L'art de croire             竹下節子ブログ

Jean-Jacques Rousseau

 Jean-Jacques Rousseau についてはどういうわけか情緒的でアンビヴァレントな反応をしてしまう。

 無神論について読み返すために『エミール』の田舎司祭のとこだけでやめておけばよかったのに、なぜか『告白』を読んでしまった。

 彼が一生ジュネーヴ人として、パリの文化人の弱点をカテゴリー外の目線で捉えていたことなど、30年以上フランスに住む私が共感を持ってもいいはずなのに。

 音楽家としての凡庸さ、勘違いぶりは憐れをそそるが、これも凡庸な音楽家である私(勘違いはしていないが)が親近感を覚えてもよさそうなのだが。

 私が大のラモー好き、ヴォルテール好きだから仕方がないとしても、彼らの目から見てルソーが「いじめられキャラ」だったことがすごくよく分かる。

 『告白』の赤裸々な正直ぶりにも嫌悪感がある。

 教育に自信がないといって5人の赤ん坊を次々と「赤ちゃんポスト」に投げ込んだのも嫌。
 排尿障害を苦にして王の謁見を辞退したのも実感がこもりすぎていて嫌。
 生まれつきの尿管閉塞かなんか(『ルソーの病気』という本も出てるし、最近の医学雑誌で診断もされている)で、生活の質がすごく下がるハンディキャップなのも分るし、同情をそそられるのだがそれ自体も嫌。
 ヴァランス夫人を「ママン」と呼ぶ度、気持ち悪い。
 闘病生活や晩年の鬱病や被害妄想もみんな嫌。

 そういうのを嫌う自分にも自己嫌悪。

 私が大学の卒論をフランス語で書く前に、どなたか失念したが、フランス語の先生が、アナトール・フランスの短編をひとつとルソーの『孤独なる散歩者の夢想』のどこか1章を丸暗記しなさい、と勧められた。ドイツ語からの転向でフランス語が下手だった私は、おお、なるほど、と思って、アナトール・フランスの短編とルソーの1章をタイピングして暗誦した。フランスのものは明快で分りやすく、ルソーのものはセンテンスも長く、でも何だかロマンチックで詩的でかっこよく感じた。今にして思うと、あの二人の組み合わせって・・・・・

 「自然状態」を秩序ある「理想」と見なすこと自体もそもそも「文化」的解釈に過ぎないのに、しかもストア派回帰の一種なのに、自分ではコペルニクス的転回みたいな熱に浮かされていることも、田舎っぽい自然神信仰も、『新エロイーズ』のお粗末さも、みな、軽侮したくなる。

 なぜだろう。

 日本で、バロックオペラの研究者が、一度私に電話を下さったことがあった。喜んで出たら、もともとルソーがご専門だったということで、なぜか、私の脳裏には「むすんでひらいて」のメロディが流れ、がっかりしてしまったことがある。

 まあ、日本の「近代化」にまで大きな影響を与えたルソーのようなビッグネーム、私がこんな失礼なことを言っても、まともに怒る人もないと思うから書いてしまったのですっきりしたが。

 ルソーはラモーやヴォルテールの攻撃を嫉妬だと言ってる。嫉妬なのか?
 ラモーにもヴォルテールにもルソーを嫉妬する理由はなかったと思う。ただ、仲間外れにしたい、切って捨てたいという感じは見える。ルソーは独学でラモーのハーモニー論を勉強したが、本当は最後まで理解できなかったので、通俗的な旋律作曲家になったのだと思う。ラモーはそれを当然理解していただろう。

 まあ、世の「天才」たちが皆『告白』を書き始めたら、凡庸な人間が業績を評価しようとしたら目がルサンチマンに曇らされて、「好き嫌い」の鏡に自分自身を映し出してしまうんだろう。だとしたら、ルソーが自分で言っている『告白』の目的は達せられたわけだ。ルソー、恐るべし。

 
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by mariastella | 2009-08-14 20:55 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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