L'art de croire             竹下節子ブログ

映画『セラフィーヌの庭』他数本

 今年度のセザール賞を総なめにした感のある映画『セラフィーヌの庭』(マーティン・プロボスト監督)を見た。

 実在のプリミティヴ派の画家セラフィーヌ・ド・サンリス(1864--1942)の伝記映画だ。。

 セラフィーヌが、悲しい時は森に行って木に話しかけるといい、とか、動物にも植物にも魂がある、などと語り、サンリスやシャンティの牧歌的な風景がたっぷり展開するので、最初はなんだかエコロジー・テイストの映画だなあと思った。今のブームに媚びてるんじゃないかとも。

 しかし、掃除婦をしながら幻視的な画を描きつづけたセラフィーヌも、彼女を発見し世に出したドイツ人の画商Wilhelm Uhdeも、この時期のフランスに生きた人たちの例にもれず、2度の戦争に遭遇するという運命に翻弄されたのだから、いつの世も自然の美しさよりも人間の愚かさの方が勝っているのを思い知らされて深刻だ。自然や人生を破壊するのはいつの世も、文明ではなく人間の暴力だ。

セラフィーヌという人は、17歳からの20年間を女子修道院の掃除婦として過ごしたようで、その鈍重な体つきに似合わぬ澄んだ声で祈ったり聖歌を歌ったりできるし、修道女たちとも生涯いい関係があったようだ。その絵も聖堂の薔薇窓などにインスピレーションを受けたのだろうと言われている。ビンゲンのヒルデガルトの幻視画と同じで、オリバー・サックスなどが見たらきっと偏頭痛による眼球内映像だと言いそうだ。

 この手の眼球内幻視を再現する画家にもう何年も前に会ったことがあるが、その人にとっての「啓示」への忠誠意識と、第三者への伝達性の配慮との兼ね合いはいつも微妙である。アーティストが自分を単なる仲介者として位置づけるか、啓示する創造者と自己を重ねるかによって、目つきまで変わるので、「鑑賞させていただいている」ほうからのアクションを拒むことにもなるからだ。

セラフィーヌの時代はこのような幻視画アートが認められていなかったから、セラフィーヌには傲慢な所はない。書いているときのシャーマン状態と、普段の自己卑下ぶりは乖離している。彼女にとっては、彼女の才能を始めて見出してくれたウィルヘルムとの関係だけが自己評価を劇的に変えるのだ。

そしてウィルヘルムは彼女を単に画家としてという以前に、初めて人間として、存在していることを認めて対等に扱ってくれた人でもある。


セラフィーヌとウィルヘルムが出あった時、彼女が50歳前、彼が40歳前という感じで、第一次大戦後に再会した時には彼女が63歳、彼が53歳である。

彼女が最初に彼に才能を認められたときに画面に音楽が流れるのがすごく印象的だ。
人は人に価値を認められたときに音楽を聴くのだ。

フランスを去るウィルヘルムからずっと描き続けるようにといわれた言葉を信じて、13年後の再会の頃には、セラフィーヌの絵は、「上達した」とウィルヘルムに言われるものになっている。

その後の数年間は、彼の援助を受け、大作を次々とものにする。

 「人を愛したことはあるか」と聞かれて、好きな人がいたが失恋した、でも絵を描いていると、

「別な風に愛する」

ようになるんだ、とセラフィーヌは答える。
ウィルヘルムはホモであるが、むしろそれ故に彼はセラフィーヌの真の友になろうとしたし、セラフィーヌにとっても彼は神のような存在になった。

ウィルヘルム・ウーデはピカソやブラックを早く評価した人で、プリミティヴでは関税人ルソーも見出した。ドイツ人といっても、ユダヤ系のポーランド人で、パリに出てきた時は、クロソフスキーやバルチュスの父親である同世代のピエール・クロソフスキーを頼ったという。

アーティストの世界の国際的な連帯はこの頃も強く、ウィルヘルムも、第一次大戦の時は身一つでフランスを追われるように去ることを余儀なくされたが、第二次大戦の時は、ユダヤ系であるにもかかわらず仲間のアート評論家たちの庇護を受けてフランスに留まり、戦後の1947年にパリで死んだ。

 プリミティヴの画家の評価について、絵は魂で描くものか、知性で表現するものかなどと言う論議がいつもなされるわけだが、いわゆる「真・善・美」というくくりは、アートにはできない。その逆は「偽・悪・醜」であるが、善悪は美醜に関係ない。では「知」と「愚」はどうか、「無垢」と「穢れ」はどうか「秩序か無秩序か」というと、アートは力動の中に生まれて存在の根に触れる効果の一種なのだからこれも二元論的に分けられるものではない。

このウィルヘルムという人は、若い頃は、ギリシャ-ドイツのメランコリーがゴチック的縦方向のアートを生み、ローマ文化は満足感をベースにした水平方向のアートだと論じていたそうだ。晩年には、ゴチック・メンタリティというのはフランク族のゲルマン精神とガロ・ロマン精神の交錯から生まれたものだという見解になり、ピカソはゴチック、ブラックはロマンだと言っている。

ゲルマン民族のドイツと、ラテンのローマはもともとかなりメンタリティが違うのに、ドイツが「神聖ローマ帝国」を継承したという歴史のせいで、キリスト教文化から展開したさまざまなアートの分野では、一枚岩みたいな部分もある。たとえばイタリア・ドイツ系バロック音楽が同系なのにフランス・バロックが別物であるように、はやくからケルト・ゲルマン・ラテンの混ざったフランスとは一味違うことが多い。だから、ドイツ系の人の方がかえって、民族間メンタリティの違和感の洞察が深くなるのかもしれない。イギリス系のアングロサクソンの人は、「島国」メンタリティが別に醸成されるせいか、こういう悩み方はしないのかもしれないが、どうなんだろう。

セラフィーヌを演じるヨランド・モローはもともと芸達者で有名だが、たとえばセラフィーヌが教会の聖母マリアのチャペルで、供えてある蝋燭のロウを画材としてそっと拝借するシーンなどでは、一瞬の目の動きで、彼女の信仰と心やましさとが入り混じった心理を鮮やかに描き出したりして見事である。

セラフィーヌがウィルヘルムに「恋をしてる」と思わせるのは、彼にしきりに神様を信じるかとか聖母マリアはいくらなんでも信じるでしょう、とかしつこく知りたがるシーンでも分かる。修道院に長くいて、教会の絵も歌もみんな好きなセラフィーヌには、ユダヤ人無神論者(それは彼の同性愛とも関係しているはずだ)の存在など想像もつかないというところだ。

何かがアートとして成立するには創作者と鑑賞者の双方の意図と歩み寄りが必要だし、相手の世界に気楽に踏み込めるタイプ、自分の世界のドアを閉じるタイプ、招待はしたがるが決して相手のうちには行かない人、その逆の人、といろいろ考えられる。そのあたりの流れを引き出して調整する存在として画商だとか美術評論家だとの役割は大きい。

今日本に着いたところ。

到着便の中で『スラムドッグ$ミリオネア』『ベンジャミン・ バトン 数奇な人生』他数本の映画を見た。

後者は長くて敬遠してたので、飛行機向きだ。最後に赤ちゃんにまでかえるっていうのがなあ。最初のシーンと、図柄としては対照的だが論理的には非対称である。胎児までは戻らないみたいだし。体は大きいまま能力が赤ん坊にかえるのかと思った。おとぎ話なんだが、医者の説明とか、SF 的つじつまあわせもあると楽しいのに。フランスではこの映画をめぐって実在する「奇妙な病気」のいろいろっていう特集が結構あったので楽しめたが。それにしても老人顔の赤ちゃんが差別されずに老人ホームで生きていけるのは皮肉な話だ。
恋人のバレリーナ をやるケイト・ブランシェットは表情が時々カルラ・ブルーニに似てるなあと思う。

インドものは、インドもの特有のエネルギーとテンションの高さ、貧富の差の極端さ、構成のうまさ、非常にうまくできた映画だとは思うが、「絶対に私の人生を変えない映画」のカテゴリー入りである。

とりあえずこのへんで。
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by mariastella | 2009-04-15 18:10 | 映画
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