その人は、泥酔して、全裸になった。
そうっと服を着せてあげるだけでいいのに、裸を見ただけで、通報した男がいた。
この男は、裸の男から、子々孫々まで呪われよ、と言われてしまった。
「その人」とは大洪水の後の人類の父(?)ノアである。
システィナ礼拝堂の天井画の「ノアの泥酔」の場面はいつも私にとって最高に気になるものだった。
ノアだけでなく、通報者の息子も、服を持ってきた息子たちも、全員裸だからである。
Michel Masson『La chapelle SIXTINE-La voie NUE』 Ed.Cerf
http://arts-cultures.cef.fr/livr/livrart/lartx53.htm
が、これでもかこれでもかと、秘密を解明してくれる。
まず、聖書によるとノアは、公共の場所で裸になったのではなくて天幕に入って裸になったのに、ルネサンスの絵は場面を田園風景に映す伝統があった。
しかし、ミケランジェロの絵でのノアの体のポジションから見て、解剖学に精通していたミケランジェロが表現したのは、ノアが実は寝込んでいなくて、意識を保っているということである。その証拠に、ワインの杯もデカンターもちゃんと邪魔にならないように考えて脇に置いてある。
ここでは、くわしいことを書くつもりはない。
ノアの泥酔シーンは創世記のエピソードをある意図を持って慎重にパロディ化した再構成なのである。
そこにはインセストや同性愛の香りもたたえた性的怪物の姿も顕わになる。
Daniel Arasseの「超解釈」主義を継承したMichel Massonの驚くべき荒業が、すばらしい整合性と説得力を持って展開していくさまは、圧巻である。
しかも、これほどに、ユニークな解釈をしても、それがヨナを通じて神が伝えたいメッセージであるという啓示的宗教的ディメンションを全く失わないどころか、全体としてはちゃんと信仰告白になっているところも、ヨーロッパのキリスト教美術とその鑑賞の歴史の底力を見せつけられる感がある。
どんな過激なことを言っても冒涜的にもならないし、美術批評としても成立しているというすごさだ。
天地創造のシーンで、「白髭の年寄り」の姿の神はクリシェでありパロディであり、真の神の姿は、太陽や月を創造した後で植物創造に向う神の後姿からはみ出して存在を主張する「尻」なのである、なんていう解説も、驚きだが、ミケランジェロが何一つ、偶然や無意味なものを描いていないということは納得できる。
しかし、システィナの天井画は、ダヴィンチの絵画全作品と比べても圧倒的に情報量が多いから、壮大なストーリーができそうだ。わくわくモノの『システィナ・コード』、書けると思う。