L'art de croire             竹下節子ブログ

ルルドの奇跡の起こり方 その5

聖女ベルナデット教会で、突然声を立てて泣き始めた若い女性を思わず両腕にだきしめて、セルジュは慰めの言葉を探した。

「マリアがここにいるよ、ぼくたちと一緒に。ぼくたちを見ている。しっかりして、大丈夫だよ」

ユダヤ人の収容所でエティ・ヒレスム(1943年にアウシュビッツで殺された)が妊婦や赤ん坊の世話をしていたシーンがなぜか思い浮かぶ。

エティはこう書いた。

不幸に襲われるときはいつでも、人々は助けの手を差し伸べ、救える者なら救おうとする自然の本能を発揮します。今夜私は、赤ん坊に服を着せ、母親たちを落ち着かせる「手助け」をしようと思います。それだけが、私にできそうなことですから。

エティは、地獄のような光景の中で、

微笑して、明るく話しながら、途中で出会うすべての人に親切な言葉をかけ、きらめくばかりのユーモアにさえあふれていたという。

祈りについてエティはこう書いた。

自分に何かをくださいと神に祈るのは、あまりにも子供っぽ過ぎて、お話にならないように思える。

他人の幸せのために祈るのも、同じように子供っぽいように思う。
人は、他の人がその重荷を背負うのに十分な力を持てますように、とだけ祈らなければならない。

そうすれば、その人自身の力の幾分かを他の人に貸すことになるのだから。

(以上、引用は『エロスと神と収容所』(朝日選書298)より)

エティたちを襲った「不幸」は、ナチスのユダヤ人殲滅政策という人為的な悪だった。

それはまるで天災のように襲ってきた。

ルルドにやってくる人たちを襲った不幸は、集団的なものではなくて、個々の不運や遺伝子や環境など、千差万別の理由によって起こった病気や障害だ。

千差万別ではあるけれども、老いや病や死がすべての人の共通の運命であるという意味ではどれも決して「他人事」ではない。

そう思うと、人生は大きな「死の収容所」のようでもある。

けれども、そこには必ずエテイ・ヒレスムのような人がいて、一番暗いひと隅に、灯をともしてくれる。

すると、人生はまた、大きな「ルルド」のようにも見えてくる。

セルジュが若い女性を抱きしめて

「マリアがここにいるよ、ぼくたちと一緒に。ぼくたちを見ている。しっかりして、大丈夫だよ」

と言ったのは、ルルドがルルドであり続ける奥の奥にある祈りの言葉だといえるかもしれない。

ルルドでは、泣けば、呻けば、倒れれば、誰かにきっと抱きとめてもらえる。

その「誰か」は、いつも、「泣くあなた」を「慰める私」ではなく、

「ぼくたち」であり「私たち」なのだ。

「どうしてこの自分が・・・」という「自分だけの不幸」が、その時に、変容する。
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by mariastella | 2011-04-15 00:21 | 宗教
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