L'art de croire             竹下節子ブログ

Sic transit gloria mundi

リビアのカダフィが故郷の町で最後まで抵抗して殺された時、イタリアのベルルスコーニ首相は、わざわざラテン語で「Sic transit gloria mundi」とコメントした。

「こうして世界の栄光は移りゆく」というのだが、リビアの旧宗主国で、カダフィとの関係の中でずいぶん特権的な「いい目」をみてきた違いない人の口からこう言われると、いろいろと違和感がありまくりの言葉だ。

このリビアの「反乱」支援は、明らかにフランス主導だったのだが、オバマ大統領は、まるでアメリカの「手柄」のようにコメントしていたので、フランスではそれを皮肉る人も少なくなかった。

といっても、別に、フランスの「手柄」だと強調したいわけではなく、サルコジの先走りのせいで泥沼に突っ込んで行ったら、この先どうなるのか、結局は世界中から倫理的な非難だってされるのではないかと心配していたので、単純にほっとした人も多い。

カダフィの血まみれの姿がニュースで流れた時、ショッキングだが、革命とはこういうもので、フランス革命だって恐怖時代を通過したのだから(自分たちにはとやかく言えない)・・とキャスターが口にしていた。

皆が、居心地悪い思いをしたのだ。

チュニジアのベンアリやエジプトのムバラクのように逃げ出さずに予告通り最後まで戦って死んだということで、「生き方は悪かったが死に方はよかった」とコメントしてしまった人もいた。

23日のラジオでは、カダフィの死についてコメントを求められた国防大臣のジェラールロンゲが、意外なことを口にした。

前にも、ジェラール・ロンゲのコメントに感心したことを書いたことがある。

http://spinou.exblog.jp/16596328/


今回、ロンゲは、カダフィの遺体が引きずられていた映像を見て、それにショックを受けるくらいに「Je suis assez chrétien」(私は十分キリスト教徒だから)と言ったのだ。

「カダフィの血まみれの姿が強烈だとしてもこの40年間にカダフィの手で血まみれになった人々の姿を忘れることはできないが」とも言っていたが、フランスでは、現職の大臣が「私はキリスト教」なんて口にするのはタブーに近いのだ。

驚いた。

インタビュアーも、その少し後で、皮肉りたかったのか、「あなたはキリスト教徒ですが、イスラムが宗教的な政治をするようになったらどうしますか」みたいな質問をしていた。

ロンゲは、それは一部の過激派であって宗教そのものとは関係がないという風にあしらっていた。

ジェラール・ロンゲは若い頃に極右の政治活動をしていて国民戦線の創設とも関係があったとウィキペディアに書いてあった。

もちろん「それは間違いだった」と言って転向し、今はサルコジ政権で大臣にまでなったわけだ。

ともかく、カダフィの末路を

「人間として見ていられない」

という代わりに、

「キリスト教徒として見ていられない」

と言ったのは、その時点では、不思議なことに、誠実に響いた。

「リビア人はイスラム教徒だから残酷なことをした」というお粗末なあてこすりなどではない。

テレビのキャスターですら、「フランス革命だってひどかった」と認めているくらいだし、ヒトラーのヨーロッパの惨禍は共通認識だし、共産圏ヨーロッパが崩壊した後のひどい内戦も記憶に新しい。

ロンゲが「キリスト教徒として」と言ったのは、むしろ「人間として」という近代ヨーロッパ表現のルーツがそのまま出たという感じだった。

キリスト教ヨーロッパが脱宗教化しながら近代ヒューマニズムを概念としてグローバル化した。キリスト教は近代ヒューマニズムの「成因」のひとつなのだ。

別にロンゲの超保守の地金が出たのだと思わないし、あるいは逆に、大統領選を控えてキリスト教系勢力も取り入れようとする与党の大臣が迎合して計算して使った言葉だとも思わない。

前回のブログで書いた彼の言葉と並べてみると、この人の感受性の整合性がうかがえるのだ。

日本ではカダフィの末路について政治的な積極的なコメントはあまりなかったようだし、日本の大臣たちは何かというと失言で更迭されている。

フランスの国防大臣の言葉に、ヨーロッパでは戦争と平和に対する歴史観の陰影が深く刻まれているんだなあ、と、あらためて、思い知らされる。

カダフィに対しては、彼の社会主義的善政を評価し、今度のNATOの介入は帝国主義国の利権争いにしか過ぎないと激しく批判する人ももちろんいる。

軍事介入に関してのサルコジの先走りぶりを見て、カダフィにしゃべられたらよほど困ることでもあるんだろう、と思ったこともある。

ただ、一つ言えることは、たとえどんなに立派で人民のことを考える英雄的指導者がいるとしても、

何が善で何が悪か、

何が正しくて何が正しくないかということを

「たったひとりの人間」が決定して、それ以外は否定されてしまう、反対する声は圧殺されるという体制のあり方は、長い目で見ると絶対によくないということだ。

人は変わるし、間違うこともあるし、道に迷ったり、誘惑に負けたり、疲れたり、勘違いしたりもする。多様な意見が聞こえてこないという社会は閉塞する。

そろそろ結果の出るチュニジアの自由選挙でイスラム勢力が多数派になりそうだが、もうイラン革命の頃とは流通する情報量も違うし、法治国家で多数派になれば過激さは減るはずだ。

これからのリビアやエジプト、シリアの情勢もふくめて目が離せない。
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by mariastella | 2011-10-25 06:01 | 雑感
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