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L'art de croire             竹下節子ブログ

VESPRO DELLA BEATA VERGINE

シャトレー劇場に、モンテヴェルディの『聖母の晩祷』( les Vêpres de la Vierge de Monteverdi)を観にいってきた。聴きにいったというより観にいったというのがぴったり。

 指揮がJean-Christophe Spinosi で、ソリストも充実、この曲は、大曲で難曲だが、来るべきフランス・バロック音楽で花開く劇場性を新鮮かつダイナミックに構築したすばらしいもので、前に教会で聴いたたことがあるが、まさに感動ものだったし、今回も楽しみにできるはずだったが・・・・

 いろいろ考えさせられた。 ちょっとショックだった。

 何がショックかというと、自分の反応についてである。

 今回の売り物は、ウクライナの前衛芸術家の Oleg Kulik  が舞台監督していることだ。
 クリクといえば、ニューヨークで裸で犬の真似をして警官に噛みついたり、つい昨年も、パリで、裸で動物と交わってる風の写真を発表して没収されたり、スキャンダラスで挑発的なパフォーマンスをやる人で、そんな人が、今度は裸も動物も離れて、空間典礼というシリーズで「聖なるもの」に挑んで、宗教音楽の金字塔に挑戦というので話題になっていた。

 私は、猥雑やら冒涜やら血みどろ系のパフォーマンスが嫌いだ。そういうのはなんだか1960年アメリカン・テイスト、って感じがする。禁忌が顕在している場所や時代でないと意味や力を持てないので、まあ、だから、旧ソ連系や中国なんかのアーティストがそこに向かうのは何となく分かるが、彼らのニューエイジ臭には辟易する。

 何にしろクリクはこの演出にすごく自信を持ち、特徴ある髭をふりたてて真っ先に舞台に出てきて「さあ、携帯電話も経済危機も忘れて、沈黙を!! 拍手もなしで!」と宣言した。

 彼は、フランス人の多くは抗鬱剤を飲んでいて大いなる愛から孤絶している、その上に金融危機で、アルコールとドラッグに溺れるだろう、しかし、私のこのVesproを聴いた人は、世界を別のように見ることができる、と豪語していた。

 客席の真ん中に吊るされた回る巨大透明スクリーン、劇場は入口からもう薄暗く光の演出がなされていて、すみずみまで音と光とミストと香りが駆使され、指揮者は時として観客に向かって指揮するし、ソリストたちやダンサーが客席に出没する。

 彼がねらったのは、典礼とは本来、共同体験であり、聴衆が客席で不動の受身であるのはもうやめよう、みんなが能動的に参加するのだ、ということだそうだ。

 これらの意図自体は、共感できるものだ。

 というか、まさに私が日頃標榜しているもので、私がコンサートを企画する時も、客に踊ってもらったこともあるし、席で体を揺すってくれるようにお願いしたりもする。一緒に何かを創りたい、互いにインスパイアし合いたい、というのがある。

 そして、観客としても、実際、ある種の展覧会を観た後や、バレーを観ただけで、その後の世界が一変するような体験もしたことがあるので、クリクの試みに期待していた。

 私はフランス・バロックの心身音楽的側面の魅力にはまっているから、クリクの目指す五感を動員した「全体芸術」というコンセプトもそれ自体は気に入る。

 なんといっても中心となる音が、モンテヴェルディの晩祷であるから、その質は確かで、そこにさらに眼福が加わり、香りまで・・・ かなり期待していた。

 つまり、私は決して、「モンテヴェルディの宗教曲をテーマパークみたいに飾り立てるなんて邪道だ、冒涜だ、奇をてらってるだけだ」、という先入観を持って臨んだわけではない。

 ただ、最初の評を読んで、舞台写真を見て、なんだか、その派手派手しさは、北京オリンピックの開会式(ビデオで少し見ただけだが)みたいなテイストじゃないかな、とがっかりした。

 考えると、これまで舞台芸術における新規な試みとか、意外な組み合わせなどで、新しい地平を見たようにはっとさせられたのは、「ほんのちょっとした違い」が効を奏している場合だった。力ずくでねじ伏せられて感心させられたことはない。

 バンジャマン・ラザールのバロック・オペラの贅沢な再現だって博物館的な重さを感じたし、逆に、スクリーンを使ってミニマムにヴァーチャルなサポートが効果的なバロック・オペラを見ると、これなら自分たちにも上演できる可能性があると楽しくなる。
 要は、物量ではなくて、強度なのだ。

 で、このVESPROの評で、ヴィジュアルな演出が濃すぎて音楽が単調に聴こえた、というのを読んで、「大丈夫かなあ」と思った。

 実際、客席の聴衆が古典的なコンサートと全く違う反応をするということ自体は、すぐに実現した。あちこちに映像が飛び交い、歌い手もあちこちに出現するので、みながきょろきょろするのだ。確かに、コンサートに来ているというよりもサーカスに来ている感じ。しかも、サーカスなら、一応目を凝らしてみるポイントがありサスペンスがあるが、ここでは、なるほど個々の観客は自分なりの見方をしてしまうが、みんなが一緒に盛り上がるという一体感はなく、要するに「落ち着きのない」感じになる。

 落ち着かない、集中できない。

 疲れる。

 教会の音響に近づけるための音響の工夫がされていて、そのせいで、VESPROの演奏とその切れ目に挿入される鳥の声だの雨の音だの、救急車の音だの、という効果音?が、一続きになって聞えてくる。

 これが非常に疲れる。

 組み合わせが意外でおもしろいとか、文脈を壊すことによってそれらの音が聖なる次元に取り込まれるとか、あるいは時間や空間や聖や俗の垣根が取り払われて新しい体験ができるとか、多分クリクがねらっていたような方向には向かえない。

 私のすぐ後ろの夫婦は、第一部の終わりごろになると

 「なんてひどい」
 「ばかげてる」

 という言葉を低く発し続けていた。

 クラシックの演奏会、しかも宗教曲なんていう場所で、演奏中に聴衆が不満の声を発するなんて、確かに前代未聞であり、その意味ではクリクのショック療法というか「聴衆を変革する」パフォーマンスは成功してるのかもしれない。

 確かに咳する人も多かった。鼻をかむ人もいた。

 サーカスだからね。

 モンテヴェルディ、かわいそう。

 幕間の後、その夫婦は戻ってこなかった。
 本当に腹を立てたのだろう。

 で、その幕間だ。

 VESPROが終わって奏者が姿を消す間、チベット音楽がすごい音量で鳴り続けている。
 あまりうるさいんで外へ出たら、外でもそれが大音量で続いているのだ。

 チベットの長笛とか祈りか唸りかが延々と続く。
 照明は暗く、赤っぽい。チベットで流された血を象徴しているそうだ。
 
 スーフィーの音楽も流れる。

 シャーマニズムとか神秘主義をブレンドして政治的メッセージもこめたシンクレティックな趣向らしい。何かやはり安易なニューエイジと時代への迎合感がある。チベット音楽も、仏教以前のボン教の音楽とか、さらに奇をてらったエゾテリックな趣向だ。

 「私はほんとの幕間がほしい」

 と、疲れきった老婦人がバーの長椅子に座ってため息をついていた。

 ヴィジュアルはちょっと休めるし、目を閉じることもできるが、音の侵略は暴力的である。

 だからこそ、関係性や、世界を変えることができる、って、クリクは考えているのだろう。

 それでも、第2部はマニフィカートなので、少し期待した。

 音楽のレヴェルはすごく高い。ミュージシャンたちはよく頑張っている。
 モンテヴェルディのこの楽譜では、集中せざるを得ないし、他のことを考えてる余裕はないだろう。もったいない。

 ヴィジュアルなものがなかった方が、ずっと世界が広がって感動的だったろう。
 クリクはイマジネールの力というものを無視してる。
 あるのは彼自身のイマジネーションなんだろう。

 終わりに一応拍手があったが、最初に「拍手お断り」と言ってたように、無視された。

 で、非常に疲れて、帰る途中で考えた。

 私は、べつに、チベットの音楽とかセレモニーが苦手とかいうわけではない。
 いわゆるチベット問題にも、事情があってかなり関わっている。

 組み合わせの問題なのだ。

 何がいけないかというと、「沈黙(静寂、silence 、サイレンス)」が抹殺されていることだ。

 クリクは、音の絶え間ない侵襲によって、催眠術的なトランス効果とかを目指したのかもしれない。

 しかし、音と、音楽は違う。

 こういうことを考えた。

 チベット音楽やスーフィーの音楽のようなものは、ジョン・ダンのいう天の国の流れているものの先取りである。ジョン・ダンによると、現世の人間が渇望するその場所では、音もなく静寂もなく、ただ一様な音楽だけが満ちている、不安も希望もなく、一様な充足があり、友も敵もいず一様なコミュニオンがあり、はじめも終わりもなく、ただ一様の永遠がある。

 そのような、音と静寂の違いが消滅した場所にびっしりと満たされた音楽、

 切れ目のない祈りとか、延々と続く読経とか、永劫回帰の円環の音楽とか、終わらぬ呻吟に似た呪文とか、は、その「あの世」の音の世界の先取り、または、招来するために唱えられるのだろう。

 クリクの演出において、モンテヴェルディも嵐の音も車の音もチベット音楽も延々と一様に切れ目なくつなげてしまうのは、本来は、多分そういうのを目指したんだと思う。

 しかし、残念ながら、モンテヴェルディの曲は、そのような「天上を満たす」種類の音楽ではない。
 「天上を築き、描く」音楽なのである。

 ジョン・ダンの言葉をもう一度借りよう。

 (天国では、)音もなく静寂もなく、ただ一様な音楽(チベット音楽風の)だけが満ちている

 ところが、「この世」では、「音」とも「静寂」とも別のものとしての「楽音」があるのだ。

 その楽音とは、静寂の反対物である「音」とは全く別のものである。

 楽音とは、「静寂=silence」のファミリーなのである。

 静寂が満ちたときに生まれるのが楽音である。

 一滴ずつたまってついにあふれた水が竹の筒を傾ける時、
 水滴がはじける時、
 手や足が空を切った後、

 静寂と静寂が楽音を囲む。

 静寂がないと音楽は成立しない。

 音楽は文化的言語であるが、それを生み、受けとめる静寂は、ユニヴァーサルである。

 静寂さえあれば、古池に飛び込む蛙の水音でさえ、芸術世界を構築する。

 先行する静寂に育まれた楽音が、連なり、その途中でもさらに多くの静寂(休止)を度々呼吸して新たに生まれ続けるのが音楽である。そしてそれは、やがて、もとの大いなる静寂の中に帰っていく。大洋に生まれた生命が旅を終えてまた大洋に戻っていくように。

 そういう音楽は静寂から生まれ、静寂を糧として行き、静寂へと還る生命なのである。

 モンテヴェルディのVESPROはその種の音楽である。

 その命を共有して、私たちの命と共振させ、糧とするには、ユニヴァーサルな静寂を共有しなくてはならない。

 クリクはその静寂を奪った。

 歌手や奏者の息継ぎの中にはそれはあるのだが、曲の始めと終わりにはそれが奪われていた。絶えず聞えてくる「あっちの音」の模倣。

 ヴィジュアルな奇抜さのために落ち着かない、集中できない、ということよりも、本質的な問題は、実は、そこのところだったと思う。

 ユニヴァーサルな静寂の中にインスパイアされつつ「こっち」で完結する音楽と、静寂と音の境を越えてそのまま「あっち」に参画しようとする音楽という異質なものを強引に結びつけたのが クリクの失敗だった。

 でも彼は気付いていないだろうな。

 あの、自信たっぷりの解説ぶり(それ自体は魅力的でそれなりの説得力もあるのだが)を見てると。
 
 このコンサートにがっかりした人たちは、きっと、因習的な宗教音楽の鑑賞態度の枠から逃れられない保守的な人たちだとクリクから思われるんだろう。

 このユニヴァーサルな静寂については、オリバー・サックスがその新著『Musicophilia』が、音楽が記憶障害の人を孤独から救う例としても書いている。サックスの本は人気があるし、フランス語訳はたちまち出たので、日本語訳も出るんだろう。絶対面白いと思う。






 

 
by mariastella | 2009-01-26 18:04 | 音楽
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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