L'art de croire             竹下節子ブログ

ブルカ禁止法

 フランスに亡命アフガニスタン人などが増えたせいか、いわゆるブルカという全身を隠して目のところが網目になっている服を着ている女性がたまに見られるようになった。その他に、サウジ・アラビア風の全身真っ黒のものとか、イスラム系女性が外で身にまとうものはいろいろあるのだが、フランスでは、顔を含めて全身を隠すものをブルカと総称し、これを公道で来て歩くことを制限する法律を作るかどうかでいろいろもめている。

 少し前の学校における「イスラムスカーフ禁止法」が、イスラムを特定しないように、あらゆる宗教のシンボルの目立つものは禁止と言い換えたように、宗教と結びつけた抑圧と取られるのはいかがなものかという考えもある。
 私も、どちらかといえば、もぐらたたきみたいに法律を作るよりも、ケース・バイ・ケースで、ある女性の全身ヴェールが、どういう力関係によって決められているのかをチェックして、セクト禁止法や女性差別に関する法律などで対応すればいいんじゃないかと思っていた。
 もちろん、学校に子供を迎えに行く時に、ほんとに母親なのかどうか分らないような服装でいくとか、身分証明書の写真に無帽の顔出しを拒否するとか、明らかな不都合は回避すべきだし、すでに、デモ行進などで顔を隠すことは規制されている。ヨーロッパの他の国では特定の祭り(カーニヴァルなど)をのぞいて公道での顔を隠すことを含む「変装」を禁じている地方もあるらしい。コスプレなんかはだめなわけだ。まあ、フランスにも、女性のズボンを禁止する法律がまだ残っているが、もちろん誰も罰せられない。

 しかし・・・

 ヌーヴェルオブスのジャック・ジュリアールのコラムを読んで、ブルカ禁止法もありかなあと思うようになった。
 
 女性の顔、髪、腕、脚を隠すのは、女性を性的次元に矮小化することであり、それらの部分が性的機能を持っていること=つまり、特定の男(父や夫)の私的所有物であるか「罪」であると見なすことである。
 「好きでヴェールをかぶっている」と主張する女性がいる。男に強制されたのでなく自分の選択だと。
 それには、『いやいやながら医者になり』(モリエール)のマルティーヌの「私が殴られるのが好きだとしたら?」というセリフを対応させればいい。

 それはこういうことだろう。
 世の中には殴られるのが「好き」でそれを「選択」する人もいるだろうし、それは自由だ。では、運良く「殴るのが好きな人」に頼んで、合意でプライヴェートに楽しめばいいので、公道で殴ったり殴られたりのシーンを繰り広げてはならない。ヴェールをかぶったりコスプレの好きな人は、それが合意となる空間でやればいいので、それを不快や不都合だと思う人が見ることを避けられないような場所でやってはいけない。

 ジュリアールは、1848年にラコルデール神父が労働者を守る法律を支持して言った言葉を引く。

 「強者と弱者の間、金持ちと貧乏人の間、主人と召使の間では、自由が抑圧し、法律が解放する。」

 つまり、「自由にまかす」「規制しない」というのは、平等な者たちの間では「解放」の要因になるが、すでに強弱の差異やヒエラルキーのある関係においては、弱者を守る法律が必要で、「自由」にしておくとその「自由」を享受するのは強者だけであって、支配関係はますます強まるのだ。

 ほんとだなあ、と思って、この話を友人たちとした。

 まず若い女性から異論が出た。

 全身ヴェールだけが性的含意というのはおかしい。それなら、私たちが顔を出しても、化粧したりいろいろファッションに心を砕くのも、同じ意味で、私たちが性的コードに捕らわれていてそれに呼応していることである。女性についてあらゆる化粧やファッションや体型に関するプレッシャーを取り除くのでなければ偽善である。

 というのだ。むむ・・・

 まあ、私はたとえ80代の女性でも、美容やファッションや体型やブランドが強迫観念になっていることがあることを見聞きしたし、その人たちは、確かに情報操作の犠牲者とも言えるが、「男に気に入られよう」という性的含意はなく、多くの場合は、たんに近所の人とか、たまに会う友人とかサークルとか、同年輩の親戚の女性とかの目を意識しているのだ。これは、若くない女性一般に言えることで、すごく狭い範囲の知り合いから「あの人きれいね、若いね、すてきね、違うわねえ」とか言われたいだけだったりする。
 サウジアラビアでも、外では真っ黒ヴェールだが、家の中の女たちだけの集まりでは、みんな、美しさやファッションや宝石を競い合ってたのを目撃した。異性の目がなくても競争心は健在なのだ。
普通の国でも、公道で不特定の男に見られたい、という欲望により装いに夢中になるというのは、めったにないんじゃないんだろうか。若い女性でも、せいぜい、職場で、学校で、合コンという狭い範囲で他の女性より目立ちたいだけじゃないかなあ。
 やはり、全身を隠すブルカを来て歩くのと同じくらいに、見せるファッションをすることが社会的抑圧だと言うのは、やや違うようにも思える。

 大体において、21世紀のフランスでおしゃれに金と時間を費やしているような若い女性には、19世紀における弱肉強食の中から弱者が少しずつ権利を獲得してきた歴史の重みが想像できないのだ。そして、その同じ21世紀のフランスに、構造的弱者としての女性が共存していることも。

 もう一つの証言は、ある郊外のシテ(これが移民とその子弟のゲットー化している低所得者用公営団地)のイスラム系住民を調査した人の話。

 そのシテではブルカを着用しているのはまだ若い3人の女性のみだ。マグレバン系のごく普通の「移民の2世」である。彼女らは自分で「選択して」ブルカを着用している。移民1世の親たちはせいぜいスカーフどまりだ。
 しかし、その3人というのは、「よきムスリム」ではなくて、全員が、ごく若い頃からさんざん「遊びまわって」、そのシテの多くの男たちと関係を持った女性だというのだ。

 それを皆に知られているから、彼女らはもう結婚もできない。

 で、ブルカ。

 ブルカは、改悛のシンボルであり、要するに彼女らが、過去を悔いて「尼寺に行った」「修道院に入ってしまった」のと同等らしい。つまり、もう存在しないことによって、女としての機能を担う部品(腕や顔や髪や脚)を隠すことで、「世を忍ぶ姿=もう誰でもない亡霊のような存在」になることで、シテで生き続けてるのを容認されているというのだ。ブルカとは、女性を、個性(性別も含めて)を消して、非人間的なモノとするわけである。

 この問題はやはり奥が深い。

 
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by mariastella | 2010-01-21 01:35 | フランス
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