L'art de croire             竹下節子ブログ

Instiut Jeanne d'Arc

先日のイランについての記事
http://spinou.exblog.jp/15921346/
を補足する。

シスター・クレールが20年勤めていたテヘランでのジャンヌ・ダルク学校のことだ。

Institut Jeanne d’Arc とか、 Ecole Jeanne d’Arcとか呼ばれるこの学校はシスター・クレールがバスケットボールクラブを作って未来の王妃ファラがキャプテンとして活躍したことが有名なように、上流階級のご用達だった。

19世紀を通じてイランのエリートは啓蒙思想とフランス革命が好きで、フランス文学も大好きだった。

イギリスの英語やロシア語が幅を効かせていた時代だが、それらの言葉さえもフランス系の学校内で教えられていたほどフランスびいきだった。当時国境を接していたイギリス(インドを通じて)やロシア帝国へのけん制もあったのだろう。

やはりアジアに根を広げていたアリアンス・フランセーズははっきりと商業的メリットをうたっていた。
他にフランスのユダヤ系共和国主義のフランス語学校もあった。
しかし一番上流どころはカトリック系フランス校だったのだ。

ジャンヌ・ダルク女子校ができたのは19世紀半ばで、男子校はラザリストによる「サン(聖)・ルイ」校である。

彼らはまったく宣教活動はしていなかった。ラザリストも愛徳姉妹会も、17 世紀の聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンチオ・ア・パウロ)が創設した社会事業中心の活動修道会だ。

でも、どうして、この名前なのだろう。

シスター・クレールはこの2人がフランスを代表する名前でフランスの守護聖人であるからだと言った。
つまり、宣教活動はしない代わりに、学校の名前によってフランスのアイデンティティを強調したのだろうか。

ジャンヌ・ダルクが聖女として正式に認められたのは1920年、その前段階である福女になったのが1909年、その審査が始まったのが1894年、オルレアンの司教がジャンヌの聖性を示唆したのが1869年、ミシュレーがジャンヌを民衆の聖女だとしたのが1841年。

テヘランのジャンヌ・ダルク学校は1860年代の初めにできた。だから、聖ルイ(ルイ9世、13世紀)と違ってジャンヌ・ダルクはまだ聖女(サント)ジャンヌ・ダルクと呼ばれていない時期だ。

ジャンヌ・ダルクがオルレアン解放のために立ちあがる時に聞いた天の声の中にはこのサン・ルイの声があった。
だからこの2人の組み合わせでは、どちらかというと王党派のイメージで、イラン人の好きだったフランス革命とはニュアンスが変わってくる。でも当時のイランはガージャール王朝の支配下にあったわけだし、フランス革命的や啓蒙時代のイメージよりもそのような「曖昧ゾーン」の方が都合よかったのかもしれない。

だからかどうか知らないが、ジャンヌ・ダルクが福女になったり聖女になったりした後も、この学校の名には「サント・ジャンヌ・ダルク」と称号を付け加えられなかった。

フランス本国の内部では、その名前の女子校が公立でもたくさんできたというのに。

ジャンヌがフランスの守護聖女となったのもずいぶん後のことである。

フランスの守護聖人としてはノートルダム(聖母)もいるのだから、ノートルダム女子校としてもよかったはずだが、そうならなかった。

ノートルダムではキリスト教色が強すぎる。

当時のイランには宣教色が強いアングロサクソン系プロテスタントの学校もあって、プロテスタントはノートルダム崇敬を認めないので微妙だったからだろうか。

聖ルイもジャンヌ・ダルクも歴史上の人物。

2人とも戦場で戦った。

そういう理由で選ばれたのかなあ。

でもジャンヌ・ダルクの列聖はあまりにも同時代すぎて政治色が濃いので、「聖女」と付け加えるのはさすがにはばかられた、ということだろうか。
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by mariastella | 2011-02-16 08:40 | フランス
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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