L'art de croire             竹下節子ブログ

VESAK2009 その1 仏舎利到着

 今日は待ちに待った(?)仏舎利到着セレモニー。

 バンコクから朝6時半に到着した仏舎利は、駐仏タイ国大使の車で直接 Vitry sur Seine に運ばれた。
 私がついた時には、ちょうど、仏教センターに向けて行列が始まっていて、通りは通行止めになっていた。
 50人くらいの焦げ茶の僧衣の尼僧中心のグループが歌うように先導し、色とりどりのアオザイを着た腰の細い若い4人の美女が、花びらを撒き、盛装した浄行師に続いて、金ぴかの輿に鎮座する舎利容器が運ばれ、その後には、タイ、ラオス、チベットなど、各派の僧が経を唱えながら、その後に又50人近くの黄色の僧衣の尼僧が続く。香が焚かれ、蘭の花が掲げられ、華やかだし、また、どの宗教の行列にも似ているような、デジャビュの世界でもある。

 センター入口では、結局招待状のチェックもなく、セキュリティは大丈夫なのか、とこちらが心配したくなる。
 セレモニーのあるホールに入るには靴を脱がなくてはならない。タイル張りの床の中央にモケットが引いてあってその上に座布団代わりのクッションが並べてある。

 舎利容器は4mくらいの天蓋付台の上に置かれた。金ぴかの仏像授与も行われた。

 これはプレス用の資料にもあったが、インドからタイに仏舎利が分けられたのが仏教暦の2442年で、フランスに来た今年が2552年、どちらも、逆から読んでも同じ数字ということで、因縁が深い、とされている。

 セレモニーのくわしいことについては又別のところで書く機会があると期待して、今は要約だけする。

 マジョリティはアジア人、それも旧仏領インドシナ系、ならびにタイ人という感じだが、いわゆるフランス人の僧も少なくない。スリランカ僧は精悍な感じで、インド人の釈迦もこんな感じだったかなあ、と思ってしまった。

 で、フランス人の仏教連合代表のコメントに、この出来事は、ヨーロッパに仏教が根付いた現実の反映だとあった。

 佛舎利については、「我々すべての師である仏陀の身体的臨在」という言葉が使われたのが印象的だった。
 フランスはライシテの国だから、明日の市役所での展示の時はどうか目立たないようにしてください、という注意も忘れなかった。まあ、仏教は「無神論」だとか哲学とかと言われているから、ライシテの谷間をすり抜けられるのだろう。オバマの就任演説でもオミットされてたぐらいだし、ね。
 
 釈迦の遺物の実在は、決して、過去の遺物ではない。星の光はたとえ何億年昔に放たれたものであっても今の我々を照らすのである、とコメントは続く。聖遺物の力とか、人々を一堂に集める力なのである、と。

 そして、タイ、ベトナム、ミャンマー、スリランカの合同のお経、ベトナムのパゴダのグループのお経、韓国仏教、曹洞宗、チベット仏教、と続く。仏教のインカルチャレーションの仕方って、正教に似ているなあ。国別の色が濃い。座ったままのグループが多い中でチベット仏教のグループはたって五体投地から始めた。
 曹洞宗はこの国での歴史の長さもあって、フランス人の方が多く、フランス語のお経もあった。

 確かに、仏陀の舎利を前にするとエキュメニカルになるというか、各国仏教の宗派がまとまる感じで、こういうのが聖遺物の力だと言われると、なんだか、来年に公開が決まったトリノの聖骸布を見に行こうかという気になった。

 全体としては、なんだか、私は、仰々しいセレモニーを見ていくだけで、これは偶像崇拝だよな、とか、呪術だよな、と思えてきて、しらけてくるタイプなので、終わった時はすっかりアグノスチックになって出てきた。
 感動とか、やっぱり本物はすごい、とか、名古屋の日泰寺では見られなかったものをたっぷり見られて好奇心を満足させられて嬉しいとかいう感じもしない。

 仏舎利はタイの黄金寺で10バーツで拝めるのと同じようなプレゼンテーションで、クリスタルの容器の底をよく見ると、古い歯みたいなのが数個入っているかなという感じだ。うーん。

 カトリックの聖人の聖遺骨の方が、誰の骨やらは知らないが、いかにも骨、明らかに骨、というのが多い。
 それを見慣れてる目には、この仏舎利は、まあ有機物の感じはするが、火葬された後の骨というよりやはり歯っぽいかなあ。それもあやしいものだ。タイの「本物」だって、本物の本物は、塔頂に封印してあって、舎利容器の中で開帳しているのはコピーというか、分身じゃないのかなあ。もう、「本物」という概念自体が曖昧である。カトリックのミサで、無酵母パンが、儀式の後では「キリストの体」に化体するというのと似たような感じだ。

 私の好きなのは、やはり、宗教でなく人間だ。

 リジューのテレーズもこんな感じだったかも、と思うような若くてかわいい、一途な感じのアジア人の尼僧がいて、ちょっと見には委員長タイプで額に青筋が浮かびそうなんだが、お経を聴いているうちにどんどん目がうるうるしてきて、終いには滂沱の涙を流しているのを見ると「萌え」という感じになる。また、真剣に、静かに五体投地を続ける老婦人を見ていると、これがほんとの old woman's faith なんだなあと思って、敬虔で安らかで温かい気持ちにさせられる。

 昼はおいしいビュッフェがふるまわれて、いろんな人と話せた。

 午後はメディテーションがあった。女性が「集中の中にこそ心の平穏があります」的な案内をフランス語で語り、それが不自然な気がした。こういう時には、背筋まっすぐ、座禅慣れしてるようなニューエイジ的エコロジー的な仏教シンパのフランス人が生き生きとして見える。

 一番おもしろかったのは昼休みに路士棟という中国語の先生とした話だ。

 この先生によると、中国共産党の指導者には結構「隠れ仏教徒」が多いそうで、仏舎利信仰も内部供覧として極秘になされているそうなのである。

 一番人気は、なんといっても1987年に1000年ぶりに発掘された陝西省西安市の西120kmにある法門寺の釈迦の指骨である。これがわざわざ共産党本部にも運ばれたこともあるらしい。

 史記にも記述があるなかなか由緒ある舎利なのだが、私は、釈迦火葬御の最初の8基のストゥーパはともかく、アショカ王によって再び細分された8万4千基(そのうちの19塔が法門寺をはじめとする中国にあるものらしいが、少ないといえば少なすぎないか)となると、なんだかすでに、「信じられない」と思ってしまうので、「南京の頭骨(玄奘のじゃないのか?日本にも分骨されたはず・・)」も含めて、好奇心が充分に沸いてこない。

 でも、路士棟先生によると、法門寺の「指骨」は、4つ見つかったものを鑑定して一つが本物で3つがコピーだったという。本物は100%本物だ、と強調する。台湾からも巡礼が来ると。

 で、関連のyoutubeアドレスを送ってくれた。

 http://v.ifeng.com/v/his/20090506/3794/index.shtml#0057d73c-6d4f-4eca-9191-f1c41b787234

 とか、 

 http://v.ifeng.com/v/his/20090506/3794/index.shtml#6e36f815-79ec-45d9-b64d-83e2d716d28d

 こういうの。

 その辺にいっぱいあるので、興味のある人はどうぞ。
 「多少奇異的故事」とか、「世界第九大奇跡」とかあって楽しそうだ。
 真骨は「真身舎利」と言うらしい。

 で、見てみると、確かに髄の溶けた後の中空の骨様のものなんだが、わざとらしい筒状で、内側に北斗七星のマークがあったり、やっぱあやしそうである。

 youtube で発掘の様子や鑑定の様子を見ていると、カトリックの聖遺物鑑定みたいで、けっこう即物的であり、日本の「聖なるもの」封印文化とはだいぶ違うぞ、これならDNAを採取しかねないな、わくわく、と期待したのだが、日本人の書いた紀行ブログを見てると、指の骨にしては大きすぎるということで今では「指状」舎利と言われているとか、他の3つも本物と一緒にあったから本物と同等なんですと言われたとか、やはり、はっきりしなくて、あやしい感じは拭えない。

 路士棟先生は、仏教の深さに比べると他の宗教は表面的だ、としきりに言っていたが、誰でも自分の極めたものが深く思えるので、表面的にしか知らないものは表面的に見えるんではないだろうか。

 彼は、普通の人間の体は殺生をして生きているので朽ちるが、完全解脱した釈迦の体は、罪を免れているから微生物からの復讐を受けずにこうやって残っているのだ、それが智恵の証明だ、と言い出したので、私はヒマラヤやアルプスの永久凍土で発掘された遺体はどうなるんだとか、エジプトのミイラはとかどうなんだ、とか、『カラマーゾフの兄弟』に出てくる聖人の遺体が匂ってくる話まで繰り出した。
 彼は釈迦の慈悲を強調したが、私はもし梵天勧請がなかったら、釈迦だって自分で成仏して終わりだったんじゃないか、と言ってしまった。彼は「それも方便、これも方便」と言う。

 仏教徒にとっての懐疑主義はどういう形態をとるのかという話もした。

 キリスト教において、神の実在に懐疑を抱く「逆啓示」現象があるように、仏教において、「解脱はないとか、輪廻転生はないのではないか」という懐疑主義の伝統はないのだろうか。このことについては前に義妹と話し合い、結局、仏教には超越というものがないから、その主の懐疑論は内在しないという話になったのだが・・・

 先生には、もともと仏教は実存的苦を逃れるための智恵だから、と言われたのだが、それではやはりストア哲学と大して変わらないという気もする。キリスト教がストア哲学を凌駕してしまった理由の一つにはまさに「肉体」の問題があるのだけれど。

 そもそも、生老病死は、本当に苦なんだろうか。生老病死を「苦」とするコンセンサスによって社会のシンボル体系ができていて、それを崩されるのが最高の危機であるから、自殺者はどこでも恐れられ忌避されるのではないだろうか。「特権の放棄」は秩序にとっての罪なのである。

 フランス人は仏陀のことを、我らの父、みたいにコメントしていた。
 キリスト教的なバイアスがかかってないか?

 結論は、釈迦の偉大な教え、智恵を継承して我々も解脱を目指そうという、オーソドックスな話なのだ。
 でも、私は、釈迦の死後2500年とか、イエスの死後2000年とか、そんな何千年も、教えが星の光のように届いている存在が偉大だというよりは、何千年もそういう教えに希望を託して試行錯誤しながら生きてきた多くの人々の集合的な努力の方がすごいと思うし、いとおしくも思う。

 目の前のケースに入った粒が骨であろうと、何であろうと、とにかくそういうものに託する人々の思いの方に興味がある。
 人とつながる人はみんな神の子、という言葉を適用すれば、私もまた神の子である自信はあるんだけど。

 
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by mariastella | 2009-05-16 06:53 | 宗教
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