L'art de croire             竹下節子ブログ

アートと宗教

 「アートと宗教」というタイトルをつけたが別に大論文ではなく、昨日の続きである。

 若山さんの力作において、そのいわゆる学問的考証の幅と深さは読んでいてわくわくする。でもそれをすごく無邪気に楽しめるのは、たとえば天井画における寓意肖像画の解釈などの場所であり、つまり、解釈の根拠が歴史的な背景のみで説明されているような部分である。

 そうではなくて、解釈が神学的であったり、しかも、「当時の神学のトレンド」というものではなく、無時間的、非時間的な恩寵とか神の摂理とか信仰とかに裏付けられている部分は、つい、完結した「信仰告白」として読めてしまうので、その後で口を挟める雰囲気を拒む。

 私はこのシスティナの天井画の『ノアの泥酔』のエピソードについて、その選択も、構図も、年とった父親と3人の息子の裸とその美醜と禁忌の扱いも、前からすごく気になって仕方がなかった。
 若山さんに貴重な御著書をいただく前にすでに、メールで質問をした。
 
 私の関心の持ち方が浅薄であることは指摘されても仕方がない(そうはっきり言われたわけではないが)。

 天井画全体の構成とバランスとの中でしか論じられないものであり、その場面だけとってマニアックなディディールに卑しい想像をめぐらせるのは、美術鑑賞としても、学術的姿勢としても、もちろん宗教的アプローチとしても間違っているので、ただの野次馬的好奇心であるのは自覚している。

 で、ミケランジェロにおける、人間の、もっと言うと男の肉体へのフェティッシュな感じというのは、もちろんルネサンスという時代と切り離せないわけだが、この天井画はやはりその表現の場だったという気がする。

 もちろん当時のイタリアには、宗教としては、ほぼローマン・カトリックしかなかったのだから、そして、アーティストに作品を注文してくれるパトロンというのもほぼ、宗教的文脈と切り離せないのだから、聖書だの神の摂理だのが無関係だということはあり得ない。でも、彼らには、宗教的宇宙観について「選択の余地」はほとんどなかった。そして、「選択の余地のないフィールド」とは、、アーティストの枠組みであり場であり、規制ではあっても、彼らにそれを「成就」するというような意識は生まれるのであろうか? 

 ミケランジェロの話の後で、自分の卑小な体験談を持ってくるのは気が引けるが、私のトリオは2003年に、日本でコンサートをした。大学や施設やサロン・コンサートもしたが、4箇所のカトリックの聖堂でも弾いた。そのうち3つはチャリティーコンサートで、2つは、神戸と東京の教区の教会である。

 その東京のコンサートが終わった後で、主催してくれた方から、「教会で異教の音楽のコンサートをするのはどうかという声が最初はあったので心配した」といわれたのには非常に驚いた。

 「異教の音楽」?

 確かに、17-18世紀のフランスのバロック・オペラは、まさに、当時の権力や宗教から口を挟まれないようにということもあって、舞台を神話世界や異国に設定するものが多かった。

 私たちの演奏するオペラ組曲も、歴史の実話に題材をとったエジプトの悲劇の女王を巡る話である。だから、精霊を召喚する場面だとか、ナイルの神殿に奉納する祭りのシーンとかが出てくる。だからエキゾチックな部分もあるが、そういうのはルネサンスを経て、すでに当時のヨーロッパのハイブリッド文化の常識の部分であり、ピューリタンの世界ででもない限り、特に異教的とかいうものではない。ファンタスティックな娯楽というだけである。
 それでも当時は確かに、復活祭前の四旬節とかのいわば「忌み」の期間には、世俗の娯楽の上演が禁止されていたんで、サロンや劇場ではもっぱらモテットやミサ曲などの宗教音楽が上演された。。
 でも、その時のそういうモテットやミサ曲や聖歌などきくと、オペラ曲と同じ構造を持っているのが分かる。
 聖書を題材にしてとてもドラマティックなバロック音楽になっていたり、オルガン曲がまるで舞踊組曲のような構成やフレージングを持っていたりする。
 作曲者も、演奏者も、聴衆も、たとえば四旬節の間だけ「敬虔な宗教音楽」を聴いて、それがあけたら「世俗の音楽」が解禁になってそっちに行った、という感じではない。
 シーズンによって、タイトルが違うだけで感性や実態は同じなのだ。
 
 当時からそんなものだったし、もちろん、私たちは今も、フランスの各種教会でコンサートをすることが少なくない。

 音響が悪くない場所が多い。
 場所と常連がすでに「ある」のだから、オーガナイズしやすい。
 安い。メンテナンスや集客の問題も少ない。向こうに負担がかからない。
 チャリティーコンサートにしたり、寄付を申し出たりすると無償で借りられることも多い。
 数が多い。
 そこの司祭さんか市長さん(教会の建物自体はたいてい市町村の所有物)と個人的な知り合いであれば(あるいは単に自分の住んでいる地区の文化担当や、教会に連絡すれば)、簡単に便宜を図ってもらえる。

 ま、フランスの教会は、演奏場所を探している室内楽系のミュージシャンにとっては、建物がしっかりした昔からある公民館みたいな感じである。

 まあ、よほど、過激で挑発的なコンサートとかなら、ひょっとして断られることもあるのかもしれないが、外国の民俗音楽であろうと、現代の映画音楽であろうと、チェックされない。
 特に私たちのように、基本的には18世紀の音楽、なんて、もうそれだけで、アンシャンレジーム下の音楽なんだから、無害であることは自明だ。

 そして、私たちは、音楽の中にある、スピリチュアルなメッセージというものには非常にひきつけられるのだが、たとえば、「神学的公正」みたいなことは、頭をちらりとよぎりもしない。メンバーの一人は無神論者だし。それも、家庭的に無神論文化で育っただけで、闘争的無神論者ではない。私たちは、日本で、関西での1週間ほどを修道院でお世話になったのだが、宗教がどうの、信仰がどうのなどということは全く問題にされなかった。

 だから、東京の教会で、「異教の音楽はいかがなものか」みたいなことを耳にして驚きでぶっとんだわけである。彼らには、「(本家の)フランスでもしょっちゅう教会で弾いてます」ということで安心してもらったわけだが、実際、私たちは、どこで弾くかということに対して、「信仰の問題」とかましてや「教義の問題」などを絡めて考えることはない。
 もちろん、グレゴリオ聖歌の本場の修道院で聖歌を聴くとか、レクイエムを聴くのはやっぱり教会だよね、とか、パイプオルガン曲はあの聖堂で、とか、歴史と伝統と音響効果とアートと精神性がぴったり一致して感動させられるシーンというものはある。比叡山の声明は国立劇場より比叡山で聴きたい。ギリシャ悲劇は野外の円形劇場で観たい。でも、それは、鑑賞者にとって別に信仰を共有してるとかの問題ではない。
 もちろん信仰によって、鑑賞のディメンションが変わってくるということはあるだろうが、それは、アート批評の言葉にはならないだろう。

 そして、演奏者の端くれとしていうならば、自分のレパートリーを弾く時に、音響効果とか、演出とか、客層(子供もいるとか、プロがきてるとか・・・)には気を使っても、教会(=神の家)で弾くから、神の声に呼応しようとか、そこの教義やら、神の恩寵やらとかを考えることなんかは、あり得ない。

 まあ、教会に頼まれて、天井画を描いたり、壁画を描いたり、彫刻を創ったりする人には、今でももちろんいろいろな神学上の制約もあるだろうし、自分の信仰との折り合いというのもあるんだろうが。

 それでも、アーティストというのは、ありとあらゆる制約をいかにしてかいくぐって、自分のクリエーションを自由に表現するか、ということに常に挑戦する者で、それが、壮大な神の摂理に一致するかとかなど、たとえルネサンスの時代でも、考えていたとは思えないのだ。
 ミケランジェロはあの広大な場所に、裸の肉体をあれこれとりまぜて心ゆくまで描くことがすごく嬉しかったと思う。たとえ、作業がどんなに苦しく、重圧があり、ストレスが大きくても。

 あ、もちろん、「神の方からアーティストに働きかけた」というのは別だ。アーティストが自分でもそれとは知らずに神の道具としてクリエーション(=啓示)に参加するという見方は、それもすでに「信仰の言葉」であるから、これは確かめようがない。

 ルネサンス後期のイタリア、ましてや18世のフランスなどは、すでに、支配体制としてのカトリック教会のあり方について、大いなる疑問が突きつけられていた時代であるから、聖職者も含めてインテリの間では、「神の摂理」というのも、教義の壁をするりと抜けて、有神論だとか理神論に近い、シンボリックな霊性に向かっていた節もある。
 まあ、人生には誰でも霊性についての感受性の波があるものだから、本気で「信心深く」なったり回心に向かう時期もあるとは思うが。

 一般的に、なんだかアーティストというのは、本質的に悪魔、といっては悪いなら、堕天使みたいな部分があるのではないだろうか。

 いや、だからこそ、信仰の枠を確かめて境界領域でせめぎあう人も出てくるのかもしれない。

 どちらにしても、システィナ礼拝堂を見ると、それを我われに残してくれた、ミケランジェロや、ユリウス2世や、ローマ教会や、神に感謝、というしかないけれど。
 やはり、普通の人の想像を超えたアート作品こそが神の恩寵の証明、存在証明、かもしれない。すぐれたアートを残してくれない神なんて、いてもいないのと同じだよ、と思わず言いたくなる。

 
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by mariastella | 2009-02-22 21:12 | アート
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