L'art de croire             竹下節子ブログ

ピオ10世会の破門解除騒ぎについて 

ピオ10世会の破門解除騒ぎについて   


 フランスのカトリック界はここ2週間ほど大騒ぎだ。

 1988年に破門された故ルフェーヴル師がヴァチカンの同意なく任命した4人の司教が破門を解除されたニュースのすぐ後で、その1人がスウェーデンのTVで「ユダヤ人はガス室では死んでいない」という、ヨーロッパではタブーの歴史修正主義的発言をしたからである。

 もともとフランスのカトリック言論界は結構リベラルで、第2ヴァチカン公会議を全否定するピオ10世会と現教皇のベネディクト16世(以下B16)の歩み寄りには警報を鳴らしていた。

 今度の騒ぎでも、戦後のカトリックが苦労して築いてきたユダヤ教との対話路線を一方的に危機に陥れるものだとして、件の発言をしたウィリアムソン(ケンブリッジ卒のイギリス人でカトリックに改宗した人だから、もともとカトリックの「伝統的」な典礼だのに親和性があったのだろう)を厳しく弾劾、彼を受け入れるというヴァチカンに強く抗議している。

 私は、この話については、実はあまり、触れたくなかった。

 もし自分を在フランスのカトリック言論人として位置づけて意見を述べるなら、彼らと全く同じ意見ではある。

 でも、個人的には、いろいろ複雑な思いがある。

 私は、昨年末からのイスラエルによるガザ攻撃に心を痛めていた。

 堂々と弱いものいじめをした後で、オバマ大統領の就任式の直前に撤退するなど、あからさまな政治的思惑にもすでに嫌な感じがしていたし、今度のこともそれと続いて、あまりにもいいタイミングで、反ユダヤ主義をたたく結果になっているので、メディア操作の気味悪さが抜けない。
 実際、ウィリアムソンがこのような反ユダヤ的発言をしたのは、今回が初めてではなく、数年前にカナダでも言ってるそうだし、今回のTV も、収録は2008年の11月である。

 つまりこの人は言ってみれば確信犯で、別に、バチカンを巻き込んでやれとか、カトリックを困らせてやれとか特に思っているわけではない。

 こういうタイミングの問題のあやしさが、一つ。

 もう一つは、私は、どんな歴史にしろ、特定の「正史」に反する言動を即刑法で罰するというシステムには反対だ。
 今のドイツでは、反ユダヤ主義やShoahについての歴史修正主義は、そのような対象として罰せられる。第二次大戦のヨーロッパ的文脈からして避けられないことだったのだろう。

 しかし、私はどんな正しいと見なされる歴史にも、「疑う権利」は保証されるべきだと考える。そして、社会的、公序良俗に「不適切」な修正主義は、個別に裁かれるべきである。

 これは、私が、たとえば、フランスで、「同性愛者に対する差別的言動」を特定化して刑法上のより重い罪とするのに反対するのと同じ理由である。
 人は、だれでも、その帰属や、人種、民族、性別、身体的特徴、年齢、障害、性的傾向などを理由に差別されたり、侮辱されてはならない。
 それを「同性愛者」を分けて特化することは、得てしてコミュノタリスムの表現であり、ユニヴァーサリズムの後退であるからだ。
 もっと言えば、選挙の集票につながる特定ロビーの優遇であり、それを野放しにしていては、ロビーを形成できないマイノリティの権利がおろそかにされる恐れがあるからだ。

 歴史修正主義の規制についても同じである。特定の政治的ロビーとつながるものだけを特化して優遇することには反対である。
 逆に、どんな修正主義的発言でも、ケース・バイ・ケースで、人種差別や人権侵害や名誉毀損などを構成するかどうかが問われなくてはならないし、その社会的影響や文脈もその都度考慮しなくてはならない。

 概して、ヨーロッパキリスト教世界におけるナチスのホロコーストに対する反応は、ユニヴァーサリズムを超えた「特例」をなしている。

 いろいろな理由があるだろう。

 ヨーロッパは2度の大戦で荒廃しきったので、ともかく経済復興することが優先問題だった。そこに冷戦構造が加わった。
 ナチス・ドイツをスケープ・ゴートにするだけでは納まらず、フランスのような国では、罪悪感も大きい。フランスはドイツに占領されて親ナチヴィシー政権でユダヤ人迫害政策をとったからだ。
 長年「西欧」に同化していたリッチなユダヤ人たちのアンビバレントな行動もある。それらが一体となって、イスラエルという国を戦後、強引に作った。

 第二次大戦における、原爆とホロコースト、これは戦後西欧知識人の2大トラウマでもあった。
 このトラウマのすごさは、戦後日本に生まれた私には想像もつかなかった。
 
 私のような普通の日本人ならたいていそうだろうが、日本人は、ホロコーストだのナチスのガス室が怖ろしいとは言っても、人類としての「罪悪感」など持ちにくい。もちろん、ホロコースト=繰り返してはならない悪という刷り込みは、『アンネの日記』からシモーヌ・ヴェイユ、エディット・シュタイン、エティ・ヒレスムなどの読書を通じて、しっかり定着している。映画にもこと欠かない。
 日本人の感覚では「ユダヤ人=優秀な民族だが歴史の犠牲者」というのが普通で、第一、大方の日本人にとって「西欧系ユダヤ人」は顔も姿も普通の欧米人と区別がつかないことが多いから、「反ユダヤ主義」などは育つ土壌がない。だから、深刻な罪悪感もない。

 しかも、もう一つの「意図的皆殺し」であるトラウマの「原爆」だって、相手のアメリカが戦勝国になったこと、日本も戦後の復興に一生懸命でモラルの問題を追及する余裕がなかったこと、冷戦により、当のアメリカの「核の傘」というものに入って守られるという状況になったものだから、「原爆=悪」の責任追及というのは、ナチス狩りのような展開にはなりようもなかった。
ノーモア・ヒロシマと言えば、「もうこの過ちを繰り返しません」という誓いとなった。それはそれで、本当に自覚的な平和宣言と武力放棄に支えられていたなら、「こいつが悪い」式の糾弾やスケープゴートを立てるやり方よりはずっとユニヴァーサリズムにつながり、「人類の進歩と平和」の道にかなっていたと思うが、実際は、冷戦構造の名の下に、ダブル・スタンダードの立てまくりで、いまや収集がつかなくなっている。

 このように、ことは複雑なのだが、それを踏まえても、私は、『日本書紀』を否定するのが即、罪になる、式の、ホロコースト否定が即罪になるという形で特化する法制化には反対の立場であるわけである。

 だから、ウィリアムソンが、そんなことを発言したからと言って、それだけで即糾弾と言うのでなく、それが誰にどんな迷惑をかけ誰の権利を侵害したか、などという分析が必要だと思う。

 もちろん、カトリックが大騒ぎをするのは納得する。

 先に書いたような、カトリックが戦後苦労して進めたユダヤ教との対話路線を無に帰するような発言、しかも、B16の信用を危うくさせるようなタイミング。

 先代JP2はポーランド出身で、アウシュヴィッツで祈ったり、エルサレムの嘆きの壁で祈ったり、特にユダヤ人との和解に心を砕いた。今のB16 と言えば、なんとドイツ出身であるから、ナチス・トラウマはいっそうべったりはりついている。
 フランスで言えば、先のパリ大司教の故リュスティジェはポーランド系ユダヤ人の改宗者であり、困難を乗り越えて、パリの大ラビとも友情を築いてきた。

 フランスの司教団は、1997年9月30日に、公に、ヴィシィ時代のカトリック教会の態度について謝罪した。

 ヴィシィ政権の反ユダヤ的政策について、フランスの教会の取った一般的態度は「沈黙」であった。犠牲者を擁護する言葉は例外的なものであった。この犯罪の酷さを前にして、多くの聖職者は、その沈黙によって、教会とその使命を損なった。この沈黙は誤りであった。

 とはっきり言っている。

 まあ無理に情状酌量してみれば、中世にずっと「世界の良心」として、他の国の世俗権力に介入してきて、近代でその勢力争いに敗れ、フランスでは特に迫害されたり厳格な政教分離を課せられてきたりしたカトリック教会は、「君たちは政治のことには口を出さないでおとなしく祈ってなさい」と言われ続けてたんで、萎縮していて声を出せなかったというのもあるだろう。
 キリスト者の当然の義務としてナチスに抵抗して、収容所で処刑されたドイツ人カトリック司祭の日記を最近読んだが、彼も、ヴァチカンからの援護射撃がないことを苦しんでいた。

 しかし、ともかく、ピオ10世会のメンバーは、そういう反省を全然していないのは明らかである。

 ヴィシィ政権が伝統的信仰と労働と家族愛とを称揚したのは大変よろしいと、ルフェーヴル師は発言している。

 世界については、
 
 「B16は、教会は世界と調和するべきだと言う。なぜ彼は真実を言わないのか ?
世界は我われを憎んでいる。世界のエスプリは地獄へとつながる。世界が教会に拍手するようならば恐れおののくべきだ。世界と和解できると想像するのはむようである」(Bernard Fellay 2007/6/7)

 と言っている。

 「あなたがたは、よりよい世界、より連帯した世界を打ち立てるために寄与できるはずだ。たった1人の回心と現実参加がすべての人の救いの芽生えの一部となる。」(2002・4・17)


 と、JP2 が大学生たちに話したのとは全く違う。

 第二ヴァチカン公会議は、他宗教についてがんばってこういうことを言った。

 「カトリック教会は、これら(他)の宗教のうちにある真実や聖なるもののどれも忌避するものではない。」(Nostrae aetate 1965)

 ピオ10世会のフランスのリーダーはこう言う。

 「第二ヴァチカン公会議は、(信者たちの)魂にとって、この社会に向けた限りなく遺憾でスキャンダラスな親切さとなっている。(この社会とは)悪徳と過ちを護り、地獄を準備するもので、全く不当に『他宗教』と呼ばれている」(2009年念頭挨拶)

要するに、ピオ10世会というのは、1人のウィリアムソンがガス室がなかったと言うとか言わない以前に、また、古式の典礼を守りたいとかいう問題以前に、今のカトリック教会の基盤となっている第二ヴァチカン公会議を公然と全否定しているんで、いや、全世界に背を向けて、自分たちの殻に閉じこもるセクトなのである。

 では、なぜ、B16 が「出入り禁止」を解いたのかというと・・・

 それは、今のトップであるBernard Fellay が、もう大分前からB16に頼んだからだ。「ドアを開けてください」と。

 彼らが出て行った根本のところが全然変わっていないのだから、ドア開けるほうがおかしい、と多くの人は思う。

 でも、キリスト教的な赦しの概念を考えると、
 B 16 の判断の誤りも、まあ、無理もないかなあと思える部分がある。

 キリスト教的な「和解」や「赦し」は、まず「無条件」であることが本来のものである。

 「破門を解くから、あなたたちも公に謝罪して今までのエラーを認めなさい 」

 とは事前交渉しなかった。

 B16は、Bernard Fellayが「ドアを開けてください」と言ってきたこと自体に、聖霊の働きを見たんだろう。

 ただし、件のウィリアムソンなんかは、Bernard Fellay のこの歩み寄りにすでに反対している。彼らも一枚岩ではないらしい。

 で、ドアを開けたらすぐに、むこうが歩み寄るかというと、それは、「神のみぞ知る」である。

 今のところ、B16 は、ほら、見たことか、どうせあんなネオナチのカルトなやつらが反省するわけはないだろう、B16 に状況を説明してちゃんとアドヴァイスしなかった側近が悪い、という、批判や嘆きの渦にいるというわけだ。

 しかし、違反分子をどうするか、という問題は、「ユニヴァーサリズム=多様性の中の統一」を目指すグループにとっては、永遠の難問である。
 合意と秩序を守るために、排除するのか、管理するのか、原則を犠牲にしても緩やかに取り込むのか、理屈だけでは割り切れない。

 実際に、人間の心の動きには、理屈では割り切れない回心のような展開がある。
 秩序と整合性の追及だけでは得られない思いがけない結果と言うものもある。

 カトリック教会の首長くらい、そういう冒険をしても罰が当たらないかもしれない。それを猛然と批判するカトリック内の動きがあることもそれはそれで結構だ。

 後悔や迷いや批判をすり合わせて、学習するかもしれないし、進化するかもしれないし、何かいい方に変容するかもしれない。

 ことは、信仰の世界で起こっているのだから、必ずしも、即効に、論理的な結論がでるものではないのだろう。

 少なくとも、「ガス室がなかったという歴史修正主義を口にする司教の破門を解いたからB16 も責任がある」というような単純な問題ではない。

 まあ、上記のように、このピオ10世会の考えはあらゆる点で近代ユニヴァーサリズムの方向と反しているので、私にはとても容認できないのだが、「ガス室がなかった」なんて発言だけをピンポイントに取ると、情けないと共に憐憫の気も起こる。

 日本でいつぞや、こういう記事を載せて廃刊になった雑誌があったせいで、今でもネットで読めるので、読んだ人は分かるだろうが、これはこれで、巧妙にできている。つまり、決して反ユダヤ主義で言っているのではなく、歴史の真実への使命感からの論議であるという設定になっているのだ。結果的なホロコーストは認めたり憎んだりしたままで、でも、ほら、共産圏による情報操作ってあるんだよ、何しろ、冷戦があったから・・・と言われると、おお、なるほど、そういうこともあるかも・・・と思う人も出てくる。実際、共産国や独裁者のいる国が、歴史を修正したり捏造することはあるだろうし、戦争がからむと、嘘やでっち上げやデマゴーグが普通にとぶことも衆知の事実である。

 私も、自分の比較的よく知ってる分野のことなら、フリーメイスンの陰謀論とか、安易な終末論とか、世間に飛び交う「トンでも説」は、すぐにひどいと分かるのだが、そして、そういうことをいい大人が真剣に信じて広めていたりするとがっかりするのだが、知らない分野では、「ほうら、実はこんなことが・・・驚愕の真実」とか言われると、あやしいと思いつつも、つい話のタネにしたり、ものの見方に微妙にバイアスがかかったりすることがあるので、他人のことは気軽に批判できない。

 まあ、トンでも説やら陰謀説やらは、いつの時代にもいくらでも出てくるし、どんなに否定されても、ひどい時はたとえ最初の嘘つきが「あれは私のでっち上げでした」とカミングアウトしてすら、一人歩きして、もう消すことができないサブカルチャーになっていたりするので、一つ一つ検証するのは不可能だし無意味である。

 だから、結局、この稿の最初に言ったことと同じく、文脈と影響と結果を見て、それが特定の個人や民族やグループの差別や名誉毀損や権利侵害に至る場合にのみ警鐘を鳴らすのを怠るな、ということになるだろう。

 たとえば、私は、イエス・キリストが青森県出身だったとか、ノアの箱舟が宇宙船だったとか、そういうトンでも話は、わりと好きだったりする。

 でも、どんなトンでも説でも、いや、れっきとした歴史の真実ですら、一部の人や国の都合で歪められたり矯められたり、演出されたりすることで、利用されたり取り込まれたり、他者の抑圧の道具とされてしまう危険は常にあるわけで、そういうことを肝に銘じて、分別と洞察力を磨いていくことこそが、何よりも大切だ。 つくづく思う。
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by mariastella | 2009-02-04 23:08 | 宗教
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