ソリプシストKのための覚書その7
エリカは今アメリカに一時帰っている。
彼女はKの全集を出している途中のフランスの出版社に交渉したが、印税をもらえなかった。 チェコで、新しい手稿が発見されたということで、アメリカから戻るとすぐにチェコに行くそうだ。 不況のせいで、普通の翻訳の仕事も少なく、彼女の経済状況は悪くなっている。 Kを紹介する本を何か書けばそれを日本に紹介する仲介を私ができるかもしれないと言ってみたら、とんでもないと言われた。Kの作品の彼女のフランス語訳(詳細な註付)を重訳する時間も力量も私にはないし、彼女は、自分の仏訳からの重訳で利を得るつもりも全くないと言った。 そうは言っても、私にはチェコ語は読めないし、チェコの全集もすべて彼女が編集校訂注解したものである。 1991年に39歳で死んだ彼女の夫(フランス人)の死因はエイズだそうだ。そのあたりの事情も複雑そうである。 私は、このところKの著作を読めていないので、これ以上書けないのだが、Kのソリプシズムが、ユニヴァーサリズムの究極の形だというのはますます確信が持てて来た。 この頃、何を読んでも、ああ、Kのソリプシズムはまさにこれなんだ、と思うことが多い。 パリで今、聖母訪問会の修道女の手芸刺繍作品の一部を見ることができる。 聖母訪問会の創立者はサン・フランソワ・ド・サル(フランシスコ・サレジオ)とジャンヌ・ド・シャンタルという「霊的カップル」で、この二人の関係に私はとても興味があり、『聖女伝』(筑摩書房)で書いたことがある。彼らが死んだオーヴェルニュの聖母訪問会は、美術館もあって、修道女たちの数世紀にわたる珠玉の作品が展示されている。今回のパリの展示会のことで、聖母訪問会のサイトをネット上で訪ねたら、最初のページに、サン・フランソワ・ド・サルの言葉が載っていた。 "La Foi est un rayon du Ciel, qui nous fait voir Dieu en toutes choses et toutes choses en Dieu." Saint François de Sales 「信仰とは、天から射す光であり、すべてのうちに神を見せてくれ、神のうちにすべてを見させてくれる。」 すべてのうちに神を見る、だけなら、汎神論的でもあるが、神のうちにすべてを見る、というのとセットになると、それは、K のソリプシズムの境地に近い。 新約聖書のヨハネの手紙1-4-12にある言葉、 「いまだかって神を見たものはいません。 私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちのうちに留まってくださり、 神の愛が私たちのうちで全うされているのです。」 というのも、それっぽい。 この最初の文は、今読んでいる Maurice Bellet の 『Dieu, personne ne l'a jamais vu』という本のタイトルにもなっている。この人は、神父で神学者で精神分析学者であり、30年前に『Le Dieu pervers(倒錯の神)』という本を読んだことがある。その頃はカトリック神学で精神分析学アプローチが結構流行っていて、私には新鮮に見えたのでいろいろ読んだのだ。で、30年後、彼がどうやって信仰を生きているのかと言えば、いや、小冊子ながらすばらしい腕の冴えである。 その中に、人が人と連帯するところに生まれる躍動の中では、すべての人が「無限」を共有する、というようなことが書いてある。 C'est, de façon décisive, ce qui se tient au coeur des relations humaines quand elles sont présence partagée, écoute réciproque, soin, partage, amour, et allant jusque vers l'ennemi et l'etranger. Au coeur de cet entre nous se tient tout l'insaisissable, qui fait que chaque humain est pour tout humain l'infini, et non ce qu'il peut saisir, par savoir ou pouvoir, y compris sous prétexte du bien ou de la vérité.(p77) みんな違ってみんな特別、違いが個性、などという安易な言説の逆である。 Maurice Bellet の語るのは、神や神々が消えてしまった世界で、人間がどのように「死の論理」でなく「生」に向かっていけるのかということであり、神という言葉がかって担っていた機能を問題にするが、特定の神を掲げるわけではない。 しかしこれは、Kのソリプシスムにおける、私もあなたも、「すべて」であり「永遠」であり、支えあう「神」なのだというのにすごく似ている。 この辺のニュアンスは、「神って愛だよね」みたいなクサイ言葉とか、それを揶揄するようなレベルにいては到底分らない。 私がこういうことを話したら、エリカは反論しない。だとしたら、Kのソリプシスムの神学に関する私の理解や予感はそう外れていない気がする。 Kと同時代のチェコの文学をちょっと読んでみようと思ったら、つい、脱線して、ロシアのアンドレーエフの『キリスト教徒』という短編に沈没した。証人として裁判所に呼ばれた娼婦が、自分はキリスト教徒でないから聖書に手をおいての宣誓などできないし、良心も持ち合わせていないから良心にかけて誓うこともできない、と言い張り、裁判官も検事も弁護士も陪審員も聖職者もみな、あきらめてしまう話である。洗礼を受けているからキリスト教徒だろうとか、イエスを信じてるならキリスト教徒だとか、みんなが何とか彼女のアイデンティティを押し付けようとするのに、彼女は、実にシンプルにすべての欺瞞をなぎ倒すのだ。絶対に古くならない名作である。
by mariastella
| 2009-06-05 04:34
| 哲学
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