L'art de croire             竹下節子ブログ

floccinaucinihilipilification

 無神論的言辞に注目して「西洋思想史」を見ていくと、結局すべてを見ることになる。
 無神論のにおいのしない思想も哲学も宗教もないと言っていいくらいだ。

 それは、無神論を考えることは神について考えることだからだ。
 普通に、伝統や習慣通りに宗教っぽい儀礼をこなして、忙しくサヴァイヴァルしている人たちは神のことなんかあまり考えない。考えるとしたら、「神さま、どうぞ何々してください」という、取引の対象だか殿様としてくらいである。
 神がいるかどうかなどと考え始める人たちは、不可知について考えているのである。

 「死」について考えていると言ってもいい。

 無神論のにおいというのは死のにおいなのである。
 
 人間が多少なりとも実存的な問いを抱き始めたら、「死」が出てくる。

 神を考えるのと死を考えるのは、同根なのだ。

 死だけが、人間が想像できる「永遠」だからだ。他の人間の死を見て、少なくとも自分の生きているうちにはその人と会えないことを認め、「死=人間の永遠の消滅」という認識が生まれる。

 死者は語らないし、目にも見えない。死は永遠とか無限に属するらしい。
 誰でも死ぬのは確実らしい。しかし、生きている時(有限の世界にいる時)はそれを体験できない。

 神の姿も見えない。神も永遠や無限に属するらしい。
 死ねば神の姿が見えるらしい。生きている間は、神を体験できない。

 こういうパラレルな状況がキリスト教的死生観にあって、「この世の死=神の国での永遠の命」というところに落ち着いた。

 ところが、近代の合理主義とか、科学主義は、アレゴリーを認めない。
 この世の生は、意味が無く、単なる偶然の積み重なりである。
 永遠とまで欲張らなくとも、生物の種も惑星にも太陽系にも宇宙にも寿命があって、そのスパンの中で考えるだけでも、個人の生などは、絶対の無意味でしかない。floccinaucinihilipilification。
 
 これがポストモダンのニヒリズムであり、「神の死」である。
 
 問題は、

 「神」が死んでも、「死」は死なないことだ。

 神の存在証明や非存在証明に、神学者や哲学者や数学者まで躍起になったことがあるが、それも下火になった。「死」の存在証明とか非存在証明はなされなく、いまや永遠の命だとか神とセットにできなくなった分、タブー化したり、余計に不気味な物となっている。「死」が解決できないのだから、「神」にあっさり退場してもらっても困る。まあ、昔ながらに、宇宙とか自然とか、代替物も遠慮がちに復活しているのだけれど。

 自己正当化や他者を裁くための口実として持ち出される「神」たちはまた別物である。
 しかし、無神論者たちは、こういう「神=偶像」を暴くうちに、「死」を孤児にしてしまったのだ。
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by mariastella | 2009-08-07 07:41 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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