L'art de croire             竹下節子ブログ

méditation cosmographique はキリスト教の曼荼羅なのか

 méditation cosmographique という言葉はGérard Mercator という16世紀の地理学者(というか地図学者)が作った言葉だ。

 大航海時代を経て、世界地図の作成が盛んになり、天体観測の技術もだんだん進んで、プトレマイオス天文学も浸透していたので、天球儀や天体観測儀が非常な権威を持っていた。

 中世キリスト教というと、天動説で古い、地動説を異端扱いにした非科学的なものだというイメージがあるかもしれないが、観測技術が進むに連れて、地球中心で宇宙を説明するために、後のすっきりした地動説とは比べものにならないくらいの複雑な理屈付けと天球図と惑星運行図ができていた。

 その天球図や世界地図を眺めてメディテーションするというのが、当時流行って、学校の教育プログラムにも入っていたらしい。

 神の啓示には2種類あり、一つが言葉による聖書での啓示、もう一つが、万物=被造物である。万物=宇宙に現れる神の永遠の力と神性は、宇宙の観察を通して知ることができる。

 ストア哲学などでは宇宙は人間を超越した秩序であったが、キリスト教においては宇宙も人間と同じ被造物であるから、人間によって秩序付け得るものであるし、そうすることで神の業を読み解く書物の一種である。

 15世紀くらいから現れた当時の典型的なコスモグラフィー(=宇宙図)には、黄道12宮の帯のシンボルはもちろん動植物も配されている。地球を中心とした天球の下には3人の人物が描かれている。
 真ん中に座っているのが「アストロノミア」という女性で、両手にそれぞれ、天文観測儀と天球儀を持っている。向かって右のとんがり帽子に髭の男が彼女の智の父であるプトレマイオスで、自著を開いている。向かって左に裸の女が立っている。これが「ウラニア」であり、時には「テオロギア」とも同一視され、彼女は、目が眩まないように手をかざして空を眺めている。

 当時のリベラル・アーツの象徴であるわけだが、裸の女が「神学」と結びついているところが意外だ。

 ここには、神だのキリストだの天使だのというキリスト教的なものは出てこない。
 あくまで、「被造物」の図であるからだ。世界地図の周りに配されているのもギリシャ神話の神々だったりする。

 そこに、ある仕掛けが施されている、と言ってもいい。

 この世界地図や宇宙図を眺めて神の業について瞑想することは、神を讃えることでもあるが、同時に、それは、神の視点で被造物を見ることでもある。

 世界地図というのは、天高くから見下ろした形になっている。後の航空写真のようなものだ。
 天球図、宇宙図というのは、さらに、宇宙を外から俯瞰する。
 それらを眺めることは、創造神が、自分の作品を鑑賞するのと同じである。

 だから、そこに神だの天使の姿がないのは理屈に合う。
 神は、外からの視線、超越した視線だからだ。

 「コスモグラフィーのメディテーション」というのは、それ故に、神を崇めながら、同時に人間を神格化する方法なのである。キリスト教では超越的なはずの創造神がキリストとなって受肉したことになっているので、神と人との相互のダイナミクスが可能になっている。だから、このようなメディテーションが存在し得るらしい。

 こういう経緯を考えると、私たちが小さい頃から見慣れている「世界地図」などというもの自体が、非常にキリスト教文化圏の産物であるように思われてくる。限られた地域の地図ではない「世界地図」という概念は、単に「西洋帝国主義の副産物」などではないのだ。

 世界の「読み解き」の伝統は、プトレマイオスもそうだが、ギリシャ的知の系譜の文脈上にある。

 これに対して、東洋の曼荼羅を「発見」したユングなどは、それをすぐれた「心理地図」と見たふしがある。
 
 しかし、西洋風の心理学とか精神分析学などは、実はキリスト教無神論の展開の一つである。

 それは、神や宗教感情を「意識の現象」であると捉えた。
 ユングは心理学的視点から東洋思想をとらえた。
 キリスト教世界では、何かというと「仏教は無神論だ」と決めつけられているのも無理はない。

 西洋的自我とか自己意識というのは、確かにキリスト教的なペルソナと結びついている。
 だから、自己意識を否定する流れはキリスト教を否定する流れと重なった。

 「私は存在する」という自己意識の優越というものは、「無意識」の存在を認めた瞬間に破綻する、とユングらは考えた。自由意志を持つ主体=自己という幻想は崩壊したと思ったのである。

 そこだけ見ると、なかなかコペルニクス的転回であるが、それははたして妥当なのか?

 たとえば、自己=主体が固定した実体であるというのは幻想だとしても、自己とは、常に特定の対象との関係において現れる文脈的な存在である、と解釈すれば、「ペルソナ」を維持したまま「自己幻想の崩壊」を回避することも可能なのではないだろうか。

 ユングは、せっかく幻想を打ち消したのに、結局は、意識の拡大を試みて、根源的意識とつながった本来の自己だとか自己実現だとか言い出した。しかも、道教の太乙(たいいつ)の概念を応用して、無意識を形成する根源的自己は、個人の生活史に関わる意識に立脚した自我よりも「上」であるかのような上下関係を導入した。無意識の自己は、「天子」であり、自我はその天子をないがしろにして権力を振るう「将軍」のようなものであるといったようなレトリックである。
 
 このへんが、ユング的な言説がニューエイジやカルトに利用されて、盲目的な「輝く本当の自分」探しと「自己実現」の勧めの言説へと展開していった理由のひとつだろう。

 「無意識」もまた、思考上のモデルであって、それが、たとえば精神医療上のツールとして有効に働くならばいいが、「自己実現」マーケットの商品となれば、自我と同様の幻想に過ぎない。

 私はキリスト教の三位一体論の方が、ずっとよくできているとこの頃思うようになって来た。

 神を三つのペルソナ化して関係性の神とすることで、人間もそれぞれの個性を維持したままでその関係性に参入することができるからだ。

 そこには神が上であるとか、父が上であるとかいうような固定的なものはないし、権力的なものもなくなる。
 自己とは常に複雑化していく自分史をかかえたままで、他の全ての被造物=世界=他者との関係性の中でのみその都度現れるものである。

 ユングが三位一体に聖母の女性原理を加えたとかいうのは意味がなくなる。
 三位一体は構造ではなく力学であるからだ。

 仏教の三身論とは本質的に違う。
 ユングが東洋思想と出合った道教の『太乙金華宗旨』の基礎を成す古代の三神(=泰一、天一、地一)の方は、仏教の三身論と明らかに通ずるのだろうが。

 ユングは『太乙金華宗旨』の翻訳の解説の中でパウロの回心体験などと、「意識の解放」体験を関連づけて、自己の拡大を語るが、そこにも、「より高い精神的存在」などという上下関係が導入される。

 無神論も「高貴な宗教」などと言われるが、そういう、「より上等なレベル」への「解脱」の幻想というのも、実存的「苦」の回避の方法論としてどこまで有効であるか、非常に疑問に思う。
 そういう世界では、そのような「高い境地」に到達した先達が崇められがちで、神格化されることもあるし、「最終解脱者」などと自称する「教祖」にだまされることすらあるからだ。

 ジュリアン・バーンズは、「自分は自由意志を行使している」という「西洋キリスト教文化」的な仮説を採用して生きていくことにした、という。その理由は、たとえ、「人間が自由意志だと思っているものは実は遺伝的、環境的、文化的な諸条件、あるいはそれこそ無意識によって規定されているまやかしである」と自覚したところで、実存的恐怖(病・老・死など)は消えないし、自分の人生はもっと生きにくく、惨めなものになるだけだから、というものである。

 私も今となれば、せいぜい「自由意志」を行使して、「被造物仲間」である他者や世界と「主体的」に関わって、何か柔軟で調和的な関係を築いていきたいという気分だ。
 
 曼荼羅を眺めて瞑想して意識を拡大したり、「より高次なレベル」で生きられるようにならなくても、せいぜい世界地図を眺めて、光に目がくらまないように手をかざしながら、関係性のネットワークと出会いを大切にしていければ、充分すぎるくらいだろう。
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by mariastella | 2009-03-22 09:21 | 宗教
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