L'art de croire             竹下節子ブログ

人権宣言のこと、再び

 サルコジ政権の外務大臣に任命されたベルナール・クシュネール「国境なき医師団の立役者で国民的人気の高い左派だった)は、若い黒人女性のラマ・ヤドを人権担当国務大臣に引き入れた。
 ところが、彼女は、サルコジがカダフィーを招待すると「フランスは足拭きではない」、と言うし、サルコジの北京オリンピック開会式出席にもそっぽを向くし、いつしか「やっかいなわがまま女」的存在になり、つい最近、クシュネールが、人権は、すべてのベースにあるべきで、特別に大臣職を設置したのは自分のエラーである、外交や政治は人権だけでは動かない、みたいなことを言って公的に「後悔」して見せた。

 外交とか政治とか、国益とかについて、人権だけで判断して動かせないのは自明である。

 でも、それを超えて、「人権」はフランスという国のブランドイメージの一つだから、広告塔としても、「人権担当大臣」の設置は、大きい意味では国益にかなっていた、とも言える。

 フランスのブランドイメージはユニヴァーサリズムであり、ユニヴァーサリズムというのはひとつの理想だから、必ずしも外交指針にはならない。

 つい先頃、60周年を迎えた国連の「世界人権宣言」だが、この日本語訳そのものが、フランスの思い入れを分かりにくくしている。

 これは、

Universal Declaration of Human Rights=Declaration universelle des droits de l"homme

である。世界っていうと、なんだか、ワールド、って感じがするけれど、「ユニヴァーサル」ってところに、これがフランス革命的ユニヴァーサリズムの直系だよ、というフランスの自己主張がある。

 実際、この決議が採択された時の国連58カ国だかで、承認したのは48カ国で、棄権したのが8カ国くらいあった。
 サウジアラビアは、「男と女の平等は、うちの文化と伝統に合わない」と言ったし、南アフリカは、「人種の平等はうちの政策に合わない」、と言ったのである。

 正直だ。

 南アフリカのアパルトヘイトは終了したが、世界中に「人権無視」は浜の真砂のように絶えない。
 それはフランスとて同じで、人権宣言の起草者で91歳のステファンヌ・エッセルは、フランス国内の不法移民の権利のために今日も戦っている。ユニヴァーサルに人権を擁護するなら、不法入国者だとか、外国人だとかは関係ない。誰にでも、よりよい生存を求めて移動する権利がある。

 これが、国の「移民政策」だの「安全対策」だの「失業対策」と両立しないのは明らかなのだが。

 共同体主義の国が、「うちの文化では」「うちの伝統では」というのも、ちょっと目には一理あり、
 
 たとえすごくマイナーな文化でもマイノリティをリスペクトしろ、とか、

 価値基準は相対的なのだから西洋先進国だけが自分たちの理念を押し付けるのはいかがなものか、

 などという理屈が必ず出てくる。

 「うちの文化」の中では、強制的な女性性器切除とか、マイノリティの虐殺や奴隷化が普通であるととしても、だ。

 ユニヴァーサリズムの中の人権とは、当然、「弱い立場」「搾取されている立場」の権利を守ることを前提にしている。弱者の権利は、特定共同体の文化や伝統や、一国の政治的経済的利益に優先するのである。

 これを、「西洋キリスト教文化による押し付け」と見る立場もある。

 確かに、普遍的人権は、キリスト教文化の庶子である。
 嫡子は十字軍とか異端審問とかやってたんで大きな声は出せないんだが、今は、そうだ、人権擁護が使命だったんだった、って積極的に取り組む人も多い。不法移民の駆け込み寺になってるカトリック教会とかも多い。

 でも、キリスト教だけでなく、世界の「普遍」宗教はみな、本来、「普遍的人権」とか、「人権の普遍的宣言」のルーツであるはずだ。

 なぜなら、「民族宗教」の多くは、共同体の利益を優先して、村を救うためなら龍神さまに若い娘を生贄にして・・・とか、敵の部族との戦争に勝つ(=敵を殺す)ために神に祈ったりとかするけれど、「普遍」宗教とは、「救済」を、地縁血縁から解き放つことによって「普遍」宗教になったのだから。

 「普遍宗教」は、人が、どこの生まれでも、どんな色や形でも、ただ信仰によってだけ、「普遍的」に救われるよ、と言ったのだ。

 まあ、その「普遍」の根無し草ぶりを利用して、自分の都合のいいように矯めて利用してきた権力者もたくさんあるし、「鎮護国家」の道具になってきたことだってかなり普通だった。でも、どの「普遍」宗教も、その始まりの理念においては、教えの前の、信仰の前の平等を革命的に掲げたのは確かだ。

 1948年の人権宣言の序文にはナチズムへの反省が込められている。

 アメリカの独立宣言、フランスの人権と市民権宣言、数々の平和条約とか、人はしょっちゅう反省しては初心に帰って決意を新たにしなくてはならないらしい。

 人権宣言の60年も、その間に起こった人権侵害や民族虐殺の歴史を眺めれば、「決意新たに」する以外にはない。

 しかし、実際は、なんだか、悪しき共同体主義のポストモダン主義、が、毒を振りまいてもいる。

 人権の中には、自殺する権利、安楽死の権利、子供を持つ権利(代理母制度を認めること)もあるというのである。人権宣言の中にそれらを加えよ、という。
 人権に、自己責任とか自己中心主義とか自己愛とか自己肥大が混ざってきている。

 これは、アメリカ型の「人」の概念が、「体は自己の所有物」とするのと、ヨーロッパ型の、「人は体と人権と人格の三位一体」とすることの違いに起因しているとも言われる。

 しかし、世界のマジョリティの地域では、とてもそんなどころでなく、

 人=体は、ひたすら奪われ、搾取されるものなのである。

 臓器として売られたり、使い捨て労働力だったり、性的オブジェだったり、ただ病気と飢餓にさらされる存在だったり。

 もっとも弱い部分を守らなければならない。
 
 「普遍」を信じることは、人間が相互につながりあった運命共同体であることを信じることだから、そのもっとも弱い部分を守らなければ、船は、必ず、沈むのである。

 

 
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by mariastella | 2008-12-15 00:54 | 雑感
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