この映画ではオイとかアイとか二重母音が残っている。時々「by the way」など英語も混ざる。いわゆるクレオールというのとは少し違う。

私はフランス・バロックをやっているから、フランス語を17、8世紀風にはどう読むかはよく知っているが、それは「朗誦」の世界のことであって、ケベック方言しかも俗語、口語の世界だから歯が立たない。

私の周りには、かなり親しい人も含めてモントリオールとフランスを行き来しているカナダとフランス二重国籍の人が少なくない。だから、語彙の違いなどはよく知っている。例えばフランスの「昼食」というのはカナダの「朝食」、ディナーのディネが昼食で、夜食のスぺが夕食だ。英語の影響で最初がずれたのだろう。だから、この映画で夕方に「スぺの用意ができたよ」とかいうのはよく分かる

で、もちろん他のフランス人にも聞き取れないわけだから、ほとんどの場面にフランス語の字幕が入っている。といっても、訛りをとって書き起こすのではなくて、「訳している」ところも多い。でも、そのうちに癖が分かってきて聞き取れる分も多くなった。

で、これについて、監督のドランは、ケベック語を讃えるものだとはっきり言っている。

彼は何度も、ケベックは英語の大海に囲まれて非常なストレスにさらされてきたというのだ。

特に、男たちは400年間、「英語につぶされてきた(英語話者がボスであり資本家でありフランス語話者は使用人、労働者という格差)」、その中でフランス語を守ってきたのは女性で、1964年からの女性解放の運動はとてもラディカルなものだった、女性たちがカナダを引っ張っている、女性たちを通して、アメリカでもなくフランスでもないケベック、ケベック語を堂々と世界に配信したい、などと言う。

ベルギーにおけるフラマン語とフランス語の関係にも似ている。

いやー、上に書いたように、モントリオールの知り合いがたくさんいて、私がいつ行っても泊まるところもあるというのに、今までなんとなく、「モントリオールの人っていいなあ、みんなバイリンガルだし」、などと思っていたので、彼らのアイデンティティとしてのフランス語の重さがここまでだとは思っていなかった。

そんなことを聞くと、ナポレオンによってアメリカに売却された後のルイジアナの人々のことも想起される。

ケベックもルイジアナのようにフランス語を失っても不思議ではなかったのだなあ、と、ケベックの歴史をあらためて振り返る。

若いだけでなく童顔のグザヴィエ・ドランは10代くらいに見える。(父親がエジプト人のアーティストというのもおもしろい。ドランはフランス系の母の名前だそうだ。)

実際10代の頃に、シナリオを持ってアンヌ・ドルヴァルを訪ねて行ったらしい。

しかも、彼の映画に出る熟年の女優たちはまるでみな彼の魅力にとり憑かれたようなことを言っている。

『マミー』の後でカンヌでパルムドールをとった映画に出たナタリー・バイも同じ感じだ。

ベテランのスタッフやベテランの俳優たちに囲まれて天性のカリスマを発揮しながら皆の心をつかんで自分の権威を認めさせてしまうところは、なんだかマクロン新大統領のことを想起してしまう。

映像も音楽もすばらしいけれど、本人も言うように女性、特に「母親」に人生のすべての陰影を見て「家族」を強迫的に描いていくのは重い。その母に対峙するのが自分自身のような性的マイノリティや、多動障害の少年や余命を宣告された青年などなので、ますます重い。

『マミー』では子供を亡くしたショックで言語障害になって休職中の女性も出てくる。

一方で、ケベック語、ケベック方言などという以前に、すごい量で繰り出される卑俗な言葉や乱暴な言葉に圧倒されるので、無意識にバリアを張って観てしまい、どこにも自分の気持ちを投影できない

後に残るのは、新自由主義経済の爪痕の深刻さばかりだ。

映画なんて観ている場合じゃない、などと思ってしまう。



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# by mariastella | 2017-05-24 00:04

『ゲット・アウト』(ジョーダン・ピール)

『ゲット・アウト』

前の映画の反省(?)に基づいて、久しぶりに、「ホラーでもいいや、カタルシスを得られるなら」と思って今話題のアメリカ映画の『ゲット・アウト』に行ってみた。

ジョーダン・ピール監督脚本、主演はダニエル・カルーヤとアリソン・ ウィリアムズ。

ピールは人種差別をネタにして笑いをとりながら抗議するというスタイルの黒人のコメディアンのコンビの一人だそうでこれが監督第一作。

人種差別というと、トランプ大統領の支持層となったような南部のプアホワイト、のようなイメージがあるが、実は、「オバマは最高の大統領だ」と言っているような民主党支持の一見リベラルなブルジョワ白人の偽善者による差別の方がずっと始末が悪い。

白人の彼女ローズの実家にはじめて行く写真家の黒人青年クリスが、ローズの実家の屋敷で、脳神経外科の父や精神医の母、医学生とかいう弟、黒人の庭師やメイドたちに紹介されるが、みな不自然で、奇妙なことばかりが起こる。

クリスのパラノイアかとも思われるのだが、次の日のガーデンパーティではまた不思議な光景が繰り広げられる。

ここに集まる白人たちはいわば秘密結社のメンバーのようなものなのだけれど、その中で私の目を引いたのは、そこに「タナカ・ヒロキ」という日本人が混ざっていて、クリスに「今のアメリカでアフロアメリカンであることの意味」を訪ねることだ。
そのしゃべり方からいっても日系アメリカ人というより日本人だ。

この白人たちとビジネス上の関係でもあるのだろう。

つまり、ここでは日本人は昔のアパルトヘイト国でのように「名誉白人」のような立ち位置にあるわけだ。
それは、偽善的な白人ブルジョワのエゴイストたちと同じ価値観を共有していることを意味している。タナカはやけに色白の男でもある。

フランスのブルジョワのレイシストの中にも堂々と「日本人は優秀な民族だ」という人がいる。これも一種の逆レイシズムだということが分からないのだ。

最初にクリスの煙草を車の窓から捨てるローズや、喫煙習慣を催眠術で治すというローズの両親のこだわりも、この映画を通して見ると、「禁煙ファシズム」という言葉をはじめて実感として思い出した。
こんなところに引き合いに出されてオバマ大統領も迷惑だろうな、と思ったが、実際、こういうタイプの「リベラル白人」の存在がリアルに感じられて、やはりアメリカの「黒人差別」の根は深いと感じる。

フランスとはだいぶ違う。歴史も違うが、「コミュニタリアニズムを排しユニヴァ―サリズムを掲げる」というのはフランスでは絶対の「政治的公正」でアイデンティティに組み込まれている。
マクロンだろうとル・ペンだろうと、本音は知らないが、その点では一致するし、「習い、性と成る」という部分は確かにあるなあと思う。

ローズの母親役のキャサリン・キーナーという人がマリーヌ・ル・ペンに似ているのでどきっとした。顔立ちというより、雰囲気で、タイプは違うのに、何かこわい。それをいうなら、ローズの顔のアップがマクロンに似ている、と言う人もいた。ここのところフランスでは嫌と言うほどこの2人の顔のアップばかり見せられていたからかもしれない。(これを観に行ったのは大統領選の直後だった)

後は、主人公クリスの大きな目ばかりが印象に残る。

シナリオもホラーというよりサスペンスで、よくできていて、飽きはしなかった。
ヴァイオレンスがあるのは分かっていたので目を閉じることにしたのに、音や音楽の効果からは逃れることができない。
生活感もかけ離れているし、直接私の悪夢に出てきそうなタイプの怖さのものではないからまあいいかと思って好奇心に駆られて観た映画だ。
ぬるいコメディよりはましかと思ったし、社会派映画を観る元気もないので一種の「逃避」だったのだけれど、実はこの映画を観る前に、個人的にショックなことがあって頭がいっぱいだったので強制的に気分転換を図ったのだ。

こんなことなら読みかけのエピクテトスを読み進めていた方がよかったかもと思ったが、「アメリカ」を通して「フランス」を考える時に、映画はとても便利なツールだと改めて感じた。


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# by mariastella | 2017-05-23 00:26 | 映画

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

(映画コメント続き)

『2人で一つのプロフィール』(ステファヌ・ロブラン)

評判が悪くなかったので観に行った。
近頃はシニア人口のマーケットが大きいからか、シニア俳優が主人公の映画が少なくないので、何がターゲットにされているのか観察するのに興味がある。

主人校の79歳のやもめは、ベテラン・コメディアンのピエール・リシャール(もう82歳だそうだ)で、いつも愉快なので楽しめるかと思った。最後にマーシャ・メリルというなつかしい人も顔を見せる。
妻を亡くして2年、引きこもり状態の父を心配した娘が、自分の娘ジュリエットの恋人アレックスを父の住むベルヴィルのアパルトマンに送り込んでインターネットの使い方を教えさせる。アレックスは駆け出しのシナリオライターで、このアルバイトを引き受ける。
すると、このピエールが偶然出てきた出会いサイトを開いて、ベルギーに住むフローラという31歳の女性とメールをかわすようになる。でも最初にプロフィールとして載せた写真はアレックスのものだった。

というところから、実際に出会うことになってアレックスに代役を頼んだり、自分がアレックスの祖父役を演じたりするかなり無理な設定でのブリュクセルやパリの観光シーンが美しい。アレックス役のヤニス・レペールという青年は、その辺にいそうな普通感と、暖かさと弱さの混じり具合に好感が持てる。フローラ役のファニー・ヴァレットの美しさも印象的だ。

で、おもしろかったかというと、
つまらなかった。
いくら重い映画よりもコメディで気分転換したかったにしても、これほどつまらないとは思わなかった。

でも評判がわりとよかったのは、ピエール・リシャールへのリスペクトと、シラノ・ド・ベルジュラックの国ならではの「現代のシラノ」の悲哀が受けたからだ。
恋人を棄ててパリよりも上海でのビジネスを選んだ若者とか、
ベルヴィルの中華街の様子とか、
今時の親子三世代の関係とか、
もちろんインターネットを通した出会いなど、今のパリや郊外の普通の生活を切り取った親近感もよかったのかもしれない。

私の身近にいるバツ2のシニア男性でネットでの出会いを繰り返している人も知っているし、別の知人は、やはり出会い系ネットを通して知り合ったブリュクセルに住むジャーナリストと時々パリやベルギーで会っている。そういうことが普通にある世界なのだなあとあらためて思う。

「嘘」がばれた時のフローラの反応は意外だし、最後の「オチ」は楽しい。

シナリオは悪くないのだけれど、せめて心から笑えるとか、感動して泣けるとかの「気晴らし」を与えてほしかった。

暇もないのにこんな映画を観るくらいなら、多少ヴァイオレントでも怖いシーンがあっても、心に刺さる映画を観るべきだなあと反省した。

で、次に観に行ったのは….



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# by mariastella | 2017-05-22 00:49 | 映画

『ベリエ一家』(エリック・ラルティゴー)

(たまっている映画評の続き)

『ベリエ一家』

エリック・ラルティゴーのこの映画は『最強の二人』や『コーラス』路線。

ハンディのある人とない人のヒューマンな関わりを軸にした感動物語だ。

この映画で設定される「ハンディ」は、酪農で製造販売を営む両親と弟が全員聾啞者だということだ。手話が共通語のその家族で唯一の外界とのパイプになっている16歳の少女ポーラは、皮肉なことに、歌の才能があって歌手になることを目指してパリのラジオ・フランスのオーディション参加を準備する。

彼女は実際に、TVの詩のコンクール番組で登場し、準決勝まで残って16歳でデビューした新人で、この映画でセザールの新人女優賞を受賞した。

あまりリアリティのない設定の中で繰り広げられる若い女性の愛と自立と成功の物語自体は予定調和風でもある。
コメディとしておもしろいのは両親が聾唖であることで生まれる誤解などで、フランソワ・ダミアンとカリン・ヴィアールという芸達者な2人がカリカチュアに陥らないギリギリのところで名演を披露しいる、と言われたが…名演なのは間違いないが、カリカチュアは免れていない。

ハンディのある夫婦の方が「ノーマル」な俗人よりも「働き者」で、愛し合っていて、シンプルで、まっとうな政治感覚も持っている、という描かれ方。
でも、娘が自立のアイデンティティとする「歌」を彼らは聴くことができない、というせつなさが陰影を与えている。

私はこの映画の舞台に想定されている地方に近い村にあった田舎のうちに15年くらい通っていた時期がある。
その村の外れの農場に友人夫婦がいて、毎日搾りたての牛乳をもらいに行っていた。
日本の大都市でしか暮らしたことのない私にとっては、生まれて初めて身近で見る農場、牛の群れ、搾乳だった。そこには男の子と女の子がいて、女の子はなんとなく、「ベリエ一家」のポーラに似ていた。
バカンス好きなフランスで、バカンスもとらずに早朝から家畜や畑の世話をする人々の生活をはじめて近くで見た。

今は息子も娘も結婚していて、農場は息子が継いだが、兼業しているため、リタイアして近くに引っ越しした父親が今でも毎日「手伝い」に行っている。

そんな彼らと今もつきあいがあるので、ベリエ一家二も親近感を抱いた。

シチュエーションの特殊さを除いては、ストーリーの展開はまことに平凡なのだけれど、主演のルアーヌ・エムラが自然で説得力があるので、最後まで引き付けられるし、娘の歌声を聞くために喉に手を当てた父親が、彼女を応援することを決心するシーンや、最後の詩のチョイスと、その歌詞を歌いながら娘が手話で伝えるシーンはやはり感動的だ。

出演者のうち唯一の本物の聾唖者である弟役の少年と、ヒロインの友達が二人きりになるシーンは不自然であまり説得力がない。
一番陰影のある複雑な人間像はヒロインの才能を見出す音楽教師かもしれない。
エリック・エルモスニノは舞台畑の演技派で、ゲンスブール役でセザール賞を受賞したのが記憶に新しい。





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# by mariastella | 2017-05-21 06:34 | 映画

マクロン、マリヘ行くーー女性国防大臣の意味は?

マクロンのはじめてのヨーロッパ外の訪問は、アフリカのマリのフランス軍駐留地で、7時間いて、閲兵した後は兵士たちといっしょにセルフサービスのテーブルについた。

フランスの国防大臣はオランド政権の5年間、ジャン=イーヴ・ドリアンが続けて存在感を示していた上に、早くからマクロンを支持していたので、続投かと思ったら、欧州・外務大臣に任命された。
要職だから文句はないとしても、新国防大臣にシルヴィー・グラールを当てたのはなんとなく分かる。

マクロンは「大統領は軍の総帥」だということを強調したかった。
もともとナポレオン路線をたどっているから、「軍隊を率いる」というイメージはもっともシンボリックなものである。
就任式の後、シャンゼリゼでパレードした時に普通の車でなく軍用車に乗り込んだのも明らかにそのための演出だった。
年長者に対してやたら「父性的」なしぐさをすることは前に書いたけれど、兵士たちの前をゆっくり歩く足取りも、それを意識している。

そんな「ナポレオン」に、ドリアンのようなベテランの国防大臣は「不都合」だろう。

シルヴィー・グラールは首相候補だともささやかれていたベテランの欧州議員だ。
実績、実力は問題ない。「国防」大臣のポストは、「戦争」大臣、「軍隊」大臣(今回はこれに戻った)など名前はころころ変わるのだが、やはり圧倒的に男性が占めてきた。

フランス史上最初の女性国防大臣はシラク時代のミッシェル・アリオ=マリーで、この人は最初の女性大統領になるかもと言われたくらい見た目もなかなか堂々としていた。彼女がこのポストに就いたのは、2002-2007で、シラクとル・ペン(父)が決選投票した後だ。その後はまた男性が続き、マクロンがル・ペンと決選投票になった後でふたたび女性国防大臣が登場したのは偶然だろうか。
ル・ペンと言えば、ジャンヌ・ダルクを政治利用することで有名だ。
ル・ペンを選挙戦で敗退させた後で、軍隊に女性大臣を配することには隠れたメッセージがあるのかもしれない。

何かと男女の同権や平等が言われる時代だ。女性大臣と言えば教育とか文化、健康、厚生などのポストを受け持たされることが多いことも批判される中で、「軍隊」という伝統的に男の世界のトップに女性を据えること自体の「政治的効果」はもちろんあるだろう。日本でも、稲田朋美防衛大臣が女性初の小池百合子(2007)に続いて2番目だ。

マクロンの場合は、女性国防大臣を置くことで、やはり「真のリーダーは男である自分」、ナポレオンのように軍の先頭に立つリーダーなのだ、ということを「自然に印象付ける」という効果もあって一石二鳥というところか。

この人のやることはすべて計算し尽くされている。
果たして計算通りにどこまでうまくいくのだろう。

しばらく姿を見せなかったル・ペン女史もピカルディの選挙区に姿を見せた。
決選投票で58,2%を獲得したエナン=ボーモンだ(すでにFNのスティーヴ・ブリオワが3 年前から市長をしている。この人は大統領選の間FNの臨時代表をしていたが、TVでのコメントを見ているとまるでFNのイメージのカリカチュアみたいだった。16歳からFNに入ったというからすごい)。

娘と敵対していた父のル・ペンも独自候補を出さずに支持に回った。笑顔を振りまく彼女の姿がまたメディアに登場した。

エナン=ボーモンに住んでいなくてよかった。

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# by mariastella | 2017-05-20 06:58 | フランス

新内閣のスポーツ相とブラックフェイス

今回のフランスの新内閣の構成で、男女の同比率はきっちり守られたし、出身階層や学歴についてもいろいろ分析されていた。閣僚全部で88冊の著書があるとかいうのもフランス的だ。政治家の本はよく売れるし、フランス人は今でもクリスマス・プレゼントに単行本を贈り合うのが珍しくない。

でも、何しろ公の「人種別統計」が禁止されている国だから、閣僚の「人種」のバランスは問題にされない。

今回の唯一の黒人閣僚は、ローラ・フェッセルで、スポーツ大臣、過去のオリンピックで金メダル2度、世界チャンピォン6度を征したフェンシング選手(エペ)である。

黒人閣僚は、海外県担当大臣(別枠)を除くと、近年有名なところではラマ・ヤデやクリスティーヌ・トビラという大物がいたが、ローラ・フェッセルも含めてみな女性だというところが意味深長だ。

アメリカではオバマ大統領の登場も含めて黒人問題は今も重要テーマだけれど、フランスではかなり温度差がある。とはいえ、アメリカの影響で寄り注目されるようになっている。

3、4年前だったか、『エル』の女性ジャーナリストが黒人女性に扮した写真が差別だと問題にされた。

あるパーティで、ファンであるビヨンセの妹に扮した写真をインスタグラムにアップして批判されて叩かれ謝罪したのだ。

「黒塗り」はコスチュームではない、と抗議される。

アメリカとは歴史が違うから、差別への感受性も違う。

ヨーロッパでは「ナチスの仮装」の方が罪が重い。

1980年代初めのフランスでは黒塗りのコメディアンが「アフリカ人」というタイトルでコントをやっていた。

今なら完全にレイシストだ。

シェイクスピアの『オセロ』は16世紀以来白人俳優が黒塗りで演じてきた。ヴェルディの『オテロ』も白人歌手が黒塗りで歌う。

日本でも二期会の公演の写真を見ると、テノールの福井敬さんが黒塗りで歌っている。

劇団四季のミュージカル『ライオンキング』を東京で観たが、黒塗りではなく「アフリカ人」をメークしていた。

同じ『ライオンキング』がパリでは全員黒人歌手やダンサーだったことに驚いて、なるほどなあ、と思ったことがある。

オペラ『蝶々夫人』での白人歌手の「日本人メーク」の歴史もいろいろありそうだ。

アメリカでは白人が黒人を演じる「ブラックフェイス」というのが19世紀にジャンルとして確立した。

映画で有名なものに黒人歌手を描いたものがある。


1964年からはもちろん自粛された。

今はいわゆる「仮装大会」でしか見られないが、それでも問題になるわけだ。

フランス映画のコメディで女性のブラックフェイスを描いたのもあったっけ。

で、その逆のホワイト・フェイスというのはない。

一般に、女性の男装は、男性の女装よりも社会的に容認される。

女性として生まれてしまったにかかわらず、男性という「上位」に倣い、希求するのは上昇志向でOK。

せっかく男性として生まれたのに、女性という「下位」に身をやつすのは脱落者。

黒人の場合は、それが少し歪んで、

白人が黒人に扮するのは動物に扮するのと同じファンタジー(差別)、

黒人が白人のふりをするのは越権で許せない。

あるいは、社会的な差別体系の中で上位の者が被差別者に扮するのはそもそも「差別」の一形態であるから、逆のケースはあり得ない。

ローラ・フェッセルの場合は、競技種目がそもそも剣を使って戦う剣術だ。

そしてフランス語がつかわれるフランスっぽい競技。

記録を競う競技でなく相手を破って勝ち取る競技。

そこでチャンピォンでオリンピックの旗手も務めたローラ・フェッセル。

で、黒人。

で、女性。

2024年のオリンピック開催を目指すフランスにとっていろんな含意がありすぎる人選だ。






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# by mariastella | 2017-05-19 03:00 | フランス

ニコラ・ユロー環境相の意味、マクロン政権への私のスタンスなど

今朝のラジオで緑の党のダニエル・コーン=ベンディットが、ニコラ・ユローの、環境相就任についてコメントしていた。

これまでサルコジからもオランドからも誘われていたのに断ってきたポストをどうして受けたのか、
どうみても原発推進派の首相のもとでこの人選は、「アリバイ大臣」と言われているがそうなのか、

という質問に対するものだ。

ニコラ・ユローはフランス人の好きな人物のアンケートでいつも上位にある人気者で知名度は高い。
この人をついに入閣させたということは新内閣のイメージアップではある。
ヤニック・ジャドも歓迎していた。

(けれども、一方では、ディープ・エコロジストからは体制寄りのご都合主義者として批判されてもいるのだけれど。)

で、コーン=ベンディットの見立ては、マクロンはユローを守るだろうというもの。
というのは、ユローは、これまでのやり方を見ても、もし、自分が十分に動けないとか妨害をされたと感じたらさっさと自認するに違いない。

マクロンにとって、ユローを環境相にして親エコロジーを演出することのメリットよりも、
ユローに批判されて出て行かれることのデメリットの方がはるかに大きい。

だから、彼を起用するにあたっては絶対に辞任させないという自信がある、というか、彼の立場を守る、という合意があってのことなのだろう。

以上がコーン=ベンディットの見立てだ。わりと説得力があったので紹介する。

新内閣の組閣については、後は、

男女同数と言っても「格」としては女性(シルヴィー・グラール)は5番目に出てくるに過ぎない、
平均年齢がオランドの初期内閣よりも上である、

などがコメントされている。

政治畑以外からの入閣が半数を占め、
全体としては左派に傾いているが、
フィリップ首相の任命を聞いたピエール・ガタズ(フランスの経団連にあたるフランス企業運動MEDEFの会長)がいたく喜んだということからも分かるように、「経済リベラル」の路線は確実だ。

労働組合の緊張は高まっているし、マクロンが財政や失業問題の立て直しに結果を出さなければ、
また「取り残された庶民」の怒り、というシナリオになる。

全体としては、バランスが取れた巧妙な組閣だとも言われるが、国民議会の総選挙の経緯を見てみないと誰にも何も分からない未知数であるということは確かで、夏には例えばバロワン首相とのねじれ内閣になるなどの可能性もゼロではない。

付記: 古川利さんが私のことを名指しで「マクロンにメロメロ」だとブログに書いていた、と教えてもらった。
私の一連の記事でどうしてマクロンにメロメロなどという印象を与えるのか不思議だ。あらためてまとめておこう。

数年前から書いているように、個人的には彼の雰囲気は神経質でナルシスティックで好きではない。
教祖的演出も嫌いだった。
政策の新自由主義にも反対の立場だ。(しかも、ポピュリスト公約の住居税免除は私に関係ないしむしろ収入は低下する。)
政策的にはアモンを支持していたが、大麻の解禁のことで躊躇したし、メランションの言うことも、人間性は別としても基本線においては評価している。
マクロンを支持してもいいかと思ったのは第一次投票の三日前に起きたテロのテロリストがマクロンと同じ39歳だったので、同じ歳で国をリードしようとしている若い世代に希望を見出したくなったからだ。
その後はもちろん、ル・ペンよりもマクロンを支持した。彼が当選して「ほっとした」というのが本音だ。
結果的に、プーチン、メイ、習近平、トランプ、メルケルといった強烈な人達に対して、イメージ的に別のメッセージを発することができているようなので悪くはなかったと思う。
フランス語能力が高いことはもちろん評価できる。
全体としては今の私にとってはマクロンはOVNIだとしか言えない。
夫人が私と同世代であることなどどうでもいいが、そのカップルのありようが、例えばトランプ夫妻の逆であるような部分は痛快だとは思う。
私の周囲の若い世代はマクロン支持が多いので彼らへの連帯感はある。
前の記事でも書いたが目上の公人の頬を人前で軽くたたくような不自然な「父性演出」は個人的に不愉快。

とまあ、こんなところ。
サルコジやオランドと違って、内政では軽々しく「おことば」を発しないと言っているので(実際組閣についての説明もなかった)、まあこれからはそう目につかないだろう。食傷気味だ。
フィリップ首相の姿もあまり見たくない。やはりラジオと読み物中心で行くつもり。


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# by mariastella | 2017-05-18 16:30 | フランス

中南米のカップル事情

サイトの掲示板で、ヴェルデFさんという方が、

>>2005年頃、メキシコの日系企業の工場で働いていたとき、メキシコ人工場労働者200名増員する為の採用契約で、Casado(a), Soltero(a)のほかに、Union Libreと申告している人が複数おりました。メキシコ国におけるUnion Libreの法律的意味はそのとき一応調べましたが(…)<<<

と書いていらっしゃったので私もメキシコのUnion Libre(free union)(日本風にいうと事実婚や同棲?)について検索してみたら驚いた。

私のイメージではラテンアメリカはカトリックの影響が強いカトリック文化圏だから法律婚はもちろん教会での結婚が主流だろうと思っていたからだ。事実は、この500年来、ラテン・アメリカは、事実婚や「婚外子」の割合が、西欧由来の文化圏では突出して多い地域だったのだ。

それについて明快に解説する論文も見つけて読んだ。(今世紀のデータはないが。)

中南米でも、メキシコ、ペルー、ボリビアなど先住民インディオの分布が多いところと、人口密度がもともと低かったところとでは、スペイン人の入植者と西アフリカからの黒人奴隷に対する人口の割合が違う。そのバランスによって、結婚事情も違ってきた。

スペイン政府は、もともと、スペイン人とインディオの結婚を推奨していた。スペインの男と資産を持つインディオの娘の結婚の政治的、経済的価値を鑑みたからだ。当時、スペイン人の入植者の男女比は10対1だったので、必要に迫られたともいえる。
ところが、「奴隷」である黒人女性との結婚は禁止されていた。資産価値がない。
黒人奴隷の男女比は2対1だったそうだ。なんとなく労働力になる男の方が多いと思っていたけれど、「家事労働」や男たちを支える女が必要だったのだろうか。だから、黒人の方がインディオよりも女性が「余っていた」わけで、結婚が禁止されていても黒人女性といっしょになるスペイン人が少なくなかった。
また、インディオ女性といっしょになる場合でも、入植者の多くはスペインに妻子を残していたから、そもそも法律的にも宗教的にも結婚はできない。
だから、この時代、中南米の非婚カップルの割合は、スペイン本国の4倍にも上ったという。
そのスペインですら、レコンキスタでカトリックを回復したばかりの当時、英独仏などの国に比べると非婚カップルの数がずっと多かったのだそうだ。

宗教改革の時代でもあり、1563年にカトリック教会がトリエンテの公会議で、カトリックの婚姻制度を厳正化した。
けれども、中南米ははるかに遠い。
前述したような状況もあって、中南米の非婚カップル事情は「お目こぼし」となったのだ。「結婚しないで家庭をつくる」ということが、そもそものはじめから広がり受け入れられたわけである。

もちろん結婚した人たちもいる。先住民はもともと生活に宗教の「典礼」が浸透していたから、それがカトリックにとって換わるのも抵抗がなかった。

ところが、1980年代までアルゼンチンやブラジルでは「離婚」が法制化されていなかったように、一度結婚して別れた場合、二度目の結婚は当然ながら「事実婚」でしかない。ますます非婚カップルが増える。

統計の数値などが出てきたのは1950年頃からだが、今の「非婚カップル」のプロフィールは、若く、低学歴、低収入というというものらしい。別れる率も多く、逆に生活が安定して年齢が上がってから「結婚」を選ぶこともある。

カトリック教会も、昔はともかく、いまでも離婚自体は難しくても、カップルのどちらにも結婚歴がなければ非婚自体にはクレームがつかない。当然、別れて何度別の人とカップルを形成しても、「離婚」ということにはならない。子供の洗礼や教育にも支障がない。
今や、「お目こぼし」はカトリック教会の本場だったヨーロッパにも広がっている。
今の教皇がアルゼンチンの出身であるという意味もあらたに考えさせられる。

しかし、メキシコと同じくインディオの数が多かったグアテマラなど、1950年の時点でカップルの70%が非婚だったなどというのを見ると驚きを禁じ得ない。(20世紀末では40%に減っている。内戦もあったから事情はさらに複合的だけれど。)

いろいろなことを考えさせてもらった。

(ユニオン・リーブルというのは日本語で何というのかと思ってグーグル翻訳を検索したら「出来合い」と出てきた…)


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# by mariastella | 2017-05-18 06:49 | 雑感

マクロン内閣はやっぱり… ジェラール・コロン国務相

(注:タイトルの「コロン」はコロンブではありません。最初の打ち間違いが全部にコピーされてしまったのに今気づいたので訂正します。)


任命前のモラルと資産の「身体検査」に時間をかけたということで遅くなった内閣のメンバーが発表された。

バイルーが法務相、
ル・メールが経済相、
ニコラ・ユローが環境相、
ル・ドリアンが欧州・外務相

と、中道、共和党、緑の党、社会党の大物が大方の予想通りちゃんと要職に…。

突っ込みどころは多いけれど、予想通り、ジェラール・コロンの名が真っ先に国務・内務大臣として上がったのは感慨深い。

マクロンの就任式で握手をされ、抱かれて、涙を流していたからだ。

私はマクロンの握手やハグの仕方が嫌いだ。
オランドに肩を抱かれたりするのが困る、というのは分かる。ル・ペンから揶揄されるような父と子のような印象を与えたくない。だから自分もオランドの肩や背中に手を置いた。

で、就任の時に握手に回った時も、かなりの人の頬や首にふれていた。ジェラール・コロンにも例外ではなかった。

大統領のイメージに、「父なる神」ならぬ「神なる父」を印象付けているように見えた。
握手やハグをしながら手を相手の肩や腕においたりポンポンと軽くたたくのは「父親的」だ。

トランプの強引な「引き寄せ握手」とはまた別の「慈愛に満ちた」上から目線。
もちろん彼が若く、若く見え、トランプやシラクやジスカールやドゴールのように高身長でもなく、恰幅がいいわけでもなく、ギニョールで「赤ん坊」扱いされてきたことを考えると、こういうちょっとしたしぐさのシンボリックな意味によって父性的なものを演出する必要は分かる。

でも、今年70歳のベテランで、マクロンを最初から支えたリヨン市長にことさら涙を流させるような演出は不愉快だった。私には広島でオバマが高齢の被爆者を父性的にハグする写真も不愉快だった。オバマも背が高いから誰と並んでも「上から目線」になるのは仕方がないけれど。

ほんとうに「大統領」にハグされたり頬にふれたりされることに感激する人がいるのだろうか。

メルケル首相との最初の公式会談ではまずメルケルに腕を回され



来るG20やG7でのトランプとの握手が楽しみと言えば楽しみだけれど…。


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# by mariastella | 2017-05-17 23:33 | フランス

ショック・ドクトリン

ネットで日本の週刊誌のコラムを読んでいたら、このところ、北朝鮮からの核攻撃のことが気になってしょうがなかった、というものがいくつもあったので驚いた。

1999年の7月、例の「ノストラダムスの大予言」の終末論で、7月の終りにテポドンが東京都心に落とされるという飛語が飛び交っていた。今思うと、当時の北朝鮮の技術ではそんなことはあり得なかったと分かるけれど、とても嫌だった。

というのはちょうどその7月に私はアサヒカルチャーセンターで何日かの講座を任されていたからだ。

普段フランスに住んでいる自分が何を好んでわざわざ1999年の7月に東京都心にいなくてはならないのだろう。

ノストラダムスの「予言」にまつわるいいかげんな終末論の横行については、私は当時すでに、ノストラダムスをルネサンスのフランス知識人として解説しなおしていた。

けれども私がいくらまともなことを言っても、

「世界の終わりだ!」

と大声で叫ぶ人には勝てない。

世間は「ネガティヴなことを大声で叫ぶ人」に耳を傾ける。

そして、そんなことを全く信じていないばかりか批判をしている自分でさえ、「わざわざそんな日に東京に行くのは嫌だなあ」と思ったのだ。カルチャーセンターの仕事がなければ、日本でも神奈川県の実家にこもっていれば被害は少ない?かもしれないのに、と。

もちろん、ちゃんと講座は務めたし、何事も起こらなかった。

でも、今は、より「現実的」になった北朝鮮のミサイル攻撃からの身の守り方みたいなものをまるで「地震対策」のように流して恐怖を煽る何かの思惑が働いていて、それが、コラムニストなどの意識にある程度功を奏しているわけだ。

近頃は、日本に帰ると「フランスはやっぱりテロで怖いですか」などと聞かれることがある。
日本にいる時に「地震が来たら嫌だなあ、」とか、飛行機に乗る度に「落ちたら嫌だなあ」と思う程度には怖い。

でもこうなるともう、
ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」を思わざるを得ない。

日本国憲法の前文を提案したのだか押し付けたのだかは知らないけれど、その頃のアメリカの指導層は、まだ罪悪感も持っていたし、本気でキリスト教精神の一番いい部分での人類愛とか普遍的な自由の実現を掲げていた。その「自由」がいつの間にか、「神」の愛やみ旨に発するものではなく「金」への愛や欲望に発するものとなってしまった。

進駐軍のエリートでさえ、リンカーンを読み、聖書を読み、「正義が力となるのであって、力が正義になってはいけない」などと多分その時は本気で言っていたというのに。

興国とは「謙」の賜物であって、亡国とは「傲」の結果である、と言ったのは内村鑑三の『興国史談』で、国家を存立するのは武力や経済力や領土ではなく道徳力なのだ、と言っていた。

日本は、明治の開国時のプレッシャーの中でも、敗戦の焦土と窮乏のうちにも、攻撃や恫喝ではない平和構築の優越性を確認してきたはずだ。今、ショック・ドクトリンに沿って防衛ミサイルなどの軍事産業のますます繁栄するのに加担するのを見ていると暗澹とする。



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# by mariastella | 2017-05-17 06:36 | 雑感

新首相への懸念と前の記事の追記

新内閣の発表は水曜日に延期されたそうだ。

共和党のフィリップ首相が任命されたのだからブリュノー・ル・メールなど何人かの共和党議員が入るだろうと言われていたのだけれど、フランソワ・バロワン(私はこの人の低音のファン)は分断を認めないし、なかなか微妙だ。

フィリップ首相を激しく弾劾するのは「共和党を裏切った」とかいうことではない。
もともとル・アーブルのような元来左派の拠点であるような街になんとか食い込んで市長をやっているのだから「保革」の間をうまく泳げる人であるのは確かだ。
問題は2007年から2010年の間にアレヴァ社の公務部門ディレクターをやっていたことで、持続可能エネルギーへのシフトや生物多様性に関するエコロジカルな法律にこれまで反対投票をしてきた過去だ。
アレヴァというのは言わずと知れた原子力産業のトップの複合企業で、もちろん日本の原発産業とも深いかかわりがある。

こんな首相のもとでは、マクロンを支持してきた前環境相セゴレーヌ・ロワイヤルなどとても閣僚にならないだろう。

マクロンが若者は仕事を覚えなくてはならないから週40-45時間労働は当たり前だ、今の35時間労働はシニア向け、などと議論しているシーンのyoutubeも試聴が増えている。

マクロンやフィリップのような人は、週100時間くらい働いても平気、って感じもするけれど。

昔、日本の企業や役所からフランスに来た人たちが、「フランス人は働かないって聞いていたけれど、エリートは日本人よりも働いていますね、」と驚いていた。

エリートが眠らずに働くのと、ブラック企業で働かされるとか、働かないと食べていけないとかいうのは意味が違う。

エリートが人一倍働いて、それなりに庶民に利益を還元するという時代も過去には確かにあった。

今や経済格差の問題というのは人の心を確実に蝕んでいる。

ああ、それから、前の記事の追記として書いておくと、『アエラ』のマクロン夫妻の写真のキャプションも間違っている。 

「北仏のリゾート地ルトゥケを訪ねた際の仲睦まじいマクロン夫妻。ここは彼らが結婚式を挙げた町だ」

とある。

ルトゥケにはリゾートで遊びに来たわけではなく彼らはここに住民登録をしている。
投票もこの町でしている。

まあどうでもいいことだし、他の雑誌のマクロン報道も的外れのものが多いのだけれど、朝日新聞系の雑誌の記事なんだから、少しは校閲というものがされないのか不思議だ。



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# by mariastella | 2017-05-16 22:59 | フランス

フランスの新首相

大方の予想通り、アラン・ジュッペの側近だったル・アーヴル市長のエドゥアール・フィリップがマクロン政権の首相に任命された。がたがたになった社会党シンパの多いマクロンのLREM党には共和党の取り込みが必要で、しかも、「手垢のついていない」人が必要だから、共和党のこの人が選ばれた。

46歳と若いし、マクロンと同じく、労働者の階層から「共和国の聖職」である教師になった祖母や曾祖母に文学を学んだ。母はカトリックで教師の父は無神論自由思想家、自分は信仰はないが信仰のある人や聖なるものを尊敬する、と言う。月曜から木曜までパリ9区に夫人のエディット・シャーブル(一つ違い)と3人の子供(10代の二人の息子と7歳になる末娘)と住み、週末に母の住むル・アーヴルに行くという。
夫人とは政治学院で知り合い、行政学院では15位以内(マクロンは5位と言われるが、彼の年の順位は手続きのせいで無効になり訴訟も起こされた)のエリートだが、祖父が共産党員で、ジュッペに誘われるまでは自分も最初は社会党に席を置いた。ミッシェル・ロカールに心酔したのはマクロンとの共通点だ。経済よりも法律に詳しく弁護士でもある。
ボクシングが趣味で、マクロンのように「愛される」ことを標榜するタイプでなく嫌われるのは平気だそうだ。
フィヨンの選挙運動からは途中でドロップ・アウトしている。

マクロンとチームを組むのによくこういう「ぴったりな」人材がいたものだと思うが、それもマクロンの「運の良さ」かもしれない。

新首相は高身長で、小柄なカズヌーヴ首相との引継ぎは対照的だったが、マクロン政権の前衛で戦うには頼もしそうだ。

マクロンは予定通りドイツに。
サルコジ以前のように外交と軍事に専念して、内政は首相を前面に立たせる方針だそうだから、明日の組閣発表が楽しみだ。

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# by mariastella | 2017-05-16 01:52 | フランス

『アエラ』のマクロン記事にびっくり 

フランスの大統領選についての日本語の記事を偶然、ネットの雑誌記事で見て驚いた。

日本の個人のブロガーなどが的外れなことを書いていても別に気にならないけれど、アエラって朝日新聞社の雑誌じゃなかったっけ?(5/22号 p58-59)
しかも、編集部とライターの署名記事。

突っ込みどころが多すぎる。

タイトルからして

《「ナチスの教訓」が勝った》

というのだ。

ドイツじゃあるまいし、フランスが極右を排除しようとするのは、口をそろえて「共和国精神に反する」からで、この建前だけは、なかなか外せない。

そしてサブのテキストが

「仏大統領選で有権者が選んだのは、同国史上最年少の大統領となる元銀行員。」

だって。

「銀行員」!!

政治家として官僚として最高のエリートのグラン・ゼコールを出た人なのに。
「銀行」と言ってもロスチャイルドの投資銀行に3,4年いて大口の買収を成功させて何億ユーロと稼いだ人。

その後、大統領の特別顧問、経済相になった男を「元銀行員」。
フランス語を本気で読み違えているのだろうか。「元銀行家」ならまだしも・・

>>無所属の「泡沫候補」でしかなかった人物<<

に期待が託されたのはまるでトランプ選出を見ているかのようだ、だって。

マクロンは社会党に属して大臣だった頃にすでに自分の団体を立ち上げて気勢を上げていた。
若いし確かに最初はまさかとは思われたが、知名度では「泡沫」どころではない。

「グローバリズムへの反発」が起こって、「傍流が主流になる選挙」だとも書いてある。

メランションが勝ったならそう言えるけれど、マクロンはグローバリズムの勝ち組で推進者だ。

「かろうじてEUに残ることを決めた有権者たち」

というのもおかしい。もともとEUに入ることをフランスから拒否されていたイギリスが抜けたこととはまったく意味が違うし。

記事の下のコラムもひどい。

例によってマクロン夫人のことで、まず、

「超・年の差婚」にも寛容な大人の国ですが…

というキャプション自体が不愉快。こんなところに「寛容」という言葉を使うのも嫌だ。

「高校生だったマクロン氏が、高校教師だったブリジットさんを前夫から奪った略奪愛。」

という解説も不愉快。女性は前の所有者から「略奪」されるものなのか。

>>7人の孫を持つ女性とは思えぬ美脚が自慢で、レザーパンツやミニスカート、ハイヒールがよく似合う。
微塵もコンプレックスを感じさせない熟女の星だ。
日本では「母のくせに」「妻のくせに」となどと非難されそうなものである。<<

これもひどい。孫は自分で生むのではないから年のとり方とは関係がない。
コンプレックスを感じさせないところが「熟女の星」だなんて。

彼女は、インスタグラムにアップしようと高校の屋上で危険な写真を取っていた生徒数名が停学処分になった時に、彼らを負傷者のいる病院でボランティアで働かせることを提案したという。ほんとうに怪我をした人たちとその周囲の人たちがどういう状態になるのかを知らせることが最も教育的ではないかと考えたからだ。障害のある生徒にも積極的に関わってきた。

先日、娘のインタビューを聞いても、非常に好感が持てた。

私はシカゴ学派の別名のようなグローバリズムはフランスの「共和国主義」と伝統的な社会民主主義路線に反すると思っているので、マクロンのやり方そのものには賛同していない。

でも、アエラのこの記事の的外れ具合とコメントを見て、ショックを受けた。
コラムも署名記事で女性のライターのようだ。

こんなのでいいのか、日本?












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# by mariastella | 2017-05-15 05:37 | フランス

マクロン大統領の就任(追記あり)

マクロンの就任セレモニーを中継で見た。

1月にトランプの就任セレモニーを中継で見てしまったことを記事にしたので、一応バランスをとっておこうかなと思ったのだ。

5年前に連れ合いのジャーナリストと手を取り合って現れてその後スキャンダラスな別れ方をしたオランドが1人で現れたので、マクロンもすべて一人で仕切った。

フランスはひとりの「人」を選んだのでカップルを選んだのではない、というシンボルをきっちり踏襲している。(ビル・クリントンが当選した時は一人で二人分だからお得、みたいな言説があったことを思い出す。リーダーの夫人が家庭内野党と称されていた国もあったようだけれど…)

すべてにそつがない。

就任の演説も、オランドがサルコジに触れなかったのと違って、歴代の大統領の功績にちゃんと触れて、模範的によくできていた。
まあこれは当然予想されていた範囲だ。
失敗は許されない。

すばらしかったのは、そのすぐ前のローラン・ファビウスによるスピーチだった。
社会党ミッテランの秘蔵っ子で37歳で首相になったファビウスは社会党オランドの秘蔵っ子で39歳で大統領となったマクロンを前に感慨深いものがあっただろう。

大統領に与えられるレジオンドヌールのグランドマスターのメダルにはHP(honneur et patrie)つまり名誉と祖国、と軍隊らしい標語が入っているが、ファビウスはきっちりと共和国の標語、

自由、平等、同胞愛 を出して、

自由には大胆さが、
平等には厳律が、
同胞愛(これは人類皆きょうだいの意味)には意志、意欲が必要、

という言葉を引いた。

すなわち、

自由を得るには、恐れていてはならない、思い切った大胆さが必要だ、

平等を実現するには、事なかれ主義やなれ合いや建前だけではいけない、客観的にきっちりと厳しくチェックしなくてはならない、  

すべての人ときょうだいのように共存するには、それを望み、志すことが必要だ。

ということだ。そして、

それを通して「持続する平和」を実現しなくてはならない。

ということをちゃんと言葉にしていた。

このファビウスの言葉とマクロンのスピーチの組み合わせは、フランス語と、フランスの共和国主義と社会民主主義の「建前」が揺るがないことを見せてなかなか感動的だった。

壇上でペーパーを参照できたマクロンと違って、70歳のファビウス、このスピーチを全部そらで言えたのだから、それも大したものだと思った。

さすが百戦錬磨。

百戦錬磨と言えば、マクロンの外交顧問になったフィリップ・エチエンヌも頼もしい。

ファビウスもそうだが、マクロンが2度一次試験で落とされたパリ高等師範を出ている。しかも数学のアグレガシオン保持者で、経済学の学位、セルビア=クロアチア語の学位も持ち、
ENA(行政学院)では、オランドやドヴィルパンやセゴレーヌ・ロワイヤル女史らを輩出した有名な「ヴォルテール同窓生」の学年だ。ENAの卒業順位は公表されているが、総合部門ではオランドが117名中の8番、エチエンヌは経済学部門の42人中8番だった。(ちなみに総合部門でロワイヤルは64番、ヴィルパンは25番)。

ヨーロッパの様々な国の大使を務め、最後はドイツだった。選挙前のマクロンとメルケルの会合を手配したのも彼だ。(追記: 防衛相に任命されたシルヴィー・グラールが直接の手引きをしたそうだ。彼女もドイツ語、英語、イタリア語を自由に話す)

61歳の経験豊富なエリートのエチエンヌの他に、特別顧問として、なんと30歳の、戦略とマーケティングの天才イスマエル・メリアンという人もいる。
19歳でDSK(ドミニク・ストラス=カーン)の支援に入り、22歳でマクロンと出会った。この人は経験豊富とか百戦錬磨とか未来のマクロンという感じではなく、ただひたすら「ある部門の天才」という感じだ。

マクロンは人に恵まれている。いや、人に恵まれている人が成功するのだろう。

意志はオプティミズムで理性はペシミズムだ」と誰かがコメントしていた。

誰もが、39歳の大統領の中に「希望」を見ようとしている。
エリゼ宮のパーティ会場で演奏された曲にはモーツァルト、フレンチ・カンカン、ハンガリー舞曲など、独立記念日の祝祭のような陽気なものが流れていた。

想像するのも嫌だけれど、もしル・ペンが選ばれていたらどんなスピーチ、どんな就任式だったろうと思うと、やはり「あり得ない」としか言えない。ル・ペンはそもそも実際に選出されることを想定していないとしか思えない。トランプの就任を「悪夢」のように感じた多くのアメリカ人に同情の念を禁じ得ない。

ル・ペンの姪のマリオンも政治活動を停止したし、マリーヌも今のところ気配を消している。

週明けの組閣や総選挙の行方が注目される。


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# by mariastella | 2017-05-14 21:49 | フランス

パリのファチマ

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これを書いている5/13は、ポルトガルのファチマで3人の牧童に聖母マリアがはじめて姿を見せた日から100年の記念日。

ファチマではフランシスコ教皇が巡礼して、幼くして病を得て死んだフランシスコとヤシンタという2人を聖者の列に加えた。殉教者ではないはじめての子供の聖人となる。

私は去年の秋に一足先にファチマの巡礼に行ったから、親しく感じてパリでの記念ミサとロザリオの集まりに出て見た。フランスにいる移民で最も多数なのはポルトガル人だ。ポルトガル人とのハーフの数もとても多い。で、パリには、 ポルトガル人の教会と称されるところがある。ファチマのノートルダム教会とも言われ、ファチマの聖地の出張所みたいな格付けになっている。ファチマの聖母の言った通り、毎月13日(12日の夜)にロザリオの祈りがささげられる。
この教会は19区の端にあって、第二次大戦後のパリ解放の記念に建てられたゴシック様式のもので、十字架のイエスが栄光の姿であるところが近代的。
かなり広いが人はいっぱいで2階席も使われた。
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ロザリオの祈りは、先唱が、病の床にある人の嘆息のようにひそやかにはじまり、「大声を出さないように」と何度も注意がある。ロザリオの祈りというとつい機械的に繰り出されるし、ファチマで聞いたのも念仏みたいなものだったが、ここでは、隣の人の祈りを聞きなさい、とまで言われた。そうしてはじめて共同の祈りとなる。なるほど。

司式をした司祭はユーモアもあって、

実は今からファチマの秘密を公開します、

と宣言し、それは十字架のイエスが、自分の母をもうママンとは呼ばずに、婦人よ、と呼んで、全ての人のママンとして捧げ、新しい母性を創造したということです、と言った。だからみんなは聖母をママンと呼んでもいいのだ、と。

その後で、献金の籠が回される前には、

ファチマの第二の秘密も明らかにしましょう、

聖母は、銅アレルギーなのです、
紙が好きです、

と言って笑わせた。

で、1ユーロ以下の銅貨は入れられず、見ると、5ユーロ札が一番多かった。
ヨハネ-パウロ2世の聖遺物もあった。
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入り口では私も去年ファチマで買った公式ロザリオなどが売られていた。
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途中でも最後にも、「ファティマのノートルダム、」「私たちのためにお祈りください」という掛け合いが三度続いた後に、二人の子供の新聖人の名が「聖」を冠して呼ばれて「私たちのためにお祈りください」、と続く。聖人の連祷という奴だが、この三者に限定したところが新鮮だ。早逝したこんな子供たちが、突然「聖ナントカ」と呼ばれて祈りの取次ぎをたのまれても戸惑っているかもしれない。

ともかくここのミサでは跪く人の割合も高くて、アヴェ、アヴェ、アヴェ・マリアという時に掌を上に向けて高く上げる人の数も多く、化体(聖変化)の時には鈴音が響くし、聖体拝領を手で受けない人の数も多い。ポルトガル風味だ。

でも、こういう場所のこういう「演出?」を見ていると、フランスのような国で選挙戦を戦うような人は、少なくとも教会でどういう典礼がどのように行われ、どういう言葉が使われているのかを熟知している必要があるなあとあらためて思う。マクロンがイエズス会の学校で洗礼を受け「超越の存在」から使命を託された印象を述べ、愛を持って謙虚に仕えるなどと語るルーツは多くの人からサブリミナルにキャッチされているのだろう。



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# by mariastella | 2017-05-14 03:16 | 宗教

ジャック・オディアールの『預言者』

先日、Arteで、2009年のジャック・オディアールの『預言者』を放映していたので観ることにした。
オディアールのその後の作であるヴァイオレントな『ディーパンの戦い』を観てしまって、まあ後悔はしなかったからだ。

何度も書くが、もうこれからの余生、悪夢に材料を提供するような暴力、流血、戦争、ホラーなどの映画はできるだけインプットしないことに決めている。だからこそ、2009年にカンヌのグランプリやその他を獲得して評論家から絶賛だったこの映画、オディアールは気に入っている監督(『真夜中のピアニスト』がよかった。今検索するとブログにコメントが見つからなかった)だけれど敢えて無視したのだ。

で、観た結果は…。

ううん、これが2009年の作品で、刑務所のハーヴァードと言われるセントラル刑務所で、最初はコルシカのマフィアが仕切っているのに、どんどんとイマム風のイスラム原理主義者みたいなのが入ってきて、世代交代する様子がリアルで、2012年以降にフランスで再開されたイスラム過激派のテロの背景を想起せざるを得ない。

タハール・ラヒムの演じる19歳の刑事犯は、入所した時に刑務官から宗教は何か、豚肉は食べるか、などと聞かれても、「?」という感じの、イスラム、それってなあに、という若者だった。ムスリムである親の権威が移民先のフランスで地に落ちて家庭からも社会からもドロップアウトして犯罪に手をそめた若者だったのだ。

一種のビルドゥングスロマン、イニシエーションもの(最後に象徴的な「父殺し」のシーンもある)になっていて、彼がサバイバル術にも長け、頭も悪くないことは、コルシカの男たちのコルシカ風イタリア語のやり取りを聞いているうちに理解して聞いたり話したりできるようになったことからも分かる。だからこそ、他のコルシカ仲間が出所して一人になったボスのセザールの右腕となり得た。(主人公が移民二世の出自によりアラビア語も自由に話せることも、後にコルシカ組からムスリム組に乗り換える通行手形となったのはもちろんだ。)

このボス(マクロンのように真っ青な目が印象的なニルス・アレストリュプ)が、コルシカ風カトリック洗礼名風ではなくてローマ皇帝のカエサル(セザール)と呼ばれていることも、後にイスラムのアイデンティティを獲得した主人公との関係においてシンボリックである。
「ローマ皇帝」から、イスラムの預言者ムハンマドに鞍替えするような含意が透けて見える。

それはそれでおもしろい。

オディアールは、もともと、タイトルをボブ・ディランの「You Gotta Serve Somebody 」にしようと思っていたという。それは、「人は誰でもだれかに仕えなくてはならない」という意味で、本来なら、これは、キリスト教文化圏の伝統においては、仕えるべきだれかというのは「小さな者」、弱いものであり、その中に十字架に架けられたキリストを見よ、ということにつながる。けれども現実の社会では「長いものの巻かれろ」だったり、「強いものに服従しろ」だったりしなくては生きのびることができない。

一方で、狭量な利己主義から脱して、すすんで他者に仕えることができてこそ真の大人、というメッセージがあり、
もう一方で、自己中心な子供の態度から脱して、既成のヒエラルキーの中におさまって忠誠を誓え、のようなメッセージがある。

自分の世界にしか生きていなかった子供や若者が、「世間」を発見するという方向にも実は正反対のものがあるということだ。オディアールも、このタイトルの持つ「道徳的」次元と「運命論的」次元の二面性に惹かれるという。けれども、それにぴったりのフランス語が見つからないので『預言者』(しかしフランス語では「ある預言者」「一人の預言者」であって、イスラムの最高最終預言者であるムハンマドではない)としたという。

結果的に、テロ以来次々と明らかにされた「刑務所におけるイスラム過激派による洗脳」の実態を2009年に明らかにして見せたという「予言」的作品になったわけだし、内容とはミスマッチのこのタイトルの思わせぶりも、この映画の玄人受けの理由の一つになったと思う。

で、フランスの刑務所で何が起こっているかというと、

刑務所の外のフランス社会ではお題目として逃がられないユニヴァーサリズム(普遍主義)とは対極にあるタブーであるコミュノタリアリズム(共同体主義)や部族主義が支配しているということだ。

共同体主義の社会では普通のロビー活動や根回しなどと同様、刑務所でも、囚人の形成するグループと刑務官との癒着も存在する。

そして、刑務所のような自由を奪われた閉鎖空間では生きのびるために誰でもどこかのグループ、できれば一番強いグループに忠誠を誓って、使命を果たさなくてはならない。
映画の主人公は、若く、いわば白紙の状態で投げ込まれたわけで、ある意味、適応の優等生としてイニシエーションを潜り抜け、自分の地位を確立していく。

出所した時には、「大人」になっている。

結局、「弱い者」に仕えるとか、自己犠牲とかいう方のベクトルは完全に切り捨てられている。
そういうことをしていたら、十字架につけられて一巻の終わり、の世界で、「復活」もない。

「贖罪」の暗示はゼロだ。

過酷な試練や変身にかかわらず、主人公の青年らしい優し気な顔と視線が最後まで変わらず、子供を抱き上げる最後のシーンだけが多少暗黒に沈む感じをやわらげているけれど、カタルシスも救いもない。

暴力、流血シーンも一種淡々とドキュメンタリー風に語り進める手法は興味深いと言えなくもないが、私にはやっぱり忌避したい種類のものであり、さらに、全体の基調となる、力の支配、テストステロンの支配、を見せつける空気は絶対に反対なので、こんな映画を若者たちに見てほしくない、と心から思う。

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# by mariastella | 2017-05-13 07:24 | 映画

マクロンとフランス語

トランプ大統領の語彙が貧困だというのは有名だ。
日本の首相たちも漢字の読み方を間違えていることを何度も指摘された。
サルコジは俗語を使ったり悪文を弄したりしていた。
オランド大統領も文法の誤りを指摘されたことがある。

フランスでは「フラランスとはフランス語」だと言われるくらいに、フランス語への思い入れは深い。

マクロンは高校の演劇で出あったフランス語の教師と恋に落ちたくらいだからフランス語の能力は高い。
今回の大統領選で彼の勝利を決定的にしたマリーヌ・ル・ペンとの最終討論で彼が披露した語彙は話題になった。

若いのに古臭い言葉を使う、と言われもしたけれど、文学や哲学の教養は確かだ。

リストに上がった単語は、

La poudre de perlimpinpin

Galimatias

Saut de cabri

Antienne

Broutard


どれも文脈で大体わかるけれど私が使ったことのない言葉ばかりだ。
ペルランパンパンなんて、オノマトペが語源で、これですっかり有名になってyoutubeで出回った。
私も使ってみたくなる。

最後のBroutardは全く知らなかった。
その他にも、別の折に、イタリア語由来の In petto  やアラビア語由来の Chicaya なんて言葉を使っている。

私はバロック・オペラの歌詞を知っているし、古典もまあ読んでいるから、古臭い言葉は割と分かる。
今の若者の俗語や略語やネットの言葉みたいなのはフランス語でも日本語でもよく分からない。

どちらにしても、39歳の新大統領の語彙が豊富でうまく使いこなせるというのは「フランス」にふさわしい。

マクロンと言うとロスチャイルド投資銀行で働いていたということで「金持ちの手先」のように批判されるわけだけれど、マクロンの前にはポンピドー大統領もロスチャイルド銀行で働いていた。ポンピドーも詩に造詣が深くフランス語の教養があった。

そういえば、当選の夜のルーブルのピラミッドの前でのスピーチで、歩いてきた時はEUの歌である「喜びの歌」だったけれどオーケストラ演奏のみで歌がなかった。
ベートーベンでドイツ語だから、それでなくともEUはドイツに牛耳られているというル・ペン女史の言い分を想起させるようなミスをおかすことはできない。
スピーチの後のフランス国家の「ラ・マルセイエーズ」は曲だけでなくフランス語の歌詞をマクロンも人々と共に歌っている。
そのシンボリックな意味は小さくない。

スピーチの背景のピラミッドをフリーメイスンだという人もいたが、三角形は天と地を結び、三位一体の「父と子と聖霊」が共和国の「自由・平等・同胞愛」の三つの標語に置き換えられたことのシンボルだと言う人もいる。

サルコジが「(それまでのフランスから)断絶する」、オランドが「金融システムと戦う」などと言っていたのに対してマクロンは「愛を持って仕えます」とスピーチを結んだ。「謙虚に仕えます」とも言っていた。
その辺は完全にキリスト教の優等生的な言葉だ。

総選挙では男女半々で428人の候補を立てると今日発表されていた。
マクロンの「En Marche!」は「La République en Marche(REM)」と名を変えたようだが、EMはマクロンのイニシャルであると同時に「エム」と読め、つまり「aime(エム: 愛する)」の含意もあったそうで、言葉へのこだわりがここでも見られる。

言葉を制するものはリスペクトを得られる。
マクロンのスピーチで繰り出されるフランス語をウオッチングできる5年間になりそうだ。

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# by mariastella | 2017-05-12 06:24 | フランス語

フィリップ・ド・シャヴロンの『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)

最近見た映画の覚書ががたまっているので順次アップします。

まず、フィリップ・ド・シャヴロンの『A bras ouverts』(両腕を広げて=歓待)

前にこの人の『神様に何をした』について記事を書いた。http://spinou.exblog.jp/22246255/

ブルジョワの夫婦の四人の娘が次々と外国人の結婚相手を連れてくることから生まれる本音と建前のコメディで大ヒットしたものだ。

それが今回は、ただのブルジョワというわけではなくブルジョワのインテリ左翼夫婦の本音と建て前をからかう。

広大な邸宅の庭にロム(ジプシー)の一家を泊めるはめになる話だが、

ローマ教皇がすべての教区が中東難民の一家族を受け入れるように、と呼びかけた時に慌てたブルジョワ・カトリックのエピソードなどが背景にある。

フランスの博愛の理想と伝統と、世界の悲惨のすべてを受け入れるわけにはいかないというプラグマティックなリアリストとの齟齬、そしてそのベースにある外国人排斥や、EUへの反発(例えばこのロムの場合、ルーマニアからフランスへの移動は自由なので規制できない)という極めて今日的な政治的な問題もかかわってくる。

前作は単に宗教や人種の違いであり、絶対的な「貧困」は入っていなかった。
「カルチャーショック」というのは共通しているが、前作ではブルジョワの娘たちが異文化の男を連れてくるのだが、この作品ではブルジョワの息子がロムの娘を好きになるという設定だからやや微妙である。そこのところをごまかすために、明らかに娘の方が息子を誘惑するようなシーンが挿入されている。
フェミニストの抗議封じのためか、二作とも、女性たちは自由で解放されているというイメージだ。

主人公の68年世代のインテリ左翼と対立する若いハンサムな作家の方は、明らかに移民や移動生活者を差別するような本を書いているのだが、彼は、ゲイのカップルで優雅に生活しているいうという設定だ。これも、「右翼の差別主義者=アンチ・ゲイ」というステレオタイプで抗議されないように「配慮」したのだろう。

主人公のモデルは明らかにBHLで、クリスチャン・クラヴィエが、体系は似ていないが特徴的な髪形を似せて、「永遠にアンガージュマンを続けるインテリのユマニスト」をリアルに書いている。
BHLと同じく彼もアートの理解者だ。

BHLとアリエル・ドンバルのカップルよりも単純化されているけれど、ブルジョワのインテリ左翼のアート愛好者というフランスでのエリートのひとつの典型を揶揄しているわけだ。
それだけに、いくら工夫しても、コメディに落とし込んでも、「不都合」な綻びは免れないので、この作品の評価はかなり低い。

主人公の妻が、ロムから「あんたもゴミを回収しているのか」と言われて憤然とするようなガラクタを組み合わせた前衛作品を創っている。自己満足に陥っている時に、艾 未未(がい みみ)アイ・ウェイウェイの名が出てくるのも示唆的だ。

前にコンテンポラリーアートについての本のことを書いた。http://spinou.exblog.jp/26517938/

現代アートには、糞尿を使ったスカトロものやまさにガラクタ、クズ、ゴミを使ったもの、屍、血、空虚、不条理、陳腐などを前面に出した奇妙なものがたくさんある。そして、ある時代のアートの「好み」や「傾向」というものは、生存における物質的条件を反映したものだという話だ。例えば糞尿やゴミがアートのマチエールとなったのはごく最近のことで、新自由主義の環境破壊以前には、ゴミに価値を付与するなどという発想は生まれようがなかった。

それらは環境の破壊だけでなく、文明の崩壊を反映しているもので、そこに退行、倒錯の現象が現れる。本能の抑圧という成熟の過程からの退行によって、子供のような原始的なサディズムや挑発や刹那的な欲望の解放が現れる。

この映画の、メディアの寵児でもあるインテリ左翼の妻は、自称アーティストであって、自由で解放された進歩的な人間だと思っているのだけれど、贅沢で豊かな暮らしの中でガラクタを組み合わせて愛でている時点で、彼らの生き方のベースの腐敗を提示しているのだ。

この映画が玄人から酷評されるのは理解できる。
大衆受けを狙ったのかもしれないが実は非常に危ない橋を渡っているのだ。

「快適な暮らしをしているインテリ左翼のアーティスト」というカテゴリー(とてもフランス的なカテゴリーだ)にいる人にとっては「笑えない」映画であるが、実は、そのすべての要素(ブルジョワであること、インテリであること、左翼であること、アーティストまたはアート愛好家であること)のひとつひとつについて自問を迫る映画である。


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# by mariastella | 2017-05-11 00:04 | 映画

ジョルジュ・ペレックがフランスの文学殿堂入り。

ジョルジュ・ペレックがガリマールのプレイアッド・コレクションに収録されて、立派な「古典」の墨付きを得た。

で、例の有名な「eを使わない小説」である『La Disparition(消失)』にちなんで、ラファエル・エントヴェンがeを使わないで今朝のラジオでコメントしていた。すごい。(こういうの

私はクロスワード系のパズルが好きで、よくやっているが、もちろんまず注目するのはEで、eはたいてい最初に書きこめる。eを使わないクロスワード・パズルがあったら結構つらいだろう。ちょっと見てみたいが。eのないパズル。

で、まさかこの本の邦訳は日本で出ていないだろうと思ってペレックを検索したら『煙滅』というのがあった。
「煙滅」って何? でもこれが一番似ているかも、と検索したら、
やはり『La Disparition』だった。い・き・し・ち・に・・・など「i」のシラブルを使わないで訳したのだという。
だから「消失」は「し」が二度も出てくるからアウトで「煙滅」なのだ。

なかなかアクロバティックだ。
こんな技は、PSの時代でなければ不可能だろうなあ。
まず日本語をローマ字で書いてみて、i を含む言葉をすべて換えて、i が消えるまで工夫するのだろうなあと思った。

試しに今の上の文

「まず日本語をローマ字で書いてみて、i を含む言葉をすべて換えて、i が消えるまで工夫するのだろうなあと思った。」

には、

日本語の「に」と「ローマ字」の「じ」、「書いてみて」の「い」と「み」、「消える」の「き」の5文字が「い」を含む。

意外に少ない。じゃあ、書き換え。


「まず和文(または翻訳文)をアルファベットで打ったあと、i を含む言葉をすべて換えて、i がなくなるまで工夫するのだろうなあと思った。」

うむ、わりと簡単かも。

と言っても私は日本語を打つときは、日本語キーボードではひらがな入力(ローマ字入力より1.5倍のスピードで書ける)なので、量が多いとどうなるだろう。
特にフランス語の翻訳などカタカナ語が多いと、ローマ字入力はとても効率が悪い。

たとえば 「FRANCE」は6文字、日本語で書くときはこれを「フランス」と日本語で考えるからそのまま打って4文字。
けれどもローマ字入力すると「furannsu」とその倍になって、その上、アルファベットの綴りが違うから脳内で不自然な中継地点を通ることになる。昔は「腐乱酢」などと変換されることもあったっけ。

なんにしろ、言葉遊びはおもしろい。

どこかの国のリーダーたちと違ってフランスの政治家たちは語彙が豊富だから、彼らを観察する方も、やはり「語彙を広げること」が必要とされる。

でも大切なのは語彙が全体でどういう意味を持つかである。
ペレックの小説も、単にeがないだけではなく、自由とか消失、表現の縛りが内容と深く関わっているのだ。
グザヴィエ・ドランの映画『マミー/Mommy」を連想させる。
普通の映画の画面のサイズから両サイドを切り落とした形の正方形の画面は、単に斬新な試み、というだけではなく、テーマの核と結びついている。(この映画については後日書きます。映画コメントがたまっているので少しずつアップします)

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# by mariastella | 2017-05-10 02:37 | フランス語

マクロンと陰謀論

フランスの新大統領について書くのはもうこの辺で終わりにしておこうと思っていたのだけれど、選出の夜の演出について「やはりそう来るか」、と予想した陰謀論が愉快だった。

夜空に赤く光るルーブルのピラミッドを背景に壇上に立った姿は印象的だった。
ルーブルのピラミッドと言えば、これはもうできた頃から、その三角形の数とか、場所とか、フリーメイスンだなんだと噂されていた。ルーブルも『ダヴィンチ・コード』などで怪しげなオカルトのイメージも作られ、マクロン自体が「神がかり」、「ミスティック」だと評され、本人も自分は超越的なものの存在を信じる、自分にはそこから発せられる使命があると感じる、などと発言している。

で、ピラミッドが赤く光り、頂点に「目」が光り、その前で両手を広げて掲げた(フリーメイスンの「コンパスと定規」の形)映像が、ネット上にすごい勢いで広がって、フリーメイスンだ、イルミナティだ、陰謀だ、ということになっている。

実際は、当初、マクロンはエッフェル党の前のシャン・ド・マルスを集会の場所にしようとしていたのをパリ市長のイダルゴに断られたのでルーブルは第二候補だった。

もっと笑えるのは、カトリック右派で、ル・ペンに投票を呼びかけていたクリスティーヌ・ブタンが、最初にマクロンが66.06%で当選というニュースを聞いたとき思わせぶりにtweetしたことだった。
もちろん、666が黙示録の獣(悪魔の数字)ということをにおわせて、マクロンはサタンの手先、アンチ・クリストだと言いたいわけだろう。(『キリスト教の謎第六章で少し説明しました)

残念?ながら、最終的には66.1%に落ち着いたので、ブタン女史の懸念が払しょくされてめでたい。
それにしても、「政治家」と名のつく人があまり考えなしにその場限りのtweetを残すのって、リスクよりもプロフィットの方が大きいからなのだろうけれど、デジタル環境は確実に政治も陰謀論も変えた。

人間が、自分たちの知覚できる「世界」とは別の「超越」的なものを感じるのは普遍的で、それをどのような表象を使って「シンボル」化していくかは、時代や場所の条件によって変わっていくものだ。
それが「教義」と「典礼」を備えると「宗教」になるし、イデオロギーが形成されると政治的党派にもなる。西洋近代はヒューマニズムの「大きな物語」を掲げることに成功したかに見えたけれど、「ポストモダン」はそれを「小さな物語」のひしめく多様性に解体した。
と言っても、人はいつも「大きな物語」の中に自分の居場所を求める。

マクロンの書いていく物語が始まる。

陰謀論について)

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# by mariastella | 2017-05-09 18:08 | フランス

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』

マラン・マレのオペラ『アルシオーヌ』をオペラ・コミックに観に行った。



指揮、音楽監督は、マラン・マレの音楽やヴィオラ・ダ・ガンバが日本にまで知られるきっかけになった『めぐり逢う朝』(アラン・コルノー監督)でガンバ曲の吹き替えをやったジョルディ・サバールだ。

ド・ラ・モットの台本、1706年、ロイヤル・アカデミーのために作られた典型的なフランス・バロック・オペラ。

風の神エオールの娘アルシーヌとの結婚式を迎えようとする王セイクスを3人が妨害する。アルシーヌを恋するぺレ(セクス王の親友)、セイクスが先祖の王座を奪ったと恨む魔術師フォルバス、魔女のイスメールだ。
宮殿は破壊され、地獄の光景が現れ、嵐、遭難、魔の力、バロック・オペラの要素満載だ。

舞台の演出によってだけではなく、オーケストレーションでそれを表現しようとした。ラモーで頂点に達する18世紀オペラの先駆と言える。嵐を描写した曲は特に18世紀好みで、宮廷の舞踏会でも何度も演奏されたという。


嵐の音楽。まったく古くないことが分かると思う。

でもオペラそのものは他のフランスバロック・オペラ同様、1771年以来上演されなくなった。ジョルディ・サバルは、このアルシオーヌのダンス曲を集めたCDをリリースしている。
どのダンス曲も、「受肉」していて、サバルがまずこのダンス曲のダィジェストに挑戦したのは正しい選択だったと思う。

「三一致の法則」などに則って地に足をつけた「戯曲」と違って観客を別世界に誘うエンタテインメントとして超自然の世界がデフォルトで表現されるバロック・オペラだが、ここではダンスや衣装やさまざまなからくり装置ではなく「サーカス」を使った肉体性と演技によって展開されている。

バロック・オペラとダンスの関係についてこれまでにもいろいろ書いてきた。

この記事を読むとその前のものもリンクされてくる。(長いので、興味のない人はスルーしてください)

で、簡単に言うと、Les arts Florissantsの演奏したダンス曲は「受肉したダンス曲」だったが、踊られるのではない「濃すぎる」ビジュアルが邪魔だった。

エルヴェ・ニッケの時は、ダンス曲がまるで「つなぎ」のようにさっさと平板に飛ばされていた。
今回は、ある意味でバランスは悪くない。

ダンス曲はラモーの先駆として肉体性を備えている。

ジョルディ・サバルの指揮はそれをよく生かしている。
楽器のバランスもすばらしい。

で、今やほとんどすべてのバロック・オペラで見られるように、登場人物のコスチュームはミニマムで現代的。

舞台装置はミニマムだが効果的で、紐、綱、ケーブル、ピアノ線などを駆使していろいろな効果を表すほか、裏のからくりの背景も見せる。

歌手も吊り上げられて空中で歌ったり大変だが、何よりもサーカスのアクロバットの4人が上へ下へ、あるいは大きく回転したり、体を自在に捻じ曲げたり逆さになったりするので、重力が感じられず、その意味で、音楽を損なわない。

後は、合唱のメンバーがものすごく巧い動きをしている。地獄のシーンの地を這い蠢く様子など、振付がすばらしいに尽きる。あの迫力ある演技をしながら歌うのだから大したものだ。

フランスのバロック・オペラの最初は、オペラ歌手とは「歌える役者」のことだった。
アルシオーヌとセイクス、ペレを歌うレア・ドゥサンドル、シリル・オヴィティ、マルク・モイヨンの演技も半端ではない。
その上に、台本がドラマティックだ。愛し合うカップルの姿がリアルで「ラ・ラ・ランドですか?」というくらいの近い距離感がある
同時に、ギリシャ悲劇やシェイクスピア劇のような生と死の実存的な問いまであって、客席が息をのんで静まり返る場面もある。
それとは対照的に、そこだけが室内楽に編曲されて王から何度も所望されたという嵐の曲や、誰からも愛される「水夫の行進」などは純粋に楽しませてくれる。

それでも、ジーグ、サラバンド、メヌエット、いろいろなダンス曲が出てくるたびに、せっかくダンサーもいるのにバロック・バレーが全くないのは物足りなかった。特に最後のシャコンヌ。ほんの少しだけダンスっぽい振付がある。バロック・バレーのアドヴァイスはカロリーヌ・デュクレだとプログラムにあった。懐かしい名前だ。

彼女とはパリでのコンサートで観客を誘って踊った時に、いっしょに見本を見せて踊ったことがある。
彼女はコンテンポラリーから来たダンサーで、最初に七区のコンセルヴァトワールでバロック・バレーを習いに来た時に私が上級クラスにいたのを知っている。そのせいか、もうバロック・バレーのプロとして踊るようになっていたのに私をほとんど先輩のように扱ってくれた。
そんなカロリーヌの存在を感じたのがシャコンヌの一部分の振付だけだった。その部分を見たせいでかえってシャコンヌは全部ダンスで見たかったとフラストレーションを感じた。

6月にはヴェルサイユでも上演されるという。もう一度行きたいくらいだけれどスケジュールの都合で多分無理だろう。



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# by mariastella | 2017-05-09 06:41 | 音楽

大統領選から一夜明けての感想

決選投票から一夜明けて、ラジオと新聞でいろいろなコメントをチェックし、地方別、都市別、そして私や友人知人の住んでいる場所別にマクロンとル・ペンの支持率の割合を眺めて何か見えてくるものがないか考えた。

なかなか難しい。

移民やムスリムや外国人の多いところでル・ペンの支持が多いのかというとそうでもない。移民や移民の二世、三世、ムスリムなど二重国籍を持っている人も多いし、選挙権があるから、そういう人たちはみなル・ペンを嫌ってマクロンに投票する。
ル・ペンに投票する人は、イスラム過激派が怖いとかゲットーが怖い、不法滞在の外国人を追い出して過激なモスクも閉鎖して、という「分かりやすい」政策に期待するというセキュリティの動機よりもやはり経済的な動機だ。

貧困は金融経済と癒着したエリート政治家のせいで、ル・ペンならそれを一掃してくれると本気で信じているかどうかは分からないけれど、既成のシステムへの抗議の表れなのだろう。

同じようにマクロン支持も、マクロンを信じ期待しているというよりも、やはりル・ペンのやり方では実際問題として経済がもっと悲惨なことになる、という認識だろう。

総選挙の後でほんとうにル・ペンが最大野党になってしまうのか、二大政党が復活するのか、マクロン支持が絶対与党になれるのか、今回はまだまだ目が離せない。

右でも左でもない、フランスを統合するというマクロンのスローガンは、言うのはたやすいけれど、中身がない、あいまいだ、などと批判されているけれど、「統合」というものは本質的にそういうものだ。
「あいまいさ」や矛盾、葛藤のない「統合」は全体主義、ファシズム、独裁主義につながる。

イデオロギーや教義が個人の自由を奪うことに反対し続けた哲学者のジャンヌ・エルシユが
「あなたが人間の(存在)条件の問題に関わっていて、パラドクスに突き当たったなら、それはあなたが正しい道にいるということです」
というのは真実だと思う。

すごく個人的なレベルで考えてみよう。

マクロンの政策が施行されたら、可処分所得は減る。
80%の人の住居税を免除すると言うが、こういう時には絶対その恩恵にあずからないのに、株が上がっても富裕層が有利になっても、その恩恵にもあずからない、
いつも微妙に損をしている中途半端なレベルにいるからだ。
テロは怖いし嫌だけれど、分かりやすい対症療法をしても解決しないことは分かっている。根本的な、地政学的な判断と危機管理が必要で、国境を閉鎖などという無意味なことを、地続きで多数の国がひしめいてアフリカや中東とも接しているヨーロッパでやるのはなんの解決にもならない(その点は日本のような「島国」は多少の地の利があるけれど)。
グローバリゼーションの拝金主義や環境破壊や弱者の搾取は大問題だけれど、その問題を提起し、気づき、解決に努力し、行動を起こしているエリートたちも実際にいる。その声が聞こえ姿が見えるからこそ、私のような中途半端な者でも問題意識を持ち続けることができるのだ。

自分の所得や自分の安全のこまごました損得やリスクや恐れを考えるよりも、地球レベルでものを考える方が優先だと納得している。

「知性に訴える」というのを信じているといってもいい。
それがなければ人類はもう、とうに滅びていたかもしれない。

もう一つ個人的な確信は、アートには人を救う力があるということで、アートの成立には「自由」が必要だということだ。

私のすべきこととできることは、なんとなくわかっている。



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# by mariastella | 2017-05-08 23:47 | フランス

マクロン勝利の夜

オペラから戻って、大統領選の結果を見て、ルーヴルのピラミッドの前のマクロンのスピーチをテレビで見た後でこれを書いている。

このブログでは大統領選とフランスのカトリックのことを書いていたので、マクロンの当選が決まった時のバイルーらのコメントを聞いて笑えた。

バイルーが「ルルドで大蝋燭を供えて」、という比喩を出したので、バロワンだったかがちょっとあせって「香を炊く、とか言うべきでしょう」と突っ込んでいたのが聞えたからだ。

久しぶりに見るドヴィルパンも、大統領になってからの孤独と責任の大きさに触れ、「これは本当のsacerdoce(聖職、僧職)だから」と形容した。

ギリシャのツィプラス首相(彼も40祭という若さで首相になった)がマクロン大統領の誕生は「フランスにとっても、ヨーロッパにとってもインスピレーションである」とコメントした。キリスト教文化圏でこういうと、「聖霊が降りた」という含意になるのでこれもおもしろい。

そういえば、先日は書くのを忘れたが、パリのカトリック教会は全体としては投票に関する意見表明は自分たちの役割ではないとしていたが、ポンピドーセンターに近いマレー地区のセント・メリー教会だけは、小教区として、司祭と信徒が協議してマクロン支持を表明した。ここは、性的マイノリティの信徒や司祭を支援する教区としても有名だ。間違ってもル・ペンを通してはいけないという使命感があるのだろう。

ル・ペンはFN(国民戦線)という名も改称して総選挙に臨む意図を表明していた。父親の時は20%を切ったのに、今回は35%程で大躍進だとも言う。このままいくと5年後は当確だ、と言いたいわけだ。
メランションは、ル・ペン女史は決選投票で二位ではなく三位だ、二位は「棄権、白票、無効票」の合計だと、コメントしていた。白票を勧めていたメランションらしい。

ルーブルでのマクロンのスピーチも、これまでのようにコンコルドやバスティーユという「フランス革命」の共和国っぽいところでなく元は王宮だから、マクロンは王党派に戻ったと揶揄する人もいた。これまでは当選者は政党の幹部に取り囲まれる姿を見せていたわけだが、マクロンは、「ひとり」(今回は第一回投票の後のように妻をいっしょに壇上に登場するというミスを避けてEUの歌である「喜びの歌」をバックに一人で進んだ)なので、「王」を演出したというのだ。でもバックには社会党のミッテランが建造したピラミッドが光っていて、ビジュアルにも、政治的にも効果的だった。

集まった人の雰囲気を「ビジネススクールの学生の祭り」と形容したジャーナリストもいた。

スピーチの中で、マクロンが何度か、「ヨーロッパが、世界がフランスを見ている」と強調していた。

それはここ数日、フランスのメディアが書き立てていたことでもある。
イギリスのEU 離脱やトランプ大統領就任の後で、欧米のナショナリズム増大が懸念されていたから注目されていたわけで、「棄権」や「白紙投票」を考えていた人々の一部が、「フランスの対面を守る、面子を保つ」のが大事だと思い始めたのだ。
フランス革命の国、ユニヴァーサリズムの国というプライドのためには、ル・ペン女史に大差で敗退してもらわなければならない、と考え直して白票でなくマクロンに投票した人々がいる。この辺のリアクションはとてもフランス的だ。自虐的なくせに実は誇り高い。

今日観たオペラのプロローグは、アポロンとディオニソスが「平和」と「戦争」のどちらが大切かを競うシーンからなる。もちろん平和や芸術の大切さを謳うアポロンが勝つ。アポロンとはもちろん太陽王ルイ14世のことを指し、このオペラの時代、ルイ14世は出征していた。戦争はしているけれど、自分の最も望んでいるのは平和なのだ、という主張が託されている。

その後のセリフにも、

「花なしには春が来ないように、愛なしには平和は来ない」

というのがあって、テロの脅威がおさまらないフランスにいて、なんだか身につまされた。(オペラについてはまたあらためて書きます。すばらしいものでした。)

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# by mariastella | 2017-05-08 07:11 | フランス

ふたりオイディプス

(ただの雑感です)

朝起きて日本のネットニュースを眺めたら、フランスの大統領選がトップに上がっていた。
たいてい英語圏のニュースからの流れだろうから、アメリカで話題になっているということだろう。アメリカはトランプ・ショックから立ち直っていないし、普通はフランスより時差的に「遅れている」場所だけれど、フランス本土の午後8時までに集計されていなくてはならないのでアメリカでの「在外投票」は1日前に行われている。
夕べのフランスのニュースでも、アメリカやカナダの大使館などでひと足早く投票する在外フランス人の姿が映されていた。在米フランス人の第1回投票では、マクロンが55%ですでに過半数だったという。

グローバルな活躍を支援するマクロン出なければ困る、というのは理解できる。
そういえば在日フランス大使がル・ペンが大統領になれば辞職する、とツィートして、そのことを在米フランス大使が「よく言った」と賛同のツィートをしていたっけ。

官僚が民主主義に反対するのはおかしい、という批判ももちろんあったけれど。

今日の結果が楽しみだ。
何があっても、それにまつわる人々の反応を観察するのが好きだから。

マクロンもル・ペンもどちらも嘘つき、信用ならない、与したくない、という人がよく口にするのは

「ペストとコレラのどちらかを選ぶなんてできない」

というセリフだ。 メランションの支持者から発せられた後、一気に広まった。
ペスト(la peste )が女性名詞でコレラ( le choléra )が男性名詞なのでぴったりはまった。日本語の「目糞鼻糞」なら侮蔑的だけれど、ペストとコレラは脅威で恐れを搔き立てる。これもポピュリズムの時代に合っているという感じ。

もう一つ笑える比喩は、ポピュリズムよりも少し「教養?」を必要とするもので、

ル・ペンとマクロンは

「父親を殺した者と母親と結婚した者」

というものだ。

ギリシャ神話のオイディプスのことで、子供に殺されるという神託を受けて、生まれた息子を棄てた王が、結局、成長した息子オイディプスに、そうとは知らず殺され、
さらに、オイディプスはやはりそうとは知らず実の母と結婚してしまう。
フロイトが唱えた「オイディプス(エディプス)コンプレックス」で有名で、息子はシンボリックに父を否定することではじめて大人になる、というような文脈でも使われる。

マリーヌ・ル・ペン女子は、FNの創立者である自分の父を追い出す形で、父に次いで15年ぶりの大統領選の決選に進出した。

マクロンは24歳年上の女性と結婚した。(実の母親はブリジット夫人より3歳上。マクロンは幼くして死んだ長女の後に生まれた第二子)

で、シンボリックな「父殺し」と
シンボリックな「母との結婚」で、

2人合わせて「オイディプス」だって。

まあこの2人にとって、

生まれた時からの父との関係、
15歳で始まった母の世代の女性との関係、

は人格形成において大きなウェイトを持つことは想像に難くないから、
「ペストとコレラ」よりはうがった揶揄かもしれない。

そういえば、今はマクロンを応援している母親も、最初の頃は、マクロンの新党?『En Marche!』(歩き出せ!)を揶揄して、マクロンは満2歳になるまで歩き出さなかったので笑える、などと雑誌の中で語っていた。

でも『EM!』と略するとエマニュエル・マクロンのイニシャルになるようにできていて、理念や目的でなく「方向と進行、流れ」を強調するマクロンが若者にアピールする力を持ったネーミングだった。
まさか実の母にこんな突っ込みをされるなんて想定外だったろうな。

さあ、今日はルイ14世のおかげで生まれたバロック・オペラ『アルシーヌ』に出かける。音楽や演劇、舞踊の分野はもともと国際的だ。
このオペラはフランス・バロックだが、指揮のジョルディ・サバルはスペイン人、コンサート・マスターはドイツ=アルゼンチン人、チェンバロはフランス人、で、出演者全部の国籍は多様だ。ル・ペン女史の言うように「外国人を雇うと税金を課する」ような世界になるとアートや学術、イノベーションの世界はやっていけない。

ジョルディ・サバルのオーケストラの名は「コンセール・デ・ナシオン」。クープランの「les nations」に由来する。「国家」は複数だ。国教のない音楽(この世と異界との区別もない!)を意識していたバロック音楽にふさわしい。


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# by mariastella | 2017-05-07 17:59 | フランス



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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