脚がすっかりよくなったセルジュは、その年から今までに、サンチアゴ・デ・コンポステラへの徒歩巡礼路1750キロを踏破した(バックパックを背負っている姿のスナップを見ると、もともとは丈夫な人だったんだなあ、と思う)。
ルルドでのボランティアももちろん続けている。
地域の私立病院に入院患者のもとを訪れるボランティア活動も夫婦2人ではじめた。
2011年からは、家族を失った人の心のケアをするセラピストになるための講習も受け始めた。
マリアに感謝するために自宅の庭にミニ洞窟を造り、聖母像を設置した。
自宅の向かいにあるチャペルの管理もボランティアで行い、毎夕そこで、祈りの取り次ぎを頼まれている他の病者にために祈っている。
最後のエピソードは興味深い。
セルジュの教区にも、治癒前の彼よりも重症な病気や障害を持っていて彼よりも苦しんでいる人はたくさんいるだろう。
多くの人がルルドにも行ったろうし、聖母にも祈っているだろう。しかし、「奇跡」はセルジュには起こったが、他の人には起こらなかった。
それを見て、不当だとか不公平だとか、あるいは、嫉妬や羨望の念が湧いてきても不思議ではないが、どうやら、人々は、「恩寵」に対して感度のいいセルジュに聖母への「取り次ぎ」の役割を託すことを選んだようだ。
これは聖人信仰の心理とまったく同じだ。
超越的でどこにいるか分からない神よりも人としてこの世で苦しんでくれたキリストに、
キリストよりもその母として苦しんだ聖母マリアに、
無原罪の畏れおおい聖母マリアよりも、
人間仲間である各種聖人に、
さらに「xx病の守護聖人」と特化された聖人に、
というように、
人は「自分の手の届きそうな」手近な聖なる者に自分の祈願を頼む傾向がある。地元出身の国会議員に陳情に行くようなものだ。
で、セルジュという、比較的最近「奇跡の治癒」を得た人を目にして、「何であの人が・・・」と不信感を得るよりは、「なんだかよく分からないがあの人の祈りは効くらしい」という心理が働いて、セルジュに祈ってもらおう、ということになるらしい。
セルジュもそれに応えて、そういう役どころを果たすことによって、自分の恵みを信仰の文脈に組み入れることができる。
愛と希望と信仰という三点セットが機能するわけだ。
「御出現」は、「御出現」というわりには、特定の「選ばれた者」にしか感知できないが、奇跡とは「徴し」であるから、基本的に誰の目にも見えるものでなければならない。
だから奇跡は「情報」の一種だ。けれども、目に見えてもその意味が読み取れるとは限らない。つまり、奇跡が「徴し」として認知されるにはいわゆる情報リテラシーが必要とされるということになる。
それは図式的な解析ではなく、それが動かし始めた歯車の運動全体で判断されるらしい。
セルジュは、自分が治癒を得たらその後は他の人のために祈りますという条件を指定して祈っていたわけではない。先に他の人のために祈ったし、「聖母がいるよ」と励ました。
「神のひと押し」というのは神に働きかけることで得られるというよりは、積極的に他の人を助けることで得られるのかもしれない。
それとも、人が、たまに、やむにやまれず「他の人に寄り添う」とか「他の人に手を差し伸べる」という心境になることそのものが「神のひと押し」によるものなのだろうか。