私は Michel Onfray が無神論にかける情熱が理解できなかった。
アメリカではあるまいし、今のフランスで、あれほど熱心に無神論を唱えたり、反キリスト教論を展開する理由が分からなかったのだ。しかも、議論の種が古い。1905年の政教分離法の前ですか、と言いたくなる。カトリック攻撃も、十字軍やガリレイ裁判や異端審問が悪いと責めんばかりで、何だかダン・ブラウンばりに無教養というか、第二ヴァチカン公会議も、現在のフランス司教会議の立場とかも知らないのか、と脱力する。
ところが、先々週の『Le Point』誌のサド特集で、彼のコメントが載っているのを読んで、ああ、この人って、こんな人だったんだ、と思った。
彼は、サドが無神論の嚆矢で近代哲学の始まりなどではなく、むしろ封建時代の最後の哲学者で、アポリネールやブルトンらに持ち上げられたせいで、安易に「古典」の地位を獲得したことをに批判的だ。カミュの『反抗的人間』などの方を評価している。Michel Onfray は、「表現の自由」の名のもとに人間の尊厳が傷つけられるのが間違いだと思っていて、物書きとは一定の義務を負う者だと信じている。
好感度アップだ。口が悪いと思っていたが、ピュアな人なんだね。
サドは有力貴族だったので、家族が願い出なければ、ほとんど罪が野放し状態だったというところはジル・ド・レも似たようなものだ。ただし、サドの時代の一部貴族の性的放縦というのは半端ではなかったし、彼は、ジル・ド・レと違って、実際に人を殺すことはしていない。閉じ込められて、しかし「表現の自由」を得て花開いたのだが、だからといって、何でもありというのは変だと思っていた。文豪の裏小説みたいなものならそれなりの含羞というか、罪悪感もあって別だが、権力者の確信犯っていうのは、全体主義の芽を秘めていると思う。
ナポレオンはサドを口を極めて罵っているが、ほんとに真逆のタイプだ。
サドは無神論を自称していたが、冒涜冒聖に快楽を見出していたので、聖なるものにはすごくこだわった。神を無視したのでなく、例えば十字架を穢すことに至上の歓びを感じていたのだ。聖なるシンボルはどれも大切な小道具だった。でも、汚辱や破壊やタナトスの魅力をことさら言い立てるのがそんなに上等なこととは私には到底思えない。サドは、今では、原文をすべてネット上で読めるし、古典文学にも入っている。それを近代がタブーや偽善から解放されていった進歩と見るのか、サドがその侵犯を快楽としていた「聖なるもの」そのものがなくなったことで失われたバランスの意味を考えるべきなのか、難しい。ヴァーチャルであればどんな犯罪のシミュレーションでもOKなのかという、今日のモラルの問題にも通じるだろう。