L'art de croire             竹下節子ブログ

安易な東西比較言説は何とかならないのか

 「大恐慌」を前にして、時代の変遷や危機感を分析しようとする言説は、フランスでも日本でもたくさんあるけれど、日本であいも変わらず根強く見かけるのが、「明治時代ですか」と思えるくらいの型にはまった東西比較である。
 
 いや、明治時代の方が、欧にも米にも広く人材を派遣して勉強させ、欧でも、日本と同じ島国である英国と大陸国との違いを分析するなど、きめ細かい観察が政府レベルでなされていた。

 ヨーロッパと日本にメンタリティの違いがないなどとは言わない。
 その違いの深いところにキリスト教の影響があるのも認める。
 しかし、それは非常に複合的で逆説的なさまざまな経緯を経たものである。

 でも日本で言われるのは、何かというと、
 
 欧米は肉食文化だから(残酷で野蛮)とか、
 欧米は一神教文化だから(独善的で融通が利かない)とか、

 それに引き換え、日本は、草食文化で穏やかだとか、八百万の神だから原理主義でないとか・・・・

 そんなものが、ネオ・リベラリズムの弱肉強食メンタリティの批判としてすら持ち出されるのだ。

 戦後の日本は思考停止状態で経済の復興を最優先してきたし、冷戦以降のネオ・リベラリズムや拝金主義消費主義には、「欧米」と一緒に、なりふりかまわず突き進んできた。

 それがいったんおかしいということになると、いや、日本は本来はこういう国でなかったのに、「欧米」に汚染されたんだ、とか言い出すのは不毛すぎて、いつも脱力させられる。

 昨日も、『中央公論』4月号の座談会で自民党の有名議員さんが日本の「空気」について語る中で、こうおっしゃっているのを見た。


 「欧州のような狩猟社会は、一人ひとりがうまく野生動物をしとめなくてはならない競争社会です。対する日本は農耕社会ですから、やはりとっぴな言動は慎みます。・・」

 「一神教の世界なら、『それはモーセの教えに反する』とかなんとか議論になるけれど、対する我がほうは、あっちの山にもこっちの山にも神様がいて、場合によっては石にまで神さまがいる。・・・・」

 などなど・・・

 欧州のような「狩猟社会」って・・・・

 縄文人ですか。

 まあ、ヨーロッパの王侯貴族が趣味で狩をするっていうイメージはあるかもしれないけど。

 せめて「牧畜社会」とか言うならましだけど、それなら「野生動物をしとめる競争社会」(=自然に優しくない征服者メンタリティ)というのにうまくつながらない。

 新石器時代のヨーロッパにはすでに農耕があった。というか、農耕という文化を獲得してこそ、どこでも文化が発達したのだ。縄文人だって後期には稲作をしていたことが分っているらしい。

 競争があれば相手を殺しても勝とうとするし、権力や富は分配するより独占しようとする、などのメンタリティは、残念だが文化を超えた「人類」のメンタリティだと思う。それをどう矯めていくか、あるいはどう管理していくかは文化によって表現が違うけれど。

 欧米のユニヴァーサリズムには特徴が二つある。

 キリスト教における、パウロのユニヴァーサリズム(「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」ガラテヤ3-28)がその一つだ。人は、神の子としての兄弟関係によって、尊厳において平等である。

 他の「普遍」宗教も、救済において地縁血縁を問わないという点で民族宗教を超えて、万人に信仰の可能性を開いているという点では同様のユニヴァーサリズムがあるが、キリスト教においては父子関係の力動によって、そのユニヴァーサリズムの自信が一際大きく、宣教主義がある。

 それは、やはり「世界」を視野に入れるという野心のあったローマ帝国の版図に生まれて広がったこともあるが、そのメンタリティのベースとなった、ギリシャの都市国家ですでに、「コスモポリタン=世界市民」という概念があった。

 それが特徴の二つ目につながる。

 世界中にキリスト教の福音を伝えるという使命感が、後に、たとえばフランス革命での人権宣言も「フランス人」用ではなく、人類への「福音」としてとらえられたし、マルクス主義も、疎外された人間の解放という普遍的「福音」としてとらえられた。

 ユニヴァーサリズムは、「尊厳における平等」がすべての人類に適用できるという確信においてユニヴァーサルであるが、「その実現の場はユニヴァーサルの坩堝であるヨーロッパである」とヨーロッパ人は思っていた。

 カント、フィフテ、ヘーゲル、シェリング、フッサールからパトチカまで、みな、ヨーロッパはユニヴァーサリズムをユニヴァーサルにする使命がある、と思っている。

 そういうヨーロッパ中心主義のユニヴァーサリズムがある。

 実際はパウロにおいても、ユニヴァーサリズムは信仰上の約束であり期待であり、「この世」においては、人間の本質的平等を納得してその実現に向けて努力する責任がある、という以上には至らない。

 しかし、ヨーロッパのユニヴァーサリズムが、キリスト教と拮抗して非宗教化しはじめた頃から、それはイデオロギーとなり、政治的プログラムとなった。そのモデルとしての「民主主義」などが、あまねく世界に輸出=押しつけるべき「福音」となったのだ。

 ユニヴァーサリズムの方法論やモデルやツールにおけるヨーロッパ中心主義の見直しと、グローヴァリゼーションの時代における平和共存の鍵としてのユニヴァーサリズムの有効性とは、分けて考えた方がいいと思う。

 ヨーロッパの思想は、キリスト教ユニヴァーサリズムとその非宗教化の歴史の波に洗われ、必然の展開となった無神論とニヒリズムを超克しながら練成されてきた。そこに、科学技術主義と資本主義という現代の世界スタンダードとなった「西洋文明」がセットになって生まれてきて、日本のような国は、サヴァイヴァルのためもあってそれを採用している。洋才は洋魂と分かちがたいのだが、そのラディカルな受容にあたって、あえて「和魂洋才」を唱えたのは、その時点ではすぐれて戦略的だったわけだ。 

 でも、それから100年以上経って、西洋近代もポスト近代へと移り(日本もその時点ではすでに同舟だ)、地球の上では南北格差が広がり、環境危機まで加わり、混迷の時代を迎えている。自己の繁栄のためになりふりかまわなかった先進諸国にその責任の多くがあるとしたら、日本もそれを免れないだろう。

 それなのに、日本は本来は農耕社会で穏やかな協調社会で、地球に優しいアニミズムとか、自給自足の平和な江戸時代とか、それに比べて、「狩猟社会」で「一神教」の欧米は・・・なんて、どの口で言えるんだ、と思ってしまう。
 
 政治家でも、文化人でも、宗教家でも、そういう安易な「東西比較言説」が蔓延しているのだ。

 一方、「西洋思想」をせっせと輸入して説いている日本人学者の多くの言葉は、それはそれで、それらの思想が、西洋思想の長い葛藤的文脈の中でいったいどういう位置にあるのかという洞察を抜きにしたものなので、何のことやらよく分からない。

 困ったものだ。






 
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by mariastella | 2009-03-25 22:24 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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