L'art de croire             竹下節子ブログ

ソリプシスムはフランス仏教徒の感性に合う

 友人エリカがのめりこむチェコのソリプシストについて。

 彼の名はまだここに書かない。
 今はネットの時代だから、彼の名をここに書けば、ありとあらゆる人が検索するだろう。

 その感じがむずむずするからだ。

 エリカが、彼女の翻訳作業にスポンサーを見つけたいと言った時(すでにここ10年ほどで10冊以上がエリカの訳で出版されている)、私は、彼の名で英語のサイトを立ち上げて紹介すればいい、そしたら日本の出版社だって読めるし、と提案してみた。すると彼女は(アメリカ人であるにも関わらず)、英語のような粗雑な言葉で彼のことはひと言も書きたくない、と激しく拒否したのである。

 だから、私も、軽々しく、自分のお粗末な日本語で簡単に書いてしまうのはちょっと気が引ける。

 明日エリカに会うので、ひと言ことわっておこう。

 チェコという国が、そういう「無神論の極北(これは私の解釈で彼女の形容ではないが)」を生むような宗教的背景について、先日エリカに聞いてみた。

 こういうことらしい。

 チェコはヤン・フスを生んだ国である。16世紀にプロテスタントの宗教改革が起こる1世紀以上も前に彼は、腐敗したカトリック教会を批判して、火刑に処されている。彼の影響は大きく、武力で弾圧されたものの、チェコの民衆は、フスの激越な思想を心に深く刻んだ。

 その後、ハプスブルグ家に征服されたりしたことで、チェコはカトリックに戻る。

 しかし、エリカによると、そのカトリシテは表面のことに過ぎず、実は、フス以後、チェコの民衆は、もう誰も「カトリック教会の神」を信じていなかったというのだ。

 民衆レベルの信仰の核が、支配者の押しつける宗教と一見習合したり隠れたりしつつも、実は根強く何世紀も残るという現象は他処でも時折見られることであるから、そういうこともあるのかもしれない。

 そのベースがあったから、カトリックと拮抗して生まれた西洋近代からちょっとずれて、チェコの人にとっては、ニーチェの思想に共鳴してしまうということがたやすかった、というのである。

 なるほど。

 ところが、この哲学者が、34歳のある日、「自分が絶対者=神である」という覚醒を得た時の言葉を極めて「自然に」共感、共鳴してしまうグループがフランスにもいた。西洋近代のユマニズムの本家であり牙城であるようなこの国に。

 それはフランス人仏教徒と仏教シンパの人々である。

 意外だった。

 30年以上フランスに暮らしていると、日本やアジアの慣習や文化で相対的に見えてくるものも多いし、すっかり「フランス人の視点」で見えてしまうものもある。その中で、いつまでたってもなかなか客観的には見れないものも、もちろんある。

 「和服」とか「日本仏教」がその仲間だ。

 たとえば「和服」をパリの真ん中で突然見かけても、異形の民族衣装には見えないで、生まれてからこの方、自分も含めてあの人やこの人が来ていた和服の集合記憶が必ず喚起されるので、それが「他のフランス人の目にどう映っているのか」という想像がしにくいのである。

 「仏教」もそうである。

 私はパリ郊外のチベット仏教センターと関係が深く、多くのラマやフランス人仏教徒や僧侶らとも何十年来の親交がある。いろんなことも学んだが、どうしても、何かを見たり聞いたりした時に、他のフランス人が感じるであろう感覚がつかめない。
 実際、私が日本人であるせいで、彼らからも、「特別」に一目おいて見られていて、というか警戒されていて、全く同じ仲間には入れてもらえないし、逆にラマたちからは、根拠なく親近感や尊敬を得ている。

 そして、フランス人の仏教研究者が回りにたくさんいるにもかかわらず、私は彼らと、研究過程の深まりや心情をほとんど共有しなかった。

 理由はいろいろある。

 夥しい仏教用語のフランス語訳がしっくりこないし、何が何に当たるのか詳しく考えるのが面倒。私の仏教の教養は主に「漢語」の世界であるからだ。フランス語で語ると何となく違和感がある。

 また、フランス人なら感心する、仏教の中の「おお、そういう考え方もあったのか!」的な部分の多くが私には「常識」の部分だったり、感心するツボが全然ずれたりしているからである。

 日本では、「禅の悟りとキリスト教神秘主義」とか、「親鸞とルター」とか、いろいろな「キリスト教と仏教」の比較研究に接する機会が学生時代に多くあったが、その二つは同等ではなく、「日本人の原風景である仏教」がベースとなって比較が試みられるイメージだった。

 フランスでは、フランス語で、山のように、キリスト教と仏教を比較研究する本があったのだが、「仏教のことは分ってるから」と思っていたので、つい最近まで、その類の本は全く読まなかった。キリスト教の知識を自分の中の「日本仏教」の教養とすりあわせていけばことが足りると思っていたのである。仏教に関する日本語の研究書はそれなりに読み続けているので安心感があった。

 ところが、ソリプシストの「神体験=自分は神であった」というような、キリスト教的には、曲がりくねった先の先にある孤絶体験が、「仏教の覚醒=解脱」に憧れてのめりこんでいるフランス人仏教徒的には、非常に共感できて参考になるらしいのである。
 これは思いつかなかった。ソリプシストを前にした私の反応は、「普通のカトリック的教養を持つフランス人」の反応と同じだったからだ。

 しかし、仏教シンパのフランス人の反応は違うらしい。

 彼らのとらえ方はこうである。

 ソリプシストが、「自らは絶対者である」と悟る時、この世は実体を失い、肉体も実体を失う。
 これは西洋的な物質主義からの解放である。
 仏教的な、この世は空である、という覚醒と似ている。

 ソリプシストが自分は神だという時、絶対者を他には立てないわけだし、自分以外の超越神の存在を否定するわけであるから、この世は仮の姿であり、真の実在ではないという仏教的悟りに非常に近い。

 という感じだ。

 正直言って、思いがけなかった。
 私にとっては、仏教的「梵我一如」と「一神教的文脈のソリプシスム」の差こそが見えていたからだ。

 ヨーロッパでは、特にキリスト教の側から、「仏教は宗教じゃない」とか「仏教は無神論」だとかよく言われることであるのだが、ソリプシストに対する反応を見ると、その根の深さがようやく分る。

 意外なのは、「精神」の扱いである。

 彼らに言わせると、西洋は物質主義に堕し、精神の実在を封印する。仏教は、すべて物質的なものは夢幻だととるのである。仏教は西洋物質主義へのアンチテーゼである。

 しかし、デカルト心身論(二元論ではない)の応用としてのフランス・バロック音楽をやっている私にとっては、「西洋近代」の人間主義は、それまでの精神主義から肉体を回復する過程でもあった。

 つまり、パレスティナの終末論とストア哲学に影響されて禁欲的に構築されてしまったキリスト教文化においては、肉体を罪のシンボルのように否定する文化が生まれて、頭でっかちの思想世界が生まれた。それに対して「非キリスト教」文化圏では肉体はちゃんと実体を持って尊重され、思想に組み込まれていた。

 と、そんな感じがしていたのである。

 実際、フランスのバロックバレー系のクラスでは、肉体の意識化ということが強調され、たとえば「私たちの西洋文化では骨盤を動かすということが封印されてきたけれど、本当はすべての部位を覚醒しなくてはならない」というような言説がスタンダードにあるのである。

 まあ、こういう言説は、日本でもあるので、それは、西洋「文化」というよりは西洋「文明」の結果としての機械文明によって「現代人が肉体を忘れてしまった」という危機感から来ているのだろうが、フランスのインテリ仏教徒の間では、それがまた逆転している。
 つまり、肉体にこだわる(延命治療だとか、健康産業だとか)悪しき「西洋文明」の縛りから逃れて、我々は、見かけの物質世界ではない真の実在に向かわなければならない、という精神主義に向かうのだ。

 まあ、この「西洋機械文明が諸悪の根源」で、それらをまとめて侮蔑する、という姿勢は、19世紀後半から20世紀はじめにかけて、高踏派のような少数の「精神貴族」にも流行ったものである。
 ソリプシストも明らかに、その系譜にある。

 ヴォルテールは「無神論は貴族的である」と言った。

 確かにキリスト教無神論は強者の宗教だという面がある。
 ロベスピエールはつまづきにつまづいたが。

 それで言えば、フランスのインテリ仏教徒たちは、日本仏教の親鸞の絶対他力とか、阿弥陀信仰にはがっかりするだろうなあ。

 フランスのインテリ仏教徒と仏教シンパの人たちとは、「無神論者がソリプシストの方向には進めないで、別の方向に進化した人たち」なのである。
 ストア派的無神論をアジア趣味で韜晦してみせた進化形だとも言える。

 (私のこのブログを翻訳ソフトで読もうとしているフランス人がいるので、あまり断言するのはやめよう。)

 余談だが、エリカがのめりこんでいるチェコのソリプシストについて検索して出あったこの仏教的な「覚醒」ブログは、「非人格的覚醒」を標榜している。キリスト教の神やあの世や最後の審判や復活は「人格=ペルソナ的」であることが特徴だ。「私は唯一絶対神である」というソリプシストの世界では、三位一体のような「関係性」がもちろん失われるのだから、非人格的になるのである。それが仏教的解脱に近いと見られる。おもしろい。

 (私がある日、自分が神だと気づいてしまうなら、女神の一人だとか、三位一体の神とかの方が好みだが。)

 後、余談をもう一つ。

 ソリプシストは、当然だが、死は怖くない。この世とあの世の区別はない。そういう意味でも仏教の解脱者と通ずる。

 問題は、病気である。

 死は困らないが、病気は困るのである。

 ソリプシストの論理から言えば、「病気」は存在しないはずだからだ。

 チェコのソリプシストは、結核で、壮絶な病を経てから死んだそうだ。 
 
 生身の肉体からの復讐を回避するための修行体系までもきっちり編み出した仏教の方が上手なのだろう。

 しかし、彼は、多分、苦しんだからこそ、魂の光の痙攣と言われる言葉を紡ぎだせたわけだ。

 この人が死ぬまで元気いっぱいでピンピンコロリ状態だとしたら、エリカが出会うこともなかったに違いない。

 

 

 

 

 
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by mariastella | 2009-03-09 03:11 | 宗教
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