L'art de croire             竹下節子ブログ

世界人権宣言デー

 12月10日は世界人権宣言の60周年記念日で、パリのトロカデロでは、60年前にこの宣言文を作った共同執筆者の「生き残り」である 91歳の Stephane Hessel が姿を見せた。

 アベ・ピエールが亡くなり、シスター・エマニュエルも亡くなり、ベルナール・クシュネールが「?」な言動を見せる今のフランスにおいて、ステファン・エッセルがいてくれるだけで、「理念の力」を信じられるし、彼のように、絶対に希望を捨てることなく戦うことでこの世を少しでも確実によくしてきた人と同時代にいることを喜べる。

 この人は、もとドイツ人で、トリュフォーの『ジュールとジム』(今検索してみたら、邦題は『突然炎のごとく』だった。なんて懐かしい)のジュールのモデルとなった作家の息子だった。20歳でパリのエコール・ノルマル・シュペリユールに入って、フランス国籍を取得、その後、ナチスの政策を攻撃し、フランスのレジスタンスにも参加したし、チャーチルもスターリンも手をつけなかった「世界人権宣言」を世に出し、移民労働者の人権のために戦い、人権を侵犯されている世界中の人のために奔走し続けた。こういう人がいるから、あらゆる誘惑に負けてとても人間的な展開をしてしまったフランス革命の価値ですら信じてもいい、と思えるのだ。

 そして非力ながら、私もユニヴァーサリズムの擁護に役に立ちたいと思う。

 昨日はフランスのライシテの危機についてアルテがドキュメンタリーと議論の番組をやっていたが、ドイツのムスリム女性のフェミニスト弁護士とフランス側はエリザベト・バダンテールが、そのたどった道は違うものの、異口同音に、文化の多様性の名の下に弱者を切り捨ててはならないことを強調した。なんと、国連は、たとえばアフガニスタンの女性のブルカ着用への「先進国」による批判などを「人種・文化差別」だとしているのだそうだ。考えたら、伝統を相対化して普遍理念に向かうような余裕のある「先進国」なんて、数からいうと世界のマイノリティだしな。

 フランスでも100年経って戦闘性をなくしたライシテは、本来の意味を失いつつある。「人間的に適用すべきだ」と言ってリールで公営プールに女性専用枠を設けたマルティーヌ・オーブリーのように、「マイノリティのリスペクト」がコミュノタリズムの侵食をゆるす口実にされつつあるのだ。
 人権とライシテはセットになっている。理念であるから、決して譲れない一線がないと意味をなさないのだが。
 マイノリティのコミュニティが政治ロビーとなって票田となるところに罠があるのだ。

 ドイツはババリア地方では今も公立学校の教室に十字架があるし、幼稚園からスカーフを被ってくるムスリムの女の子もいて、小中学校でも、ラマダンの時には子供たちがふらふらだから試験もできないそうだ。

 と、ここまで書いたが、その私の大好きなエリザベト・バダンテールの夫で、これもいつ聞き返してもほれぼれする死刑廃止演説

 (日本語訳がここで読める  http://kihachin.net/tips/badinter.html  )

をして見せたロベール・バダンテールが、最近、普遍的な人権問題にとって、国際刑事法廷の持つ意義を賞賛しているのを読んで、違和感を感じた。

 独裁者や虐殺者など、国際刑事法廷が執拗に追い詰める「人道に対する罪」っていうのは、時効がない。もちろん、その時々の国際的力関係によって、詰めが甘かったりお目こぼしがあったりするのだが、それでも、だんだんよく機能してきている、進歩している、と、バダンテールは言う。
 でも、たとえば、こういうのを見ると、やはりアメリカは日本に原爆を落としたことで罪に問われるのが嫌で国際刑事法廷の憲章を批准しないのかなあ、とか思ってしまい、犠牲者主義に気持ちが傾く。

 これに対して、哲学者のポール・チボーなんかは、法と政治は本来完全には切り離せないものであり、正義や公正の理念を、加害者を断罪して罰するということに収斂しては、ルサンチマンはネガティヴでアグレッシヴな方向にのみ向かう、と警告を発している。
 政治とは、国やグループの間の線引きをその都度調整していくことでもあり、常に未知の方をむいた試行錯誤である。それに対して法による制裁とは、基本的には、過去の作った基準でその後に起こったことを裁いていく。「人道に対する罪」を罰することには、何か、全能の傲慢さがつきまとう。ポール・チボーのキリスト教的な「復讐するは神にあり」という気持ちが、「人権法廷」を本能的に警戒させているのかもしれない。

 人道に対する罪から被害者や遺族を守ったり、復権させたりして、建設的なことにつなげていくのならいいけれど、人権の名の下に「過去の権力者」をなぎ倒していくのは、死刑と同じ「復讐の論理」ではないんだろうか。
 被支配者に対する生殺与奪の権を持つ権力者は、人の命にやすやすと軽重の差をつける誘惑に駆られる。そして、その芽は、きっと、誰にでもあるような気がする。
 たいていの権力者は彼らなりの「合法」の中で、人道に対する罪を犯しているわけだし。

 時代や文化を超えて広がった「普遍」宗教などには、そういう人間の法を超えたメタ基準としての「内的良心」をたてたものもあった。

 普遍を標榜する人権宣言も、そういう伝統の末裔にあると言えば言える。
 普遍的な理念とは、人間性を広げたり深めたりつなげたりするように働くならいいが、人を加害者と被害者や善と悪に分断して裁きあったり「落とし前をつける」方向に行くのはいかがなものだろうか。理念の敵は、相対主義だけではなく、教条主義でもある。
 
 死刑反対と、国際刑事法廷称揚とは、どこかそぐわないんじゃないだろうか。

 
 
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by mariastella | 2008-12-11 02:49 | 雑感
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