L'art de croire             竹下節子ブログ

フランス・ユニヴァーサリスムの危機

 フランスのユニヴァーサリスム政策が、移民のゲットー化に現実などに上手く対応できていないからと言って、まるでその解決策の決定版のようにアメリカン・コミュノタリスムが浸透していくさまを見るのは我慢ができない。

 その決定版は、県別に、住民の人種の統計をとって、そのパーセンテージがその県の企業の労働者のパーセンテージに反映しているかどうかをチェックしようという試みである。これはアメリカ風アファーマティヴ・アクション以外の何ものでもない。

 フランスでは、住民は、誰でも個人の単位のシトワイヤン(共和国市民)だと見なされる。それが各種コミュニティより優位だと見なされる。だから、原則的には、あるコミュニティの中で(それがたとえ家族であっても)、伝統や文化や慣習やローカル・ルールによって「基本的人権」が侵されているという時は、その個人が国に訴えれば、国の介入を求めることが可能である。
 
 だから、「人種別の統計」も禁止されている。

 しかし、現実に、アフリカ系、アラブ系の名を持つ者には就職が不利だったりするという差別がある。

 昔私がサントノレにあったある日系プレタポルテのブティックの雇われ社長をしていた時、ドアに「フランス人女性販売員募集」という張り紙を日本人の出向社員が出した。次の日に、「社長」の私はj警察に呼び出された。
 この求人は2重に違法である。「フランス人」と国籍を限定したこと、「女性」と性別を限定したことである。
 「フランス語を話す人」というならば業務に必要なスキルであるからOKだ。

 実際には、黒人の男が面接にやってきても、「あなたは私たちの求めているイメージと合いません」と言って採用を断るのは自由なのだから、この法規制は、意味がないともいえる。
 それでも、「25歳から35歳までのスタイルのいいブロンド女性募集」なんていう張り紙を絶対に許さないフランスの建前を私は好ましいと思った。偽善的とかザル法といわれても、この方向性にしか私の求めるユニヴァーサリスムはないからだ。

 ところが、近く、現場での実質差別を解消するために、「白人か黒人かアラブ人の数の統計をとる」と言いだした。
 ここで、「白人」については、イタリア系かポーランド系か、ポルトガル系かと言われないのは、これらの「白人移民の子孫」は実質的に「権利の上で同化」していて差別を受けないからである。「アジア系」が話題にならないのは、アジア系はすでに強力なコミュニティーを作っていて自分たちで雇用を作っているケースが多くて社会問題になりにくいからである。私の中国人の友人はアジア食の工場や多くのレストランを経営しているが、求人がすべて「中国語コミュニティ紙上に中国語で募集」しているので、事実上フランスの警察にひっかからない。

 だからこのプランは、実質、「黒人」と「アラブ人」に、「救済」と称して、レッテルを貼る試みである。

 もっとグロテスクなことがある。

 このような「統計」の試みは、アメリカかぶれのサルコジ政権になってからあからさまになってきたが、すでに、2007年11月に、「違憲」であると、公に斥けられている。

 で、今回は、「あなたは白人ですか、黒人ですか、アラブ人ですか」というアンケートをとるのではなく、「何に属していると感じていますか?」とアイデンティティのsentiment(感情)について調査するのだそうだ。

 確かアメリカの国勢調査では、何系というのを記入する欄があって、しかし、それは強制的ではなかったと記憶している。

 「アイデンティティの感情」

 これは、ますますひどい。

 この国に住んでいる以上、私は市民として「権利と義務の同化」を享受している。
 そして、私の周りの友人たちも、「何系」であろうとその点でまったく波長が合っている。

 ハイブリッドな人たちも多い。彼らは国際人であり、それが力となる。

 フランスのユニヴァーサリスムのシンボルである「人種別統計の拒否」を守らなくてはならない。

 アメリカでは、今のところ、オバマ大統領を揶揄、諷刺することが非常に難しいそうだ。
 白人のサティリストは、人種差別者と言われることを恐れるし、黒人のサティリストも今のところ、オバマは隙を見せず「完璧」だから静観しているのだそうだ。つい最近 Jay Leno がようやく『The Tonight Show』取り上げたらしいが、どんな風だったのだろう。「ブッシュ大統領の頃が懐かしいよ」と彼は言ってたそうだ。

 ともかく、差別をなくすという立派な名目であろうとも、そのために、自由な個人を、利害が対立するグループのアイデンティティに閉じ込めたり、振り分けたり、差異性を強調するのは誤りであると私は考えている。

 フランスとは全く別の文脈だが、そして日本ではあらゆる意味でマジョリティの平均的日本人だった私が言う限りではあるが、私の育った頃の日本ではまだ「単一民族の日本」という神話が根強くて、よく見れば南方系だったり大陸系だったり、肌の色白や色黒にもかなりのヴァリエーションがあるにもかかわらず、みんな同じ日本人だと思っていた。同じ地域に何代も住んでいたような家系でもないので、ローカル性もあまり意識したことがない。だから、フランスのユニヴァーサリスムは、私には最初からとてもナチュラルなものであった。

 それでは、今、「異なるアイデンティティの戦い」の様子を呈しはじめているフランスで、ユニヴァーサリズムを立て直すのにはどうしたらいいかというと、一つは、キリスト教ユニヴァーサリスムの見直しがある。ユニヴァーサルを、「短期間に成果を出すべきプログラム」としてではなく、人間性を見据えた、決して完全には到達できないが、そこへ向かって収斂していくように絶えず回心を迫られる義務であると見ることである。これについては、最近Chantal Delsol 女史の優れた講演を聞いたので、また別のところで述べよう。

 もう一つは、ひょっとして、ソリプシスム? の精神かもしれない。
 ソリプシスムは無神論の一つの解決だと思っていたが、ユニヴァーサリズムの方法論にもなるかもしれない。
 ソリプシスムはエゴイズムの対極にある。エゴイズムでは、他者より自分の利を優先するわけで、これをコミュニティに広げればコミュニティ同士のエゴイズムが衝突しあう。

 しかし、たとえば、ソリプシストKが、ラブレターで、「君は私だ、君はすべてだ、だから君は神だ。」と宣言する時、それは愛する人を神のように崇めるというのではない。
 Kのソリプシスムというのは、全能感によるものではなく、「分解できない全体」感から来るものなのだ。

 ソリプシストのロジックでは、すべての人が神なのであり、自分なのであるから、たとえば、「俗人」を蛇蝎のように嫌う高等派などとは全く違う。ソリプシストの中では自己対他者は支配関係はもちろん、対立関係にもならないのである。

 K s'impose comme un Tout.

Kは常に、一つの全体として自分を開示する。
 こういう文学者や思想家は稀有かもしれない。むしろ、ある種の絵画作品や彫刻などに、ディティールの鑑賞と呈示を拒否して「全体」としてだけ迫ってくるものがある。

 私たちは、自分も、他者も、そのような「全体」として生きるべきではないのだろうか。
 肌の色や文化や生い立ちや健康状態などのカテゴリーで矮小化して微調整を測り、「自分の生活の質」を向上するためにアレンジメントしたり権力者の政策というお情けにすがったりするのは根本的に間違っているのではないだろうか。

 マタイによる福音書(22-36・・・)の中に、もっとも重要な掟は何かと問われたイエスが、まず、あなたの神である主を愛しなさい、と言い、続いて、それと同じように重要だとして、隣人を自分のように愛しなさい、と答えるシーンがある。

 これも、ソリプシスムの光をあてるという禁じ手を使うと、非常にロジックである。
 ソリプシストのロジックにおいては、神と、自分と隣人は、いずれも、「全体」であり、愛と尊厳においてきれいに並ぶからである。三者を切り離すことはできない。
 創造者である神の前では自分も隣人も平等であるから愛し合わなくてはいけないのではなくて、「全体」であることにおいて、自分も隣人も神であるからなのだ。

 私は、「人となった神」を説き、三位一体を説くキリスト教が、近代の原動力となった無神論を内包し、分身のように用意したと考えているが、ソリプシスムも実は、同じ分身のようだ。
 そこには、権力をふるう神とか、裁く神とか、祈願の成就を期待する神とかいう「他者性」はなく、関係性だけが残る。「inter-indépendance=相互独立」というやつである。独立と孤立は違う。

 ソリプシストKが自分のことを形容する言葉で、一つだけ、私とそっくりなのがある。

 それは「私は私の猫たちの奴隷である」という言葉だ。

 「無償でお世話させていただく立場」から決して解放されないという意味では、立派に奴隷だ。

 そして、猫こそは、一匹一匹はそれぞれ個性がまったく違うのにもかかわらず、それぞれが完全な「全体」という個体であることとは一体どういうことなのかを、実感として分らせてくれる存在である。

 分析的に理解しようとするとくらくらするKの世界だが、猫好きの一点で、分るかも、と思ってしまえる。

 
 

 
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by mariastella | 2009-03-24 23:41 | フランス
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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