L'art de croire             竹下節子ブログ

ボカサとカダフィ

中央アフリカ共和国の「皇帝」だったボカサ一世の戴冠式のドキュメントを見て驚倒した。

1977年の12月、ブラック・アフリカでナポレオンの戴冠を再現した写真は、当時すでにフランスにいた私もよく覚えているが、その後の失墜やフランスでの亡命生活と共に、ちょっと滑稽なエピソードだと思っていた。

このドキュメント・フィルムは、戴冠式の贈り物としてフランス軍が撮影したものだが、それがあまりにもカリカチュラルで、その後もこの独裁者が没落したから、軍隊はこの映像を30年間封印していたのだそうだ。

世界の最貧国のひとつの中央アフリカが、年間国家予算の四分の一の金をかけて祝祭を催した。全てフランスから調達した。しかし現地には調理用具すらなく、200人のシェフが300台の冷蔵庫持参でやってきた。
馬車での行進のためにノルマンディから連れられてきた馬たちは熱帯の気候に耐えられず興奮して暴れ、祝祭中に倒れて死んだものが2頭、最終的には数日後に全ての馬が死んで、フランスに戻ることができなかった。

35度から40度の気温の中、赤ビロードに毛皮の12メートル、38キロのマントを引きずり、皇后は不機嫌そうで、まだ子供の皇太子は軍服を着たまま眠ってしまっている。

ボカサには17人の妻、54人の子がいて、この皇后カトリーヌとは正式に結婚していないが、この時ボカサ自ら冠を授けているので「最後で唯一の妻」と言っていた。しかしこの人はボカサの没落前に逃げ出してジスカール・デスタンの愛人になったとボカサは言っている。

ボカサの父は宗主国フランスに反抗して殺され、ミッションスクールで育ったボカサは司祭にされそうになるが結局フランス軍に志願、自由フランス軍でドゴールに従い、インドシナ戦争やアルジェリア戦争にも参加してレジオンドヌール勲章などももらっている。

ドゴールを「パパ」と呼び、「パパと呼ぶのはやめてくれ」と言われて「わかりました、お父さん(D’accord,Père)」と答えた。で、ポンピドーは兄弟で、ジスカールはいとこだと呼んでいたのだ。

戴冠式に「いとこ」のジスカールは参列せず、大臣が一人送られただけだった。ナポレオンのようにローマ法王自らが司式するミサにあずかりたかったのに、ローマ法王も出席せず代理の大使をよこした。

中央アフリカの独立は1960年、ボカサのクーデターが1965年の12月31日、1972年に終身大統領を宣言、1974年に元帥、77年が皇帝だ。

テレビで何度も、ヒロヒトとイランのシャーに次いで世界で三番目の皇帝になる、と強調していた(日本の天皇もイランのパーレビ国王もフランス語では皇帝だ。この2 年後にイランもイスラム革命で皇帝を追放することになる)。

もちろんボカサにとって最も大事な皇帝はナポレオンで、一兵士からのたたきあげの成り上がりというのがツボらしい。

戴冠式はユーゴのチトーから贈られた屋内競技場であり、掃除機がないので赤じゅうたんは丹念に箒で掃かれ、3時間にわたるパレードはシャンゼリゼの軍隊パレードと北朝鮮とフォークロリックがまざったようなものだ。

ピグミー族が集められ、バトンガールが整然と行進する。群衆はボカサの顔がプリントされたTシャツを着用する。

予算を捻出するため公務員の給与が10パーセント天引きされ、「大きな歴史を作るには犠牲が必要だ」と語るボカサは単一政権である「ブラック・アフリカ革命党」の党首でもある。

祝祭があまりにも常軌を逸していたので、アメリカはその直後に援助を打ち切った。

服、食事、食器、2万4千本のシャンペン、花火、馬、花、パレードの振り付けなど全てを調達したフランスもことの次第に当惑した。だからドキュメンタリー映画も封印されたのだ。

立憲君主国にすると言っていたがもちろん軍事独裁に変わりはなく、抗議する民衆を虐殺し、1979年にリビアに行っている間に(ジスカール・デスタンの画策で?)クーデターが起こって没落する。

その後コートジボワールやフランスに亡命した。

ジスカールに贈ったダイヤモンドのプレゼント(ジスカールはそれを売った金を中央アフリカに寄付したと言っている)がスキャンダルになって、1981年にジスカールは大統領を一期で断念することになった(このことについてボカサはフランス語で回想記に書いたらしいが発売前に検閲されて未発売)。

欠席裁判で虐殺、裏切り、人肉食(フランスがでっちあげたと言われ、証拠不十分で後に棄却)などで死刑判決が下っていたが、1986年に国へ戻り、逮捕されたが終身刑に減刑された後で恩赦され1996年に心臓発作で亡くなった。

75歳。

いろんな意味で興味深い。

ナポレオンとピウス七世の関係と、ボカサとカトリックの関係。

つまり、軍人皇帝の独裁者と宗教権威との関係。

また、当時のジスカール・デスタンとボカサの関係と、今のサルコジとカダフィの関係。

驚くことがもうひとつある。

1976年にフランスからの助成金が減らされて経済的に苦しくなったボカサは、中国とリビアに接近した。そしてカダフィの指導で、リビアのイスラム指導者のもとでイスラムに改宗した。名もイスラム風に改名。

中央アフリカのモスクに出席した最初の祈祷は、スピーカーで町中に流された。イスラムを国教にしようという動きもあった。エジプトも祝福した。

それが1976年の秋である。

それなのに、僅か2ヶ月後、1977年の1月にボカサは離教した。

名もフランス風のクリスチャン・ネームに戻した。

理由はもちろん皇帝の戴冠式とミサにローマ教会を必要としたからだ。

それでもすでにカダフィからの援助はとりつけていた。

すごい変わり身の早さだ。

敬虔なカトリックだった前ベルギー王ボードゥワンが、妊娠中絶法が成立した1990年にその間だけ退位したことと反対だ。彼は宗教的信念を政治的立場に優先させた。

ボカサの方は、経済政策や個人的野望で宗旨替えしてしまうのだから。

そう言えばナポレオンもエジプト遠征中にはイスラムに改宗したという説もあった。

ボカサ、どこまでナポレオンなんだ。

ボカサは、自分のことを「イエスの13人目の弟子」と称していたらしい。

ボカサの「ナポレオン」戴冠は、他のブラック・アフリカからは「白人の猿真似」として批判された。フランスは、旧宗主国の立場もあるから微妙で、一応ボカサの「親フランス」芝居を容認していたのだ。

でも、結局、手のひらを返した。

サルコジは、リビアに民主主義が根付くまでフランスは見守ると言っている。

「金は必要ないんです、リビアには金はあるから」
とも言っていた。

「リビア解放」に費やした金を弁償しろと言いかねないな。

まあ、結局は石油利権などに落ち着くのだろうが。

中央アフリカは世界の最貧国の一つだった。

金やダイヤやウランはあるのだけれど。

もちろんフランス御用会社の「アレヴァ中央アフリカ」というのがあって、バクマ鉱山の開発を独占している。

石油の時代の前には、石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれていた時代もあった。

中央アフリカは、ダイヤとウランだ。

ダイヤはジスカールに、ウランはサルコジに。

ボカサは「黒いナポレオン」と呼ばれていた。

そのメガロマニア(誇大妄想)ぶりは、カダフィにも通じる。

しかし、ベルベル人であるカダフィよりも、黒人のボカサは、より「痛い」。

権力、金、政治、個人や国の野心や欲望、植民地の歴史と人種差別。

アフリカはいつも、「近代国家」の暴力的核心がさらけ出される場所なのだ。
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by mariastella | 2011-09-21 03:06 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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