L'art de croire             竹下節子ブログ

コプトのキリスト教など

イラクのキリスト教徒たちは、国外に逃げられる人たちはもはやほとんど逃げて、残った人たちは教会にも行けないほどの脅迫を受けている。

エジプトのコプト教会でも自爆テロまであって大変だったのは記憶に新しい。

コプト教会にはカトリック(22万5千人)もいるせいか、フランスではかなりの大騒ぎになった(フランスには4万人のコプト・コミュニティがある)。

エジプトは言わずと知れた初期キリスト教の揺籃の地の一つで、アレキサンドリアはローマと並ぶ国際都市で、あり、神学においても中心地だった。

「コプト」というのはエジプト人を指すギリシア語のaiguptiosを、642年にイスラム教と共にやってきたアラビア人がアラビア風に読んでキリスト教共同体を指すようになった言葉だ。

コプト教会というのはなかなか辛酸をなめてきたグループである。

ヘロデ王による嬰児虐殺を逃れるために生まれたばかりのイエスを連れて聖家族が亡命してきた由緒ある場所であり、使徒マルコが最初の教会を組織したと言われているし、旧約聖書を最初にギリシャ語訳したのもこの場所なのに、ディオクレティニアヌス帝時代の大迫害の時代には厖大な数の殉教者を出した。

それでもキリスト教が壊滅しなかったこと自体(コプト元年は284年)が奇跡だと言われているくらいだし、その上、グノーシスだのマニ教などの二元論の洪水の前にも踏みとどまって、後の隠遁修道会の基礎も作ったし、ニカイアの公会議、エフェソスの公会議と、キリスト教の基礎を築くのに貢献した。

ところが451年のカルケドニア公会議でローマと袂を分かち、東方正教会の一部となり、その後で7世紀のイスラム侵入によって、迫害されたり条件付きで共存を許されたりを繰り返しながら、14世紀にはついにマイノリティになった。エチオピアに移住した者もいる。

その頃からにわかにコプト教会のためにがんばりだしたのがフランシスコ会で、1895年にカトリックのアレキサンドリア主教区ができる頃にはコプト教会のうち10 %がローマの傘下に入った。

しかし90%イスラム化したエジプトの中で、昔ながらのコプトのコミュニティが持ちこたえてくれたからこそ、キリスト教と共に古代エジプト語が継承されたわけで、コプト経由のエジプト語の知識がなければフランスのシャンポリオンが象形文字を解読することもできなかった。

1973年にはカトリック(パウロ6世)とコプト教会による共同信仰宣言も出て、正教会のいうキリストの神性のうちには「受肉した神性」も含まれる(「monophysisme 単性論」で誤解されがちなキリストの人間性の否定でなく「miaphysisme」であること)のだというところがあらためて確認されたこともあった。

こうして1500年以上もキリスト教の内輪でいろいろあったわけであるが、21世紀におけるコプト教会の新しい試練は、テロを辞さないイスラム教原理主義者からやってきた。

この責任はどこにあるかというと、イラクでもそうだが、やはり「欧米の介入」が、アラビア色でまとまっていたイラクや中近東の文化的なバランスをくずしてしまったことだと思う。

少し前まではイスラムがマジョリティであるという安定のもとに、中近東は「アラビア語文化圏」としてまとまっていたのだ。

たとえていえば、そのアラビア語文化圏の中に、サブ・カルチャーとしてエジプトのコプト教会があったりイラクのカルデア教会が共存していたりという形である。

ところが、アメリカなどが介入して民主主義という名のグローバリゼーションを押しつけたので、反動で、その地域にイデオロギーとしてのイスラム勢力がトルコやイランから流入してきた。

トルコ人もイラン人も、アラビア人ではない。コーランを戴くがアラビア語文化圏ではない。

そこで何が起こったかというと、イラクやエジプトにおいて、「アラビア」が「イスラム」に置き換わったのだ。

すると当然、イラクのキリスト教徒やエジプトのキリスト教徒は排除される。

アラビア「文化」からイスラムという「宗教」に合わないものが排除され始めたのだ。

いいかえると、それまで、イラクのムスリムにとってイラクのキリスト教徒は「文化」の違う人であって「宗教」の違う人ではなかった。マジョリティ文化とマイノリティ文化ほどの違いである。

日本人にとってはわりと分かりやすい。

日本では、日本人とか日本文化のくくりがアイデンティティになっているから、少なくとも老舗宗教に関しては、

実家が浄土真宗だとか、宮司の家系だとか、母親がキリスト教で幼児洗礼を受けただとかによって差異化されることはあまりない。

新宗教やあやしげなカルトですら、サブカルチャーの一つぐらいだと思われている。

それはそれで今の時代では危険なのだが、それはまた別の話だ。

とにかく中近東での現在のキリスト教徒大迫害の経緯を見ていると、

世界の平和の秘訣が何かが少し分かる。

人は互いに、

自分の宗教だけを宗教だと思っていればよく、

他の人の宗教は文化だと思っていればいいのである。

無宗教の人は、宗教全般を多様な文化だと思えばいいのだ。

フランスでは長い間のカトリック教会との戦いの歴史の中で、すっかり、政教分離のライシテが根付いているのだが、それは平たく言えば、「宗教は文化と見なして平等にあつかおう」という考え方だ。
宗教を「権力」と見なさずに共和国の「上から目線」で見ているわけである。

フランスのカトリックもその考え方に慣れて、「自分たちの宗教は宗教だが、他の宗教は宗教という名の文化である」という事実上のスタンスをとるのが今や標準である。

だから他の宗教とも国ともけんかにならない。

ところが、そこに宗教イデオロギーをふりかざすイスラムがやってきたから、フランスは少しあわてた。
イスラムから喧嘩を売られて、あらためて「そうか、イスラムは宗教なのか」、と気づくばかりか、「そうか、カトリックって宗教なのか」と気づく人さえ出てきた。

フランスのある町で、公共の広場にクリスマスシーズンにキリスト誕生の馬小屋セットを設置したら、政教分離団体やイスラムからクレームがついたのでひっこめてしまった。公共の場所での宗教シンボルはライシテに反するというのだ。
クリスマス・ソングからも慎重に「祈り」や「幼子イエス」の言葉がカットされたりする。

フランスの地方の町でクリスマスに馬小屋セットが出るのは、宗教じゃなくて文化というかフォークロアであるのに。

日本でクリスマスに町に馬小屋セットが飾られたり
讃美歌が流されたりしても、舶来文化の雰囲気作りの演出だとしか思われない。クリスマスが終わってあわてて正月飾りが置かれても、寺社に初詣に行ってさえ、特に宗教行為をしていると思う日本人は少ない。クリスマスも文化、初詣は伝統文化、くらいの感覚だ。

バレンタインデーはサウジアラビアでは2001年に禁止され、イランでも今年から禁止されるそうだ。

自分ち宗教イデオロギーの強化のために、ただの輸入文化や商業祭が宗教に「昇格?」した例である。

フランスでは中国人コミュニティが陰暦の新年を派手に祝うが、それが年々お祭化している。シャンゼリゼを竜が練り歩こうと、道教の最高神「玉皇大帝」に菜食の供えを奉げて、線香を手に祈ろうと、誰からもクレームがつかない。

中国の宗教は文化でありフォークロアだと思っているからだ。

公立学校での宗教シンボルは禁止令が出ているが、もし日本人の生徒が日本の神社のお札や仏さまの掛け軸を持って行って見せたら「文化紹介」と見なされるだけだろう。

イデオロギー闘争や権力のツールにさえ使われなければ、実際、多宗教は平和に共存できるのである。

だから、平和の秘訣はやはり、

人は互いに、自分の宗教だけを宗教だと思っていればよく、他の人の宗教は文化だと思っていればいい

ということだなあ。

そして、文化とは、互いに影響し合ったり、栄えたり衰退したり変貌したりするものだということも忘れていけない。

外にむかって開かれていない閉じた系、エネルギー交換のない系は生き延びることができない。

まあ、世界中の宗教者が少しずつこういう風に考えをシフトしてくれれば平和が来る、と思いたいところだが、それはそれで別のイデオロギーや全体主義や独裁者がはびこるのを抑止することができなくなるかもしれない。

もちろん「文化」だってイデオロギーの道具になって他の文化を滅ぼすこともある。

だから単純化や一般化はできないのだが、それでも、現在のイラクやエジプトの悲劇を見ていると、イスラムとキリスト教がアラビア文化のサブ・カルチャーのように共存していた頃がむしょうになつかしく感じられる。
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by mariastella | 2011-01-10 04:46 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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