L'art de croire             竹下節子ブログ

横浜トリエンナーレ

 先月下旬、終幕近くに横浜トリエンナーレに行った。

 『タイム・クレヴァス』というテーマが刺激的だったのでわくわくしてたのだが、大きな物語はなく、単に「非日常」みたいな意味だったらしい。

 日本では「国際展」は、世界の一流アーティストを一堂に見られる、みたいな、オリンピックのような感じで「成功」したと見なされるのかもしれない。

 キュレーターとはオーガナイザーなのか、メタ・アーティストなのかという議論もあるが、参加アーティストに、もっとつっこんでテーマ性を要求したらおもしろかったのに。

 60年代からのハプニングとかフルクサスとかの回顧みたいな部分が多く、これじゃタイム・トラベルだなあと思った。60年代の前衛シーンはよく覚えているので、懐古気分にはひたれたけど。

 趣向が凝っているのが多くあって、たとえば、ロドニー・グラハムの作品なんかは、2006年の作を1969年作に見立てている。ジャガイモを銅鑼に向かって投げるパフォーマンスの映像も、わざわざ1960年代の服装で黒白映像を撮り、まさにタイム・スリップなのだ。本気で、1960年代の作品だと思って見てる人もいた。

 クロード・ワンプラーの「彫刻」は、白い台だけで、壁にかすかにシルエットみたいなのが見えるのだが、しかも、「時の彫刻」とか「無題」とか、「自分を食らうヴァンパイア」とか、会期中にタイトル進化してるみたいで、素材も詳しく書いてあり、後から確かめたのだが、音声ガイドでももっともらしく「彫刻」が解説されている。

 そして、その傍では、見えない彫刻をスケッチしていたり、コメントしあっている人がいる。
 私もはじめは、ある角度でないと見えないレーザー光線とかホログラムの映像なのかと思って眺めたのだが見えないので、じっと見ている女性に

 「私、見えないんですけど、どこにあるんですか」

 と間抜けな質問をした。すると、

 「いや、ここにあります」

 と真面目に答えられた。

 で、さすがに、これはジョン・ケージ作品みたいなパフォーマンスで、客の反応が作品になっているんだと気づいて、

 「あ、そういう風に答えろって、言われているんですか」

 とまた馬鹿な質問をしたら

 「いいえ」

 と冷たく言われた。

 芸大生だかのバイトなんだろうと思って、その後で通りかかった時もちらちら見たが、時々メンバーが変わって、いろいろな人が、見えない彫刻に手を触れるふりとかしていた。若者グループにもっともらしく解説する大人までいて、ヴァリエーションがある。一般客は遠巻きにして不思議そうに眺めるのだが、私のように「見えないんですけど」なんていう野暮な人はいないようだった。

 その後、新港ピアの会場に行った後で、またこの日本郵船倉庫会場に戻ったので、今度は遊んでやろうと思った。

 ほんとうは、その「彫刻」の前に行って、

 「なんて、グロテスクなんでしょう、これも、ショッキング指定(いくつかの作品はスプラッターみたいな血みどろ映像のために、不快感を与えるかもしれませんと注意書きがあったのだ。こういう、前衛アートのスプラッターも私は全然好きじゃない)すべきじゃないですか」

 と、デッサンしてるふりをしてるパフォーマーというかサクラに声をかけようと思ったのだが、そこはそれ、日本の上品な鑑賞者たちの前では、さすがに勇気が出ない。

 で、

 「あなたはこの作品のどの部分が好きですか?」

 と声をかけた。

 「え・・・そう、私はやっぱり、この・・お尻の部分ですかね」

 と美大生らしい女性が何もない空間を指して答えた。

 「ふーん、そうですかあ」

 と私は言って、その「お尻」に触れて撫ぜるふりをした。

 そして、耳につけた音声ガイドを指して、

 「いやあ、このガイドって、すごくよくできてますよー、このおかげで、見所がすごくよくわかりますよ」

 と言いながら、「彫刻」の周りをふるっとまわって見せた。

 あの女の子、きっと後から、音声ガイドを確認したに違いない。
 ガイドも決してネタをばらしてないんだけどね。

 新港ピアには大掛かりなインスタレーションがいろいろあったが、その多くは初日のパフォーマンスの残骸であり、こういうパフォーマンスとナルシシズムとの境界線が引きにくいこともあって、アーティストたちのの自己愛で腹いっぱいという気にもなった。

 もちろん、感心させられた作品もあったんだけど。

  1965年のNYの『カット・ピース』と、2003年のパリの『カット・ピース』を並べたオノヨーコはすごい人だ。 彼女の年齢と、立場と、時代と、NYとパリという場の差が興味深い。あれを見てると、NYでなくてパリに住んでることが嬉しくなる。

 5月に直島に行った時、直島で成功している、と思ったもの、つまり、その場でインスピレーションを得て制作するというような試みが、横トリでは、全部、ちょっとずれていた。

 直島にあって、横トリにはなかったもの、それは、エレガンスである。
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by mariastella | 2008-12-05 01:50 | アート
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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