L'art de croire             竹下節子ブログ

信仰の言葉と科学の言葉-仏舎利の追っかけを終えて

 この仏舎利シリーズを興味を持って読んでいてくれた方(いるのか?)に、最終日のヴァンセンヌの森のパゴダへの行列風景のヴィデオを紹介する。

 http://www.youtube.com/watch?v=qepfo6pXhNw
 http://www.youtube.com/watch?v=r46Aj4lEohM


 何となく日本のネットを検索してたら、今年の2月に新宿文化センターで「仏舎利新宿展」というのが開催されていたことが分った。

 こういうの。

 http://www.fpmt-japan.org/japanese/relic/index_relics.htm

 日本にいたら見に行ってただろう。

 でも、解説を読んでちょっと脱力した。

 「高い精神的境地にあった方が亡くなられて荼毘に付された時に現われる、真珠のような宝石、それが仏舎利です。それはその方が智慧と慈悲を円満し、その心がこれ以上求めるもののない悟りを得た状態にあることを示しています。」

 とあり、そのような舎利は超常現象で増えるとか、見ただけで非常な幸福感に包まれるとかある。

 まあ、私が3日間も仏舎利の追っかけをしたにも関わらず、非常な好奇心を上回るほどの幸福感を得られなかったのは、信仰が足らないせいだろうから、それはいい。
 でも、見たところ、さすがに、明らかに骨ではない仏舎利を説明するのに、荼毘の後で現れる宝石、と言っちゃうだけでいいのか。聖体パンがキリストの体だと言うためのレトリックほどの努力の跡も見られない気がするのは、これも私の信仰心の欠如なんだろう。で、この新宿展では、あなたはどうしたら幸せになれるか、みたいなのがテーマのようだった。週刊誌の裏とかでよく見かける開運グッズ、や霊力を封じ込めたストーンだのとあまり変わらない。

 宝石状の仏舎利の由来については、私はすでに

 http://spinou.exblog.jp/10166766/  

 の中で触れ、そこでも引いた
 
  景山春樹『舎利信仰』その研究と史料 1986 東京美術

  『仏舎利の荘厳』奈良国立博物館編 昭和58年 同朋社出版 

 の2冊の本によって、好奇心を満足させている。

 つまりこの種の仏舎利の増え方については、解決がついているのである。
 超常的なことはない。

 それなのに、2009年の展示会の、説明には全然反映されていない。

 信仰の言葉と科学の言葉と、業界の言葉、布教の言葉、いろいろな言葉があるのだろう。
 狂信というのもあるから、あまり分け入ってはいけない危険ゾーンもあるかもしれない。

 こうなると、サレジオ会のC神父みたいに、「科学的」に執拗にこだわって、トリノの聖骸布の真偽を追って半世紀以上、という人のディスクールの厳密さと凄さにあらためて感心する。究極の信仰グッズを、聖職者が、信仰から距離を置いて実証的に追いかける、それが不可能じゃないというのがすでに奇跡的だ。

 http://www2.ocn.ne.jp/~g-compri/mpage1.html

 http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=213957X

 やっぱ、来年はトリノだなあ。

 夕べ、ロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演の『天使と悪魔』の映画を観にいった。
 ヴァチカンやローマの教会(大掛かりなセットだそうだけど、ヴァーチャルで見たら同じだ)を大画面で見る迫力はあるし、観光映画として刺激的だ。

 こういう浅薄な内容でこれだけ忙しくて複雑なものをよく作ってるな。

 ここでも科学と信仰が二元論的に語られていて、つまり弾圧と陰謀と復讐みたいな単純図式になっていて、ルネサンスに本当に何が起こっていたのかなんて一顧だにされない。

 地球が丸いなんて古代からずっと言われていた、というか、観察されていたことなんだけど。
 錬金術なんかでも太陽中心主義はずっと根底にあったから、地動説によって全然ぐらつかなかった。

 「異教」的なるもののとり扱いも、あいかわらずのアメリカン・テイストで、科学者や学者が神を信じるのかどうか、なんて迫られるのもアメリカンだなあと思う。

 映画でたっぷり見られるヴァチカンのアナクロニックなコスプレ・ワールドも、この3日間、仏舎利の追っかけで見たきらびやかなアジアのコスプレ・ワールドの後なんで、それなりの感慨は覚える。

 人は、きらきらと着飾り、権威を大きく見せようとし、さまざまなプロトコルの網を張り巡らせるが、その信仰の対象になっているものは、智恵とか覚醒とか愛とか希望とかいう眼に見えないものだ。その一方で、創始者のよすがとなるものも崇敬する。しかし、それはただの骨片だったり、無酵母パンに託した「肉」だったり、遺体を包んだ布に残った影のような曖昧な形だったりする。その落差のどこかに智恵が宿っていると思いたい。
 その落差が、力動を生むわけでもあるのだから、「聖遺物」は、超常的な宝石なんかじゃなくて、黒ずんだ骨とか、古い布についた血のしみだとか、宝飾を拒否する即物的なものの方がインパクトがあると思うのだが。
 その意味で、「聖体」が小麦と水だけのせんべいとか、「聖血」がワインだとか、物理的成分がはっきりしてるものも、いっそ好感が持てる。

 信仰のエッセンスって、言葉にする時と、形にする時と、どちらによく残るんだろう。いや、そもそも、言葉や形の中に残存するものなんて、すでに信仰の力が散逸した影やエコーみたいなものなのかなあ。

 


 

 
  
 
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by mariastella | 2009-05-20 19:13 | 宗教
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