L'art de croire             竹下節子ブログ

「Our Body展」スキャンダルのその後

  パリでやっていた人体の不思議展が禁止された。
 これまでにこのブログに書いたことをおさらいしておこう。
 まず、昨年9月22日の記事。

 >今朝のラジオで一つ驚いたことがある。

 リヨンでプラスティネーションの展覧会があり、人を集めている、という話だ。

 これはドイツの誰かのテクニックで、人間の体に樹脂を注入して常態で保存した標本で、それを輪切りにしたりして、展示する。

 私は10数年前に、横浜のみなとみらいの中でこの「人体の不思議展」を見た。
 怖いもの見たさ、ののぞき趣味もあったが、何かシュールで、あまり怖くなかった。

 その後数年前に、東京で、中国で製作したという同種の展覧会を見たが、これはアジア人なので何かリアルで、どこかの強制収用所で本人や家族の許可なしに剥製にしたんじゃないかとか思えて気分が悪かった。

 で、この展覧会、アメリカのどこかでやったときに、倫理的なクレームがついたそうで、まあ、問題ないとなったらしい。ヨーロッパでもどこの国だかで、開催中止を呼びかける運動があったそうだ。

 私が驚いたのは、それについての解説が、アートはどこまで許されるかとか、アートと倫理というの問題だったからだ。プラスティネーションについても「アーティストは」なんたらとか、作品がなんたらとか言っていた。それで引き合いに出されたのが、先日も書いたが、サザビーズで飛びきり高価な値がついた Damien Hirst の作品だった。確かに、彼のも動物のホルマリン漬けなのだが・・・

 日本で、プラスティネーションの紹介やら解説の記事を読んだ時、それはアートだなんて語られていなかった。科学見世物、というか、科学展示会、で、見本市会場というか、よくても博物館展示という感じで、「美術展」とか、美術館とか、芸術とかの枠では議論されてなかったと思う。

 まあ、人間の臓器だの死体だのを展示して見る、ということ自体が際ものというか、冒涜的な感じなので、それを正当化して罪悪感を消すためか、啓蒙的、科学教育的なテイストと、新しいテクノロジーの価値とか、ことさら散文的なバイアスがかけられていた。アートであるかないかなんて切り口は私は知らなかった。

 これは、ミュージアムという言葉が日本語では美術館と博物館の2種類の訳があることとも関係する。博物館なら「科学的(歴史的も含む)」な価値のあるもの、めずらしいもの、がOKで、美術館には芸術的価値のあるもの、という合意がある気がする。

 ルネサンスのヨーロッパでは、新大陸からの文物はもちろん、キリンでもインディアンでも黒人でも肉体的ないわゆる「奇形」者でも、みんな「珍しいもの=価値あるもの」として、展示されたり、貴族やブルジョワが「Cabinet de curiosites」というコレクションにおさめたりした。

 こういうコレクションは、後の分類学とかの基礎ともなったので、好奇心といってもただの悪趣味ではなく、科学精神もあったわけだが、これが、キリスト教的な秩序や世界観におさまりきれない部分を収容していたのだろう。

 ミュージアムもほとんどは、個人のコレクションの発展したものだ。

 昨年はじめに上野の国立博物館でエジプトのミイラ展を見て、その時も、ミイラをCTスキャンして、中まで見せよう、というので、最新のテクノロジーが強調されていた。まあ、エジプトのミイラは考古学的価値や歴史価値もあって、人類遺産って感じはするから、それでOKだけど、どこの誰か分からない現代の中国人のおじさん、なんかが樹脂を注入されて縦割りされているなんて展示会は、考えてみると、どういう理屈をつけて「見せる」んだろう。

 確かに冒涜的な感じがするこんな途方もないものは、「科学」でなくて、「アート」とした方が、欧米では通りがよいようだ。
 「倫理に反する」というクレームも、ある意味で西洋的であり、それに対抗するには、「いや、科学的展示ですから」というよりは「いや、コンテンポラリー・アートですから」と言った方が通りやすいんだろう。

 では、あれは、アートだったのか?

 この意外な発想の違いはけっこう本質的な何かを秘めている気がする。

 聖人の聖遺骨の展示やコレクションの伝統が、ルネサンス以降も、偉人(学者・アーティスト・哲学者・政治家など)の遺骨だの体の一部の保存に変わって残っているヨーロッパというコンテキストとも切り離せないと思う。


次に今年の3月26日の記事。

 >前に書いた( http://spinou.exblog.jp/9765172/ ) 人体標本展がリヨンに続いてパリで開催されている。

 「アート」ではやはり無理だったらしくパリの科学技術館や人類博物館に売り込んだらしいが、いずれも、倫理的な理由で断ったらしい。それでも私的なスポンサーはついて宣伝はしているが、その後どうなったのかと思ったら、やはりその「人体」が中国人のものであるということで、毎年6000人から7000人と言われている死刑囚の者ではないかと疑問を呈する人が出てきた。

 私も日本で見た時、最初のドイツ由来の展覧会と違って、アジア人の標本には、嫌な感じがして、チベット人じゃないのか、と思った。

 フランスでの議論に、中国人は先祖を敬う伝統が根強いから、医学の献体も少ないので、このような標本(「万全の信頼を寄せての献体」ということになっているらしい)の出所はあやしい、というのがあった。

 ドイツのプラスティネーションは今でも健在で、人体サーカスとして演出を加えている。それもグロテスクではあるが、一応「アート」とか「表現」の線を貫いているのだ。最近、自分の身体を永遠に残したいと遺言して、名前を公表してプラスティネーションの処置をしてもらったドイツ人の写真記事を見た。だから、ばらばらにされるのではなく、本人の肖像みたいなのが同定可能になっている。
 まあ、埋葬が主流の文化において、自分の身体が腐るのがいやだ、という気持ちはあっても不思議はないので、無料できれいに処理してもらえれば、と思う人も出てくるのかもしれない。

 キリスト教といえば、プラトン風の「肉体は魂の牢獄」、という身体蔑視を思い浮かべる人もいるだろうが、そして中世ヨーロッパなどでは実際そういう部分もあったのだが、実際は、その根幹が「肉体」と結びついている。神が人に受肉したというのと、死の後にキリストは肉体ごと復活したという根幹である。

 だからキリスト教では、肉体蔑視と言っても、サクス(肉)とソーマ(体)を分けて、肉の方は、人間の条件である原罪、つまり欲望に屈して神から離れるので律するべきものであり、それに対して体の方は、聖霊の働く場所であり、聖性へ、つまり神との一致へ向かう。そこでは体は魂の牢獄どころか、神を宿す「神殿」ですらある。

 プラトンのギリシャには同時に肉体賛歌の文化もあったわけだし、ヨーロッパでもルネサンス以降の社会におけるキリスト教の非宗教化の過程では、やはり、人間=肉体の称揚=神格化があったわけだ。だから、その名残がある今のフランスでも、「神を冒涜」するようなアート表現はかなり過激でも別に問題にならないのだが、人間の体の展示には倫理的問題を感じるらしい。

 これがいわゆる「聖人の体(腐らないパードレ・ピオの遺体とか)」の公開などであれば、それはまさに神格化しているのだから、崇敬であって冒涜にはならない、という論理が通るのだが、単に「教育的見世物」として人体を公開するのは非常に抵抗があるわけである。
 ヨーロッパでもたとえばムッソリーニのような独裁者を殺してその死体を「さらしもの」にするというような野蛮なシーンはついこの前まであったわけだが、そういうトラウマも含めて、「人体の不思議展」に強い嫌悪を表明する人が後を断たないのである。

 文化的文脈というのは不思議なもので、好奇心にかられて日本ではプラスティネーションも人体の不思議展も見てしまった私は、パリでは忌避感がある。

 生命活動を失った後の人間の体に向ける視線には、いつも、世界観が現れる。それは「種」としての人間観であり、自己をどう認識しているかということでもあるのだろう。


 次に、4月5日の記事の後半。


  > 同じ「体」つながりで、しつこいようだが、パリでやっている例の「人体の不思議」展は3月20日に、 「人間の遺体は尊重と尊厳と礼儀を持って扱われなければならない」というフランスの法律に違反するということで、死刑反対のNPOなどが中止を申し立てた。
 インタネットの宣伝サイトでは「アーティスティックで教育的なもの」とあり、反対派は、「センセーショナルであり、科学的ではない」と攻撃している。このへんも微妙に歯に衣着せた論点のずれがある。

 主催者側の弁護士は、展示は科学的側面が重要で、目的は人体を désacraliser (=非神聖化)することである、これによって、フランスにおける臓器ドナーが増えるのに寄与できるかもしれない、などと言っている。

 こういう風に言ってしまえるのは、フランス社会が長い間、カトリック教会の影響によって体を管理されてきたことから「解放」されたという「ポジティヴな戦い」についてのコンセンサスがあるからだろう。

 表現の自由は守られなくてはならないし、冒涜罪、冒聖罪は、あってはならない。ということで、「人体」をめぐる「モノ化」への抵抗を、人体の「神聖」化=過去の遺産という図式を使って排除しようという論理だろう。

 判決は4月9日に出るそうだ。

 この展示は、15ユーロとフランスにしては高く、結構人を集めてビジネス的には上手くいってるようだ。

 人体が開かれたり切り刻まれたり、処理されているのを見てみたいとか際物を見てみたいという気持ちは、普通の人の普通の死が家庭などから消えてしまって、若さと健康至上主義である今の世の中においては、ちょっと不思議な衝動でもある。

 他者の「遺体」を「眺める」という行為には、それなりの意味づけが必要だ。
 その意味付けのないところで、ただ、金を払えば好奇心を満たせるというだけでは、居心地の悪さが残るかもしれない。

 カトリックなどでの聖人の遺体信仰では、「神聖化」が隠す方へ向わずに、「神聖化=神聖なモノ化」になっている。それは類推呪術から受け継がれてきた「病の治癒」などという「意味」の流れの中で呈示されている。

 死を生に統合するやり方や、遺体をどう処理するかは、あまりにも人間的で、同時に文化的な指標なので、観察の興味は尽きない。<

以上である。

 というところで、その後、日本に行って、こっちに帰ってきてみたら、展覧会は4月22日の夜に仮処分で閉鎖され、その後4月30日に正式に中止命令が出たそうだ。

 4月21日の判決では「良俗に反する」ような訴えが認められた形だったようだが、30日の判決では、特に、主催者側が、展示されている遺体の身元や本人の生前の同意を証明できないというところが、人権侵害の疑いとなったらしい。本人の同意のない中国の死刑囚の死体だという訴えに反応したようだ。

 フランスで、法律が、一般の展示会を中止するのは、非常に稀なケースである。
 前衛アートへの許容が高いから、アメリカやイタリアやイギリスなどで冒涜的だとされて中止や非展示に追い込まれるような作品でも、ほぼフリーパスである。その辺のことは、以前ポンピドーセンターでの『Traces du sacré』展の記事でも書いた。

 マルセイユやリヨンではすでに公開されたこと、日本で私自身も見ていること、も含めて、けっこう複雑な気分だ。イスラムでは遺体の公開は禁じられているからパリのイスラム・ロビーが影響しているのではないか、とちょっと穿った考えも頭をよぎる。

 これに関するブログを見てみると、案の定、キリスト教の聖人のミイラの公開はどうなんだ、と書いている人がいる。
 人権という点で考えると、聖人に認定されたような人は、すでにそういった聖人の遺体や聖遺物信仰のある環境で生きていて、自分も死んだらみなさんの祈りを神に取次ぎます、と言明したり、聖人になりたい、などという積極的意識を持っているのが基本だから、遺体の公開もOKという同意があったようなものであると思われる。それでなくとも、普通は教会の決定に従順であるという意志を示しているのだから、聖堂内陳列というか、崇敬の対象になっても、まあ、信仰の問題、せいぜいフォークロアの問題だ。

 人体標本展は、教育的科学的と銘打っても、大学医学部の標本室の出来事ではなく、大宣伝をして、高い入場料もとって、関連グッズも販売したりして、完全に商業行為なんだから、人々も別に賽銭を上げたりガンをかけたり拝みに来るわけではない。で、だから、「あやしくない」=教育的というのは、確かにどこかおかしい。

 どんなものでも宗教色を消せば、ただち無味無臭で無害な商品になるのかと言えば、逆に、宗教という口実がないことでかえって突出する実存的な冒涜の香りも立ち上ってくることがある。

 きっと、人間の体というものは、生きている時も、死んでからも、自分ひとりのモノではなく、情動をともなう関係性の中でしか存在しないものなんだろう。

 開かれ、スライスされ、標本にされ展示されているモノとしての体が、いったいどこから来て、何もので、どこへ行くのかという問いを抜きにしては、見ることを共有できないというフランスの感覚は、ひょっとしたらかなりフランスらしく健全なものなのかもしれない。
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by mariastella | 2009-05-07 21:54 | 雑感
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