L'art de croire             竹下節子ブログ

枯山水

 重森三玲の『枯山水』(中央公論新社)を読んだ。

 ものすごく明快だ。

 それにつけても、禅家の趣向というものの特殊性にあらためて感心する。
 水墨山水画が、従来の仏画に取って代わったと言うのは、考えたらかなり異常な事態である。

 幽玄とか侘びとか言うのも、「とても日本的テイスト」だと漠然と思っていたが、これも、考えたら異様だ。象徴的、高踏的、難解なものが、一世を風靡していいんだろうか。

 竜安寺式の配石について、芸術の造形深い近衛家の人が、

 「私テイノ者ノ見テハ好悪ノ論ハ及ガタシ、一向上ノ事ニヤ」

 と言っているくらい、難解だったのだ。

 貴族階級の  「優美典麗」な「池泉庭園」が、
 武士や禅家の 「枯淡雄勁」な「枯山水」に変わっていく。
 桃山文化にはその二つが共存していた。

 叙景と叙情が入り乱れて幽玄に到達するとそうなるらしい。

 風景画というものがない文化がある。
 ヨーロッパでも長い間、風景画というジャンルが登場しなかった。
 チベット仏教、チベット文化には、今でもない。

 ヒマラヤの雄大な自然があるのに。

 山よりも海や水の方が、叙景をインスパイアするんだろうか。

 重森三玲さんは、自分でも枯山水を作庭した。フランスのアーティストたちが高く評価してくれたと書いてある。
 その感じは分かる気がする。
 デザイン性が極めて高いからだ。
 フランス庭園は、自然主義的でなくデザインだからだ。

 多くのアート作品は、大衆を相手に売らんがために低下する、と重森さんは言う。
 幸いに作庭は、依頼主一人を理解させたらよい、依頼主を向上的に指導すればいいと言う。

 依頼主を指導することのできぬ作庭家の作品はだめだと。

 「庭園は、設計する以前において、依頼主を設計しなければならない」
 「依頼主を完全に設計することができて、始めて庭園の設計ができる」

 すごいなあ。

 このメンタリティも少しフランスっぽい。
 
 でも、フランスの宮廷美術は、優美典麗を追求し続けた。
 枯淡雄勁には転換しなかった。
 でも、高いデザイン性という点で、共通点がある。

 いろいろ考えさせられる論考だ。
 
 
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by mariastella | 2008-12-05 02:36 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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