L'art de croire             竹下節子ブログ

イタリアの無神論

 アメリカの無神論のことを書いたが、逆説的だが、欧米キリスト教の原発地点であるローマ教会のあるイタリアでも、時折、フランス的にはもう一世紀前?というような感じの無神論運動が展開される。

 火曜日にEUの人権法廷が、イタリアの公立学校から十字架を外せ、と判決を出した。自分たちの信念に添って子供を教育する親の権利を侵害するというのである。

 フランスの公立学校から十字架がなくなってから、一世紀以上経ち、アメリカでは1960年代前半に取り払われた。イタリアにはまだあったのか・・・

 ことの起こりは、1990年代の終わり、Massimo Albertin という医者と、その妻でフィンランド出身のSoile Lautsi が、二人の子供の学校から十字架を外してくれと頼んだら断られ、政教分離に反するとして訴訟を起こしたことだ。このカップルは、合理主義無神論不可知論者連合のメンバーである。活動家なのだ。
 2006年に、「キリスト教の表象の高度に教育的なシンボリックな機能」を認めた参事院判決が学校に味方した。カップルは、これを不服としてEU 人権法廷に提訴、3年後の今、イタリアは敗訴、カップルに5000ユーロの慰謝料の支払いを命じた。政教分離から70年、イタリアは十字架を政治やスポーツの影で温存して他の宗教や無神論者を傷つけてきたというのだ。

 まあ、これには当然、賛否両論があり、ただ十字架がカルチャーの名残としてそこにあったのか、生徒が十字を切ることを強制されていたのか、にもよると思う。アメリカでは確か公立校でも1960年代初めまでは祈りが強制されていた。

 こういう議論になると何でも形ばかりが問題にされるのは残念なことだ。

 これを突き詰めると、マジョリティであろうとマイノリティであろうと、誰かが自分の宗教を表に出すだけで、即、別の宗教の信者や無神論者を傷つけるという論理になり、宗教的シンボルは一切禁止という、フランスの公立学校のようなことになる。

 両親が自分たちの信念を子供に押し付ける、というのも、ドグマ的なレベルなら、それも、問題ありだと私は思う。
 
 私の母は、「家内安全」とかを祈り願う対象がはっきり必要だった人で、うちには神棚みたいなのがあり、母が祈ってたのは見てきた。でも祈るように強制されたこともないし、「罰があたる」的な脅しをかけられたこともない。では、そんな母を迷信的だとか思ったかというとそうでもない。感謝していた。

 なぜなら、母が祈っているのは家族や子供たちの安全や幸福だと知っていたからだ。

 どんな親でも、もちろん子供の幸福を祈るだろうが、もし、母が、心の中でだけ祈っていたとしたら、私にはその心が見えなかったろうし、もし「私はいつもあなたのために祈っている」と口に出していわれれば、「頼んでるわけじゃないのに」とうっとおしかったと思う。

 でも、誰かが、誰に頼まれたわけでもないのに、自分のために祈ってくれているのを日常的に見ているのは、子供の精神の安定にポジティヴで、信頼感を育てたと思う。

 母は、もし子供が襲われれば、相手が武器を持つ強盗であろうが狂犬であろうが手負いの虎であろうが、決してひるまずに戦う気満々の人だった。実際は、幸い戦争もなく天災にもあわず、そういうシーンはなかったが、私は、それを「知っていた」。母が祈る姿は、家族に向ける母の愛の形で、それが、母の命よりも大切なものだと私は「知っていた」。そのような母を知っていたから、私は、彼女を決して裏切ることはしない、と思っていた。彼女の祈っていた「神さま」が何であるのかとか、その「神さま」に私も帰依するとかいう次元では、ない。

 小学校の教室に、何か宗教シンボルがあったとして、毎朝、先生が、授業を始める前に、神の栄光とか国の栄光とかではなく、生徒たち一人一人の進歩、成長、幸福のためにひっそり、やむにやまれず一人で祈るとしよう。その姿を子供たちが見て、「何、あれ? 変なの」と思ったとしても、そこに「心」が感じられれば、生徒たちは、誰かが頼まれもしないのに自分たちのことを、その人が頼みとしている「神」に祈ってくれている、ということを、嫌だとは思わないかもしれない。

 十字架の上の「キリスト教の神さま」が、頼みもしないのに「自分のために命を捧げてくれた」のだとしたら、その神さまを裏切りたくない、と思う人もいるだろう。

 特定の祈りや讃歌を子供に「強制」するのは論外だし、宗教における(それが無神論という名の宗教でも)独善主義や排他主義も、絶対によくない。しかし、子供にとってもっと重大なのは、「無関心」かもしれない。

 神棚に向っていようが十字架を見上げようが、ある人が、「その子のために祈ってくれている」ことをその子が知ることは、心をもらっていることであり、それが子供に信頼感を与えて、生かしてくれるのだ。

 ちなみに私は自分の周りに宗教シンボルを置くのは嫌いじゃないが、ある「霊能者」が、種類の違うお札や御護り類を向かい合わせにおくとパワーが衝突してよろしくない、と言うので、「もしものこと」を考えて、棲み分けられるように「飾って」ある。
もちろん、ここはフランスなのでたまに、家族代々の筋金入りの「無神論者」が来て聖遺物や十字架を見てアレルギー反応というかヴァイオレントな反応をされたこともあるので、家の中で、不特定の他人を招くレセプション部分にはキリスト教っぽいものは置かないように一応配慮している。母の形見の西国33ヶ所巡礼の掛け軸だけが観音菩薩を中心に目立っているのだが、それは誰も気にしない。

 他所の国の宗教は文化・教養であり、自分の国の伝統宗教は固陋・反動に見えるということはどこでもよくあることだ。

 政教分離や無神論やそれにまつわる反応も、歴史や文化や社会やその人の個人史と切り離しては考えられない。どんな神(または主義)の名でもいいから、神の名において他者に心を寄せ、他者の幸福を祈るのは歓迎だが、どんな神(または主義)の名にしろ、神の名において他者を弾劾したり排除したり差別したりするのは絶対に避けたいものである。 (これがなかなか、難しいのだけれど・・。)

 フランスでも、今、公立学校で年に一回は国歌を生徒に歌わせろとかいう議論が生まれつつある。
 これは、「共和国教」の一種だ。

 フランスでも『ラ・マルセイエーズ』がサッカーの国際試合の歌だと思っている子供がいるのは、日本で『君が代』が相撲の千秋楽の歌だと思っている子供がいるのと同じだ。

 私は、いわゆる儀式的な場での「斉唱」がむしろ好きだった。

 儀式的な場というのは少数の「偉い人」がしゃべるのを身動きしないで傾聴しなくてはならないという状況が多いから、それが苦痛で、そういう時に突如、堂々と大声を張り上げることができるのは、ストレス解消でもあるし、何だか厳粛なものを侵犯するような爽快感があるからだ。斉唱だから、大声で歌っても目立たないし。

 だから、私にとっては、子供の頃の「無理やり斉唱」というのは、国歌(のおかげで日本音階のテトラコルドを体感できたが)だろうが蛍の光だろうが、嫌な思い出はない。

 でも、歌いたくない人にとっては、儀式の間じっと黙ってる苦痛の上に、しかるべき時に無理やり声を出さねばならない苦痛の二重苦だから気の毒である。

 結局、何でも、「心」に自信が持てないから形にこだわるようになるのかなあ。

 サウジアラビアで出会った隠れ「無神論者」は、自分の子供のために自分も祈りに参加してイマムの説教を聴くようになった、と言う。子供たちと話し合って、原理主義に洗脳されないように注意するのは親の義務だからだと言っていた。

世界には、無神論者が国相手に訴訟でごり押しして勝てるヨーロッパのような国だけがあるわけではないし、またヨーロッパの「人権原理主義」が最善であるとも、いったい誰が断言できるだろう。


 
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by mariastella | 2009-11-05 23:41 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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