L'art de croire             竹下節子ブログ

Tony Judt のヨーロッパ

 フランスがEUの議長国だった半年もほとんど終わったこの頃、フランスでは急に、

 『Après-guerre. Une histoire de l'Europe depuis 1945』, Paris, Armand Colin,

 が話題になっている。「オバマのアメリカ」を前に、「世界が変わるかも」という気分があるんだろう。いかにもフランス人の好きそうな本だ。

 原作は 『A History of Europe since 』1945, Penguin Press, 2005』で、

 今ネットで検索したら、日本語訳も出てた。

 『ヨーロッパ戦後史 』 トニー・ジャット, 森本醇 みすず書房

 ここでは、21世紀はもうアメリカの時代でないばかりか、アジアの時代でもなくて、ヨーロッパの時代だと書いてある。冷戦は、共産主義と資本主義との戦いとかではなかった。ソ連邦によるヨーロッパの植民地化であり、それに対抗したのは、資本主義でなく、ヨーロッパ再構築のヨーロッパ主義だった。ソ連が瓦解した時アメリカはNATOによるヨーロッパの再分断を画策したが、失敗した。ヨーロッパの牽引力、ユニヴァーサリズムの理念が、アメリカの覇権主義に勝っていたからだ。

 冷戦とともに、NATOの太平洋ヴァージョンとして日米安保条約があったことを考えると、その後の展開には差がありすぎるなあ。

 著者は、1948年生まれ。無神論的自由主義者のユダヤ系リトアニア人を父にもつ英国人で、シオニズムにかられてイスラエルにも渡り、フランスのグランゼコールでも学び、今はNY大学にいる。
 彼のヴィジョンと、来歴は、切り離せられない。

 インタナショナルな人は「デラシネ=根無し草」になるとか、コスモポリタンは無国籍人だとか思うかもしれないが、実は、結構、ミュータントになる。
 私のことでも、フランス在住だから視点がユニークだと言われることもあるが、それはもう、視点や視座や視野が違うのでなく、視覚の解析の方法そのものが確実に変わってしまっているという方が近い。もちろん、出自がたとえばハーフでも精神はモノカルチュラルな人、や俺様キンダムの住民だっていっぱいいるんだけど。

  トニー・ジャットのような人も、単にヨーロッパびいきのアングロサクソン系ハイブリッドな人、というレッテルでは語れない、と思う。イスラエルにおける共同体主義の理想を過激に駆け抜けた後だからこそ、ユニヴァーサリズムのフランス型ヨーロッパ教の洗礼を受けて、新人格に到達したんだろうな。

 世界を変えるには、オプティミスティックな希望に裏打ちされた確信が必要なんだろう。
 
 思えば、今や、先進国の伝統宗教というのは、そういう無邪気な自信を失ったり封印したりしている。

 日本で買った『ジッポウ』(季刊・秋号ダイヤモンド社)という仏教雑誌に、島田裕己さんが、戦後日本の宗教シーンを俯瞰、分析していた。
 なかなか本質をついている。やはり、これも、彼の人生の果実なんだろうなあ。筆先のレトリックではない説得力がある。
 そして、これを見ていて、一体、戦後60年も、日本におけるこのような宗教的貧困の中で、「伝統宗教」は一体何をしていていたんだ、と愕然とする。

 まあ、この雑誌は、遅ればせながら、高齢化社会におけるちょっとエコで手軽な救済マーケットに仏教を注入しようとしているわけだけれど、日本の伝統仏教は、廃仏毀釈や国家神道によるトラウマが大きすぎたんだなあ、とつくづく思い知らされる。

 日本でマイナーなキリスト教は、16世紀末以来の切支丹狩りのトラウマは別として、明治以降は和魂洋才の名のもとに抑圧されたといっても、それなりに、「欧米」のオーラも享受したはずなんだから、戦後なら何とか、体制を立て直して進化するチャンスもあったろうに、何をしてたんだろう。

 法然は、「勝他(論争で他を屈服して得意になる)・利養(信者獲得による利益)・名聞(名声・名誉)」の邪道に陥るなと修行者を戒めたそうだ。その戒めが効を奏し過ぎて、なんだか、大手の伝統宗教はひたすら上品に自己規制して、必要以上におとなしくしてたみたいだ。

 カトリックなんか、戦後60年も経って、進学校やお嬢様学校のミッションスクールの実績作りは別として、ようやくイニシアティヴをとった宗教的自己主張が、4世紀前の殉教者の称揚だよ。
 前回のエントリーでも触れたが、新新宗教によるテロどころか、毎年の自殺が3万人という現在の日本の異常事態を見据えれば、他にやることがあるだろうが、と言いたくなる。

 キリスト教新宗教といえば、罪悪感や終末観をあおったり、若者をコミュノタリズムに閉じ込めたり、ペシミスティック、アナクロニックで後ろ向きなものばかり目立つ。

 確かに、今のカトリックは「福音宣教」は捨てていなくても、「信者獲得」は全然めざしていない。伝統仏教が多角経営や「ご縁のあった人に法を説く」だけで、積極的布教や折伏と縁がないのと同様だ。
 コミュニティ内の冠婚葬祭だけに専念するなよ。「普遍」宗教だろ。

 『ジッポウ』を見て、一部仏教が頑張ってるとはいっても、LOHASとか、エコとか、スローライフとか、中高年の心の健康とか、「体力が落ちた人のナルシシズムの要求に応える」っぽい仕様になってるのは、「?」だ。

 病や事故や老いや貧困などでナルシシズムやエゴイズムの維持に挫折した人には、「お手軽修業体験」だの、「仏教を楽しむ」だのは、もはや意味をなさない。老舗宗教の宗教者は、次の年の3万人の自死予備軍を1人でも救うことに心を砕いて欲しい。

 もし、「生きてる意味がない」とか、「苦しさに耐えられない」とか、「死んでしまいたい」とか思ってる人が偶然この文を読んだら、私のサイトに連絡してください。必ず、必ず、話をききます。
 
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by mariastella | 2008-12-12 22:44 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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