L'art de croire             竹下節子ブログ

『ルルドの泉で』

★『ルルドの泉で』12月23日(金)よりシアター・イメージフォーラムにて公開!

http://lourdes-izumi.com/

オーストリアの女流監督ジェシカ・ハウスナーによるオーストリア、フランス、ドイツ合作映画。

主演はシルヴィー・テステューで、「信心が足りない」人がなぜか奇跡の治癒の恵みを受けるとどう反応するかというおもしろい役柄にぴったりのキャストだ。

試写に行った人から、「ルルドがこんなに大規模なお祭りの様相を呈しているところだとは知らなかった」という感想があった。もっとひっそりしたイメージだったのかもしれない。

この映画は全編ルルドでのロケなので、雰囲気はかなりよく分かる。

ルルドをテーマにした映画はいろいろあって、「水浴」とか「洞窟」のシーンがまったくパロディになっているコメディまである。

1987年のジャン=ピエール・モッキー監督の『Le Miraculé(奇跡の治癒者)』が最たるもので、ジャンヌ・モローなどそうそうたる配役なのに日本では公開されていない。本物のルルドが知られていないのにパロディは分からないと思われたのだろう。

私はこの年には、まだルルドに行ったことがなかったので、ユイスマンスやアレクシス・カレルのルルド紀行によって培われたのが私のルルドのイメージだった。
映画のセットがジョークだとは分かっていても、大洞窟風呂のようなセットや、コインを入れて「告解」するシーンなどに驚いた記憶がある。

その後いろいろなドキュメンタリーのビデオを手に入れたので、ルルドの変遷を視覚的にもたどることができた。それでも実際にその地に足を運ぶと、テンションの高さに圧倒された。

後に『奇跡の泉ルルドへ』(NTT出版)という本を書くに至ったのだが、モッキーの映画を見ていなければひょっとしてあれほど熱心にルルドに関心をいだいたかどうかは分からない。

実際にルルドに行って驚かされるのは、病気や障害というタイプの不幸や試練を前にした時の人間の絶望や希望や諦念や怒りなどの重さと、それらを突き抜ける別の次元から吹いてくる風の実感だった。

そこでは生と死や健康や病に対する「外界」での条件付けがラディカルに無化されていて、パーソナルに背負っているものが相対化されてしまう。

私が今興味を持っているのは

Nimatullah Youssef Kassab Al-Hardini (1808-1858)

というレバノンのマロン派の聖人で、ヨハネ=パウロ二世に列福(1998)列聖(2004)された人物の列聖認定の時に認められた「奇跡の治癒」の話だ。

このことについて詳しく書こうと思っているのだが、日本語では聖人の名が何と表記されているのか検索しても一向に出てこない。

この時の奇跡の治癒を受けた人は、19歳で末期の血液癌だったので、運動障害や痛みなどと違って、それが「治癒」したかどうか、即座には自分でも分からなかった。検査されていくら治ったと言われても、信じられなかったという。
ヴァティカンでの審査はほとんど拷問のように感じるくらいに厳しかったらしい。
この人は今はマロン・カトリックの司祭なのだが、子供を難病で失った母親などの嘆きを前にする時など、どういう言葉を発するべきか大いに悩むという。

どうしてある人は奇跡的に救われ、ある人は救われないのか。

長いスパンで見れば、どちらの人も、「生まれた」ことと、遅かれ早かれ「死ぬ」ことでは共通している。

エントロピーに対抗しながら生と死が繰り返される大きな流れの中にいるのだ。

治癒を求める「祈り」の中にはそういう大きな流れと一瞬接触する契機のようなものがあるらしい。「神秘」との邂逅である。

『ルルドの泉で』では、人間は素晴らしくよく描かれているのに、そういう「神秘」の視点は描かれていなくて、それが残念だ。
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by mariastella | 2011-12-23 06:01 | 映画
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