L'art de croire             竹下節子ブログ

『神々と男たち』Des hommes et des dieux

Des hommes et des dieux
Xavier Beauvois

Lambert Wilson, Michael Lonsdale, Philippe Laudenbach
 
今年のカンヌ映画祭で放映された後で8分間も拍手が鳴りやまなかったという「感動」作で、批評家賞も獲得したこの映画。モデルになった事件は1996年にアルジェリアで7人のフランス人トラピスト修道士がテロリストに誘拐されて惨殺されたというもので、つい最近もそれが実はアルジェリア正規軍による誤殺だったのではないかという疑いが話題にもなり、フランスでは強烈な事件だった。
修道院長であったクリスチャン・ド・シェルジェがテロリストに殺されることを予測して残した手紙が発表されて、それが単純な悲劇や英雄行為でないことが明らかになった。彼は、悪や弱さに対する洞察の中から、自分の命を奪う者と自分のどちらもが、イエスの両脇で処刑された2人の罪人と見なし、共に神に救われる希望を捨てなかったのだ。

 で、この映画だが、三つの観点から興味深かった。

 一つはまさに修道士たちのその生き方という「内容」であり、映画という形で見せられて気づくことも多く、非常に啓発的だった。特に「自由」とは何かについて。それは別のところに書くことにする。

二つ目は、この映画に対するフランス人の反応のおもしろさである。フランスと言えば、『無神論』でも紹介したように、カトリック・アレルギーや戦闘的ライシテ守護者の勢力を多く出してきた国だ。反教権主義がこの国の近代の牽引となったといってもいい。

しかし今となっては、この映画の監督もそうだが、もはや戦闘的だったライシテの時代も知らず、伝統や教育によって叩きこまれた宗教のくびきや罪悪感から逃れるために必死に苦労した一昔前の知識人の葛藤もない世代がたくさんいる。機械的にアンチカトリックを名乗っていても、何がどうアンチだったのかも分かっていない。
「チベット仏教がおもしろそうじゃないんじゃない?」というのと同じノリで、「カトリックの修道生活ってエコロジーで今風じゃない?」と思ったりする人ももはや少なくないのだ。

そういう人たちは、カトリックシンパだと見なされて蒙昧なやつだと思われるんじゃないかと、もはやびくびくしていないから、この映画の霊性を素直にほめたりする。

まあ、単純に言って、地元の人への奉仕活動に専念していた善意の丸腰の年輩の男たちを武器を持った暴力集団が拉致して惨殺ということで、「善悪」の対照は明らかだから、犠牲者側を批判するようなことは誰も言えない。

「カトリックを扱っているからもっとbondieuserie(神さま仏さま)かと思って警戒していたら、押しつけがましくなくて好感が持てた」と言ったりする。

でも、長年の反カトリックの反応パターンから抜けきれない人もいる。

だから、批評や感想にバイアスがかかりまくりだ。

それを観察するのがおもしろい。

たとえば、「長すぎる」とか「隣で観ていた私の妻は涙を流していた」「基本的に女性向けじゃないか」という批評家もいた。

これは、「宗教とは女子供用のものである」という、これもフランス史の中にずっとあった欺瞞の表現なのだ。

反応のバイアスは、それだけではない。フランス内部の宗教的なものとは別のもう一つの歴史によるバイアスだ。映画の中でもアルジェリアの当局が、自分たちの国がこういう状況にあるのは、過去におけるフランスによる組織的奪略の結果による遅れである、という嫌味を言うシーンがある。

アルジェリアがフランス領であった頃から活動してきたトラピストたちの存在そのものが、政治的に不公正というのである。これに加えて、映画はこの修道士惨殺事件の真相を探ろうとしていないという批判もある。

これには、昨今のフランスにおける旧植民地出身の移民の二世三世世代をめぐる経済格差や差別、イスラムを視野に入れた新たなライシテ問題などが背景にある。

けっこう「タブー」な場所に首を突っ込んだ映画なのだ。

それを「感動もの」に仕立てるには、「女性向き」な「感動巨編」で、そのために大の男たちが次々と涙を流す。

まさにそこが、三つ目の、映画としての観点における問題だ。

映画の文法としては非の打ちどころがない。

美しい景色、地元の人々との生き生きした自然な交流のシーン、『12人の怒れる男』顔負けの『8人の悩める男』たちの迫力あるクローズアップ、そして暴力が登場するシーンの臨場感、繰り返し挿入される典礼の静的な美しさ(日に五時間もかかるこの典礼をこなす暇がないから、リュックという医者は、その義務のない平修道士の地位に留まることを選んでいる)。

そして、この映画のためにほんとうにトラピストの修道院に滞在して歌も覚えたという俳優たちの本気の一体感。

そこがなあ。

ロマン派過ぎる。

役を構築して表現しているというより、「なりきっている」。

ロマン派的名演だ。

バロック的でない。

バロック奏者の私が違和感を持つのは自然すぎる。

あまつさえ、最後の晩餐にあたるシーンでは、彼らの一体感、信頼感、高揚と、最後まで残る不安や懐疑などが、『白鳥の湖』の音楽にぴったりとのって、ドラマティックに展開するのだ。

ここが、まさに、「妻が泣いた」という「泣かせどころ」なのである。

典礼の音楽は典礼が本来持つ「演出」という枠の中であるから、どんなに情念が漂っても、マキシマムに出さない抑制があり、それが、深いところにある情緒の根に触れる。最初にテロリストに踏みこまれて追い返すことができた後のクリスマス・イヴの典礼の喜びや優しさは胸をうつ。

しかし、最後は、「白鳥の湖」だよ。

女子供、19世紀センチメンタリズムと言われてもしょうがない。

こういう着地のされ方をすると、困る。
驚きのない予定調和の世界だ。

「やり過ぎ」のさじ加減が、フレンチ・エレガンス好きの私には合わない。

この映画が、映画としての観点から私にとってもっとも意味があったのは、そのタイトルかもしれない。

『Des hommes et des dieux』(神々と男たち)

直訳すると人間と神、どちらも複数である。

「人々と神々」

一神教なのに複数なんて変じゃないかと思われるかもしれない。

修道士たちがみんな神さまと言っているが実はみんなそれぞれ思いこみのマイ神さまなんだ、という意地悪な意味ではない。

イスラムのテロリストも神の名のもとに「聖戦」を唱えて殺しているし、殺される修道士たちも神に命を捧げているが、人の数だけ、あるいは人の信念の数だけ神はいるんだなあ、という皮肉でもない。

題名の由来は映画の最初にすぐに出てくる。旧約聖書『詩編』82にある

あなたたちは神々なのか
皆、いと高き方の子らなのか

という箇所だ。

ここがまた、厄介な箇所なのだ。

文脈から言うと、神の名において神聖な裁きをするはずの者たちが、不正に裁いていることの批判である。

ヨハネ福音書(10-33~36)で、イエスのことを、「人間なのに自分を神と言って神を冒涜している」と言って、打ち殺そうとする人たちがいた。

イエスはそれに反論して、

「わたしは言う。あなたたちの律法に、あなたたちは神々であると書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている」

と答える。

私たちには所詮「神」のことなど分からない。
人間のことですら分からない。

神と人間が一つになれるのかなどが分かるはずがない。

ナザレのイエスが神であるのかどうかが、キリスト教の初期に論議の対象であったように、このことは、なかなか不都合な議論である。

しかし、「正統派」がイエスを「人間であり同時に神である」と言ったので、それ以後は、「人が神になることをうながすために神が人になったのだ」という考えは不都合ながら続いてきた。

 ニッセのグレゴリウスは「人は力において小型の神である」と言ったし、セザレのバジリウスは「人とは神になるようにと呼ばれた動物である」と言った。 
イエスが「人間の神化」の起源でありモデルであるという考えは東方教会に常にあった。

プラグマティックには、イエスが言ったように、人の「神化」は、「善い業」によって信じなければならない。
カルヴァンが「人は神の協働者」だと言い、シュヴァイツァーが「人を救う欲求そのものが神である」と言い、ソロヴィエフは「人は神の自由な協力者であり、それによって『神-人』は『神-人間性』となる」と言った。

だとしたら、この映画の題名は、「人は神においてみな兄弟、一つであって平和を実現しなければいけない」というメッセージをこめているのだろう。
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by mariastella | 2010-09-10 23:21 | 映画
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