L'art de croire             竹下節子ブログ

聖遺物追っかけ、今度は仏舎利じゃない。

 今日は Notre Dame des Victoires で、リジューの聖女テレーズの両親の列福(昨年10月)以後初の公式典礼と聖遺物公開+崇敬というのに行ってきた。

 『ふらんす』(白水社)7月号に、知られざるフランスの自然文化遺産という連載で、リモージュの七年に一度という珍しい聖骨披露の記事が載っていた。頭蓋骨に直接接吻できるというのはなるほど珍しいと思ったが、聖遺骨そのものは、どこの教会にでもよくあるし、見えるものもあるし、半世紀前までは、どこの家庭にでもちょっとした聖遺骨が額なんかに入っていたものだ。

 「聖とグロテスクが一体になった、類まれなる儀式だった」と、ジャーナリストの羽生さんという方がコメントなさっているのだが、聖遺物好きで何十年も追っかけをやっていて、最近はネット動画でのなまなましさにかえって毒気を抜かれてしまった私には、このように「類まれなる」と形容されること自体が、何か新鮮だった。

 で、ここら辺で、どこの馬の骨?だか分らない「中世」の聖骨ではなくて、新しいだけに由緒正しい聖骨披露に行ってみよう、と思い立つ。今回の列福を可能にした奇跡の認定は、2002年に重篤の呼吸障害で生まれた新生児の奇跡の治癒に関するものだった。これからは列聖に向けて、次の奇跡が待たれているから、効験とかご利益の点では一番勢いのある(気がする)時期の旬の聖遺物なのである。

 透明ケースの中で、厨子みたいなのが開かれていて、そこに、娘である聖女テレーズのデザインによる聖遺物入れ。といっても、聖女が自分より百年遅れて両親の骨が崇敬されるなどと思ったわけではなくて、彼女の残した刺繍などからモチーフをとったもので、白百合、白薔薇、などが連なった、テレーズ好みの少女趣味である。
 その上の透明の部分にまた、二つの小さなガラスケースみたいなのが並んで、二人の骨のかけらが収まっているが、茶色っぽくて、あまり新鮮な感じではないが、全国で見られるテレーズの遺骨もこんな感じである。

 だから、聖骨に直接接吻というのは不可能で、ケースの上からでも私の見る限りさすがに誰もしていず、ケースに指をじっと当てて黙祷しているというのが基本形のようだった。

 パリの副司教によるミサは、オルガンとトランペットのソロとで、なかなか感動的なものだった。Vitryの仏教センターでの木魚と銅鑼もそれなりによかったが、幼いテレーズの信仰心の対象となり、ローマに巡礼に行く前に訪れて祈ったというこのパリのバジリカ聖堂の持つ「地」のオーラと呼応して、ユイスマンスの気分が分るくらいに審美的な満足を得た。

 驚いたのは私のすぐ前に、ベトナム人らしい母親と7,8歳の男女の子供がいたのだが、その眼鏡の男の子が、Nintendo DS を手にしていて、最初から最後まで、ずっと、画面に見入ったまま、それこそ渾身の、といった感じでゲームに熱中していたことだ。ミサでは、式次第によって、着席したり立ったり(跪く人もいるが)という姿勢の変化があるのだが、この男の子は終始、座りっぱなしである。

 これを見て、

 「なに、このおかあさん、あまりにもリスペクトというものを教えなさ過ぎじゃないか」
 「それとも、ゲームしてていいからという条件で無理に連れて来たのか」

 とか思って驚いたわけではない。(多少は思ったが)

 この子が、あまりにも、自分の世界に入っていたことに驚いたのである。

 周りには、荘重なオルガンの音、トランペットの音、香の匂い、ぎっしりと埋まった人々、なぜか分らないが泣き崩れている人までいる。ゼリー・マルタンは乳ガンで亡くなったので、ガンの人にも特別の祈りがある。それでなくともここは「不思議のメダイ」のチャペルと並んだパリの聖母御出現の巡礼スポットだから、普段から、濃密な敬虔さが垂れ込めている場所だ。特別の場所での特別の典礼で、特別な思い入れをしている人もたくさんいるだろう。

 もし、サイコ・エネルギーをキャッチする霊能者なんかがいたら、「おお」っと金縛りにあいそうな何かが漲っている。

 子供なんて特に、感受性が強そうだしな・・・・

 それが、この子は、微動だにしないで(いや、時々、ゲームの進行が上手くいったらしい時は「やったー!」みたいなガッツポーズが出ている)、ヴァーチャル世界に没入だ。
 それとも、いつもこういう場所にばかり連れられてきてもう好奇心なんか使い果たしたのか?

 感性とか感動の世界って、奥が深い。テレーズのような子供もいれば、完全に自分ワールドの子もいる。それとも、幼いテレーズがたえず対話していた聖母だの幼いイエスだのとの世界だって、ヴァーチャル世界に入り込んでで身じろぎもしない子供の世界と、通じるところがあるのだろうか。

 さて、話を戻すと、こういう普通の夫婦が「カップル」として、一組で聖化されるというのは、実は非常に珍しい。
 ルイとゼリー・マルタン夫妻の前には、2001年に列福されたイタリア人夫妻がいるだけで、その列福式には、4人の子供のうちの生存者(当時85、82、77歳)が出席したという異例のものだったが、4人とも、修道士とか司祭とか修道女とか在俗修道女とかである。だから当然孫はいない。

 マルタン夫妻はといえば、9人の子をなし、4人が早く亡くなり、残った5人の娘が全員修道女。特にカルメル会には4人がそろうなど、そこだけ見ていると、母親が早く亡くなった後で、なんだか正常な家族関係が築けないで、みんな思春期神秘熱に伝染したんじゃないかと思ってしまうが、まあ、実際はもう少し複雑である。
 そして、では、聖なるカップルというのは、「子供を神に捧げたカップル」ですか、それを模範にしていたら人類は滅びるのでは、とも考えたくなるが、この辺も、実は、いろいろおもしろい。

 ルルドのベルナデットもそうだが、若くして「聖母を見る」などという「恵み」を得た者を、聖女として認めるかどうかというのは、なかなか難しい政治的教育的判断を迫られるものである。これは「奇跡の治癒を得た者」も同様で、せっかく「神の恩寵」を得たのに、長生きして詐欺犯として捕まるとか、結婚離婚を繰り返すとか、あまりにもひどい展開があると、「恩寵」は希望でなく不条理のシンボルになりかねない。
 教育的でない、とか言う以上に、「意味の期待」としての信仰の根本を揺るがしかねないのである。

 それは子々孫々についても言えることで、せっかくの「大聖人」の五代後の子孫が大量無差別殺人犯になったというのではまずいだろう。まあ、たいていの場合は、法外な「恩寵」を得た人の多くは生涯を神に奉献する気持ちに駆られるようなので丸くおさまる。 長じて、「聖母を見たといったのは嘘でした」とカミングアウトするようなケースは非常に少ない。どんな奇跡や恩寵だって、個々の人生の文脈の中で進化していくものだから、無難におさまるところにおさまることがほとんどなのである。

 これに対して、孔子廟などでは、孔子の両親や先祖はちゃんと祀られている。さすがに親を敬う儒教の精神で、孔子を世に出したすべての祖先はそれだけで敬われるべき存在だ。だから儒教的な文脈では、聖人の「子孫」の方はどうなろうと原則的には聖人の聖性のハンディにはならない。

 キリスト教では、聖人の親といえども、別に聖性のDNAを子供に伝えたわけではなく、あらゆる命はすべて、「神からの賜物」なのである。だから、聖人の聖性を讃えるのは神を讃えることであり、特にその親に感謝して敬うということにはならない。

 そんなキリスト教が、はじめて、聖女の両親をまとめて聖人の列に加えようという試みとして、マルタン夫妻のケースはここ15年(つまり徳を認められた尊者となった後、福者となるために奇跡を待っていた間)非常に私の興味をひいていたのである。

 しかも、聖女テレーズと言えば、生前目立たずに夭折したのに関わらず、今や教会博士の称号さえ獲得した異様に評価の高いビッグ聖女で、近代カトリック界のアイドル的聖女だ。
 そしてその名は、ノルマンディはリジューのカルメル会と切っても切れず、リジューの聖テレーズと通称されるほどだ。リジューはもちろん大巡礼地として栄えている。
 父のルイ・マルタンはめでたくリジューで死んでいるので、リジューの司教区が列福手続きなどを扱ったが、問題は妻のゼリーである。彼女はアランソンで死んだし、フランシスコ会の第3会に属していて、アッシジの聖フランチェスコに特別の崇敬の念を寄せていた人だ。で、ゼリーがカルメル会の聖女に取り込まれるのはフランシスコ会が快く思わなかったとかいう噂も流れた。

 そういうカトリック教会内のいろいろな事情もあったのだが、とにかく、二人のカップルとしての(つまり、神の愛を結婚の秘蹟の愛のうちに証したものとして)列福はようやく実現した。

 二人の亡くなったのは、1877年と1894年だ。

 一方、一足先にカトリック教会初の「カップル」列福を果たしたイタリアのQuattrocchi 夫妻が亡くなったのは、1951年と1965年で、夫は社会派弁護士、妻もビジネススクールを出ながら赤十字活動をするなど、具体的ではっきりした活動記録がある。この二人が、子供たちが現役のうちに早々と列福されたことから考えても、マルタン夫妻の列福が必ずしも楽な道でなかったことは推測できる。

 まあ、子供が現役の教会関係者というのと、子供が聖人だというのは、いろいろな意味で違うが、それにしても、カップルをカップルとしてまとめて聖化しようという最近の動きは、一体、教会はそれに何を託そうとしているのか、人はそれに何を求めるのかという問いを引き出さざるを得ない。

 教会の言いたいことは比較的よく分る。

 結婚というのは、夫と妻という二人だけの愛したり愛されたりというだけの関係性だけではなくて、神の愛を地上で示すという使命を帯びたものであるべきだということだ。

 要するに、昔は、ほっておいても、結婚は「本人同士」だけのものでなく、社会的家族的経済的などのいろいろな縛りやしがらみがあったので簡単には解消できなかったが、今はそういう絆が弱くなったので、「本人同士」だけに任せておくと、あっという間に解体していく。人と人の「はれたほれた」などというものは所詮はかないものであり、簡単にエゴイズムのぶつかり合いになる。で、そこに、双方が絶対にリスペクトできる「神」のような超越価値を立てて、愛を常に更新しなくてはならない、という話である。
 
 この日の説教では、

 「我々の唯一の富というのは、地位でも金でも典礼でもありません。それは我々の生命です。そしてその生命というのは私たちに属するものではありません」

 と言う言葉があって、一見逆説的だがよくできているなあ、と思った。

 そして、

 こうしてめでたく福者の列に加えられた聖人候補たちは、

 聖遺骨ケースに並ぶのである。

 墓から掘り起こされ、

 骨を分けられ、

 茶色く、はかなく。
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by mariastella | 2009-07-13 02:43 | 宗教
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