L'art de croire             竹下節子ブログ

キリスト教と精神分析

 フランソワーズ・ドルトー(Francoise Dolto)の生誕百年だそうだ。

 1977年に彼女が『Les Evangiles et la foi au risque de la psychanalyse』を出版した時、私はすでにフランスに住んでいた。当時、聖書を精神分析の立場で読むなどと言う本は結構流行っていたという記憶があり、数冊読んだ。わりと普通のことだと思っていた。
 カナの結婚のエピソードでイエスが母親を無視したのは、母の庇護を断ち切って社会的存在になるために必要な通過儀礼だったというような話だ。

 今になって、精神分析学者として高名だった彼女が、70歳にしてはじめてキリスト者であることを「カミングアウト」したことの当時の衝撃の大きさを認識した。

 精神分析学の世界は、ヨーロッパにおける戦闘的「無神論」の臥城であり、聖域だったからだ。

 当然、カトリックの側でも、精神分析界は悪魔の巣屈で、1952年にマルク・オレゾン神父が発表したキリスト教的生活におけるセクシュアリティの神学は禁書扱いになり、1960年には、聖職者が精神分析医にかかることを禁止した。

 第二ヴァチカン公会議で、ようやく心理学や社会学の有用性が認められ、つい最近、今年の10月30日には、ヴァチカンが、司祭の教育における心理学の必要性について文書を出したと言う。

 今や、神父で精神分析学者や心理学者などは普通だし、PSY (プシ=心理学や精神分析学)と SPI(スピ=スピリチュアル、霊性)はすっかりなかよし、カトリックの結婚の無効の条件に「愛情の未熟」などが加わったのは、その成果の一つだそうだ。

 どうしてこの二つがなかよしになり、互いをリスペクトするようになったかというと、互いに、自分たちはすべてを説明できない、と認めたからだ。

 自分が全能だと思うと、人は、神だの科学だのを私物化して支配の道具、裁きの道具にする。

 人の心の襞、複合性、神秘、それを謙虚に認めると、PSYとSPIは、和解し、互いにインスパイアし合い、他人を支配したり裁いたりする誘惑から身を守ることができる。

 無神論の系譜の中で、フロイトの占める位置は大きいのだが、ここでもまた、無神論というのが、結局のところきわめて霊的な探求だったのだということが明らかになってくる。

 無神論であろうがなかろうが、「他者」に向かう人はみな神の子だと、シスター・エマニュエルも言っていたなあ。

 
 
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by mariastella | 2008-12-05 03:12 | 宗教
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