L'art de croire             竹下節子ブログ

ダーウィニズム、ピオ12世

 そのうち書こうと思っていたのだが、まともに取り上げると膨大なものになりそうなので、当分触れることができないと思うので、予告だけしておきたい主題が二つある。
 ブログではない別の形で書くかもしれないけれど。

 一つは今年が『種の起源』150周年で注目されるダーウィン主義とエコロジーとカトリック教会の関係。

 もう一つは、ピオ12世とナチスの戦争犯罪の関係についてである。


 最初の方、ダーウィン主義は、時としてイデオロギーと結びついて、優生主義や新自由主義経済(適者生存、弱肉強食)を担保してきた。
 かと思うと、アメリカの福音派的キリスト教原理主義者がダーウィンを目の敵にして天地創造を教科書に入れよう、と言っているような話題がある。そこでは、「信仰=蒙昧」に対する「理性=科学」という単純二項対立の図式があったりする。
 これに、イデオロギーとしてのエコロジーが絡む時がある。
 ディープ・エコロジーといわれるように、地球を守るためなら人類は絶滅した方がいい、みたいな極端なものから、単に政治資金をたたき出すロビー活動のものもあるし、古い時代にかえれという保守反動みたいなもの、いろいろである。

 カトリック教会は、JP2(前教皇) もB16(現教皇)もはっきりとエコロジー的路線を打ち出している。

 これに、日本のような非キリスト教国では、単純に、環境破壊はキリスト教的人間中心主義と進歩主義から導き出された悪である、、日本は元から自然と共存して環境にやさしい社会だった、実際に江戸時代は云々・・・というナショナリズムっぽい方向に流れる言説がよくなされる。

 これに対して、キリスト教文化圏のエコロジストの間では、別の単純図式が最近までまかり通ってきた。

 いわく、聖書は人間にこの地球の環境に責任を持てと言っているので、好きなように搾取せよといったわけではない、生物の多様性と生物倫理というのは聖書の中にある。
 むしろ、17,8世紀の産業革命の頃に、その聖書的世界観をヨーロッパが捨てて、地球を機会と見なした時に環境破壊が始まった。それまで、神に想像されたものとしての尊厳と意味を有していた自然は、それ自体意味がなくなり、人間がそこから引き出す有用性(=生産性)によってのみ価値を測られるようになった。だから、環境破壊を止めるには、聖書に戻らなくてはならない。

 これに、マルサスの人口論とか、マルサスにインスパイアされたとも言われるダーウィンの生存競争のアイディアが加わり、それらが自由主義経済を極端にまで推し進めたので、今の環境危機と経済危機にまで至る。

 そんなわけで、「反ダーウィン主義者=反マルサス主義者=避妊中絶反対のキリスト教右派=ディープ・エコロジスト」が渾然一体に混同されたりしている。

 火曜のベルナルダンでのセミナーでは、真のエコロジーはイデオロギーではなく科学であり生き方であるのだから、文化や宗教も含んだ人間の全ての活動の相互作用としての新しい「art de vivre」が模索されるべきだと提議されていた。

 これについて、いろいろ考察を加えたい。

 キリスト教における人間中心主義とその後の無神論的展開は、一つの根を持つこと。

 1990年の冷戦以降の新自由主義の暴走は、「先進国」全てに共同責任があるのであり、「欧米キリスト教国のせい」に帰すべきのみではないこと。

 消費主義からの覚醒とエコロジーとの関係。

 ナショナリズムや人間中心主義というエゴイズムのヴァリエーションから方向転換して、新しい「生き方」を共同(他者、他国、他文化、他宗教、人間以外の自然)で考えることの意味。

 以上についてのカトリック教会の立場

 などなどである。


 次に、ピオ12世の戦争責任について。

 この言説には少々辟易している。
 エコロジーと宗教についての考察の方が大事だと思う。

 しかし最近、ピオ12世がヒットラーの手先だったかどうかというニュアンスの伝記本の翻訳について訊ねられた。
 それこそ「欧米」では、この話は、日本人があまり想像できないほど、「古くて新しい」活きのいいテーマなのである。
 フリーメースンの陰謀、ユダヤ人の陰謀、何とかの秘密組織の陰謀・・論と同じで、歴史家がどんなに「反証」を挙げても、それまで「根拠」とされていた資料が偽書だと分かっても、新しい資料が出てきても、もう、一人歩きした陰謀論は停まらない。それを覆したり否定する動き自体が「陰謀」の一部であるとされる。

 また、単に、同じ一つの事実を前にしても、バイアスをかけて見てしまえば、どのように解釈もできるという面も実際にある。

 幸い、カトリック教会と第二次大戦の関係については、非常に綿密な歴史的研究も結構出そろっている。これを駆使して、流言蜚語を一度一掃してリセットして、一般の人に冷静に判断する材料を与えよう、という書物がちゃんと出てもいいのだが、すごく努力して膨大なものを書いたとしても、

 すでにバイアスのかかっている人はそんなものを必要としない、読んでも曲解する。
 非常にアカデミックな立場の人にはそのような啓蒙的な総合書はすでに必要ない。
 一定のロビーや利害関係のためにある方向付けの情報を流している「確信犯」的な人には言っても無駄。

 というわけで、先行きは暗い。

 だから、私も今のところはそんなことはしないが、

 Wladimir d'Ormesson や Leon Berard というヴァチカンのフランス大使による報告書とか(信頼性は高いと思う。これに比べれば、ドイツのヴァチカン大使の報告書がいかに捻じ曲げられているかは想像がつく)、 Matteo Sanfilippo の研究とか、スイスのLucerne大学の
 Victor Conzemius が Louvain大学から出した 『Eglises chretiennes et totoalitarisme national-socialiste 』などを見て、今の私が確かだと思っているのはこういうことである。

 ピオ12世は、ピオ11世と同じくナチズムをその拠って立つ「民族差別」ゆえにカトリック(=普遍)と相容れない、と考えていた。(cf1937年の回勅)
 それは、共産主義が無神論と物質主義に拠って立つゆえにキリスト教の敵だと見なしたのと同列である。

 しかし、ピオ12世は、「スターリンよりもヒットラーのほうを憎む」とはっきり言った。
 ヒットラーは伝統的に世俗政権と抵触しにくいルター教会に比べて中央集権的なカトリックを目の敵にして、一度カトリックの自由を認めた親和条約を破った。

 ピオ12世とその側近のMaglione 、Montini、Tardini(後のパウロ6世)らは、親イギリスで、連合国のレジスタンスに期待し、アメリカにも期待していた。

 ドイツがソ連に対する「十字軍」を唱えた時も、決してそれに便乗しなかった。

 終戦後にナチスを南米に逃がしたオーストリアのHudalは、司教であり亡命者を世話していた立場を利用して、赤十字のパスポートを融通した。彼がヴァチカンのために動いたのでその後でスケープ・ゴーととなったという説は否定されている。

 もちろん、では、ヴァチカンに何の責任もないかと言えばそれも間違いだろう。

 神学上の反ユダヤ主義の伝統と、民族差別イデオロギーとしての反ユダヤ人主義とを混同してはならないが、カトリック教会に根強い反ユダヤ的な神学とそれに基づく偏見と先入観が存在していたのは事実である。しかし、ナチスが具体的にユダヤ人を迫害し始めた時、ピオ11世は「キリスト教徒が反ユダヤ主義に与するのは不可能である。(・・・)反ユダヤ主義はは許されない。我われは霊的にユダヤ人である、とはっきり言った(1938年9月)。

 ピオ12世はペシミストであった。

 戦争をとめる力はないと思った。

 1937年の回勅で立場の表明は充分だと思った。

 ある意味で、カトリックの頂点に立つ人がペシミストであることは、罪かもしれない。
 JP2などは、絶対にあきらめずに執拗に戦い続けた。

 ドイツ国内で迫害されたカトリックは苦しんだ。エディット・シュタインは回勅を嘆願した。収容所処刑された司祭も少なくない。

 ピオ12世は、イギリス女王にエールを送り、ルーズベルトの使者に会い、アメリカ、イギリスに期待すると言い、ドイツが支配すればカトリックは潰されると考えていた。でも、ヒットラーを弾劾する回勅を出さなかった。

 ヴァチカンには反ユダヤ主義で親ナチスの聖職者ももちろんいた。

 一人一人を政治的な信条で弾劾することは不可能である。

 戦争が終わったときすぐに、戦争犯罪人は処罰されるべきである、とピオ12世は言った。
 Hudal の行為は、ヴァチカンの関与されないところで行われた。
 監督責任は?

 また、第二次大戦下の異常な事態で、ナチスやペタン政権のユダヤ人狩に見て見ぬふりをした人は多かった。フランスの聖職者の多くもそうだったし、沈黙することによる加担が罪になるということは、フランスでは今や刑法にも明記されている。当時のヨーロッパは大半がキリスト教徒だったわけだから、彼らの罪の意識は大きい。

 そこに、同じように沈黙していたピオ12世に責任転嫁する気持ちも当然起こるだろう。

 近親憎悪でもある。

 教皇は、多分、ヴァチカンでたった一人でも、ヒットラーを弾劾する声を世界に発するべきだったのかもしれない。

 JP2 が、自分自身がソ連の戦車とポーランド人の間に立ちはだかる用意がある、と言ったように。

 ピオ12世は、ヴァチカンに閉じ込められた状態で、ヒトラーを憎み、ペシミズムに蝕まれていた。ペシミズムは、キリスト教の徳ではない。

 2007年の5月8日、ピオ12世の「英雄的な徳」(列福の条件の一つ)が認められた。
 前年、ハイファの大ラビは、遺憾の意を表明している。

 こういうこと全てが、現在のウィリアムソン司教の歴史修正主義をめぐる騒ぎにつながっている。一筋縄ではいかない。

 

 



 
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by mariastella | 2009-02-13 03:18 | 宗教
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