Kとの付き合いの方向性がだんだん固まってきた。
オペラや建築についてのKの論考を読んでいるうちに、Kの限界も分ってきたのだ。
今、K を論じる人はほぼ皆無といっていい。
私が大学教師ならゼミで取り上げ、院生に研究させるのもいいんだけど、などと思っていた。
Kの残したcorpusは膨大で、これまで誰も、彼を思想史や哲学史に位置づけることがなかったので、紹介書や研究書というものもない。しかし、Kは一種の怪物であるから、思想的に強靭さのない若い学生などがはまり込んだら、はじき飛ばされるか、変に共振しておかしくなるかという確率は高い。
私の見たところ、そしてエリカとも話し合ったところ、
K には神学的教養はあった。
精神分析や無意識については、伝聞知識しかなかった。
仏教については、ショーペンハウエルのバイアスのかかった理解しかなかった。
言語を介するコミュニケーション型アートに対して不信感があった。
と言えそうだ。
Kの醍醐味は、やはり、ソリプシスム自体についての分析と論考である。
私は、ソリプシスムというのは、はじめは無神論かニヒリズムのヴァリエーションだと思っていたが、次にユニヴァーサリスムの一つの形だと理解し、さらにミスティシズムのヴァリエーションだと理解するようになった。
古今の神秘家と呼ばれる人は、神秘体験は言語化できないものだと言い、「神秘体験」後の教えや行動は残すが、神秘体験そのものは文字通りミステリーの領域である。
そういう意味では、Kは、それを論理化する稀有の人である。
はじめは、K が、ある「神秘体験」=啓示体験によって、自分が神であると認識した人であり、そういう視点に立つ哲学というものを覗きたいという好奇心に私はかられていた。しかしK にとっての「自分=神=他者」という体験は、ロジカルな帰結であり、それを基に哲学していくのだが、絶え間ないフィードバックがあって、その理性主義そのものが一番「狂っている」といえば言える。
無神論の系譜の紹介の仕事が終わった後で、ソリプシスムの系譜を調べてみたい。いろいろな宗教の教祖や「聖人」や神学におけるソリプシスムを調べるのは新しい観点になる。
ソリプシスムは「思い込み」からくる出発点ではなく、宗教的洞察による到達点の一つであるからだ。
Kは、膨大な未踏ゾーンにかかわらず、対話可能な存在となりつつある。