L'art de croire             竹下節子ブログ

パトリシア・プチボンとママコさん

先日、国立図書館に18世紀の五感文化についての対談の最終テーマ「聴覚」を聴きにいった。

ジャンヌ・ダルクのお告げの「声」の文化的スタンスの変容を知る一環になるかと思ったのだが、全然参考にならなかった。

モーツァルトのオペラに話が集中して、アリアなどをいろいろ聴きながら、コロラトゥーラ・ソプラノのPatricia Petibon がいろいろなエピソードを語る趣向だ。モーツァルトがかなりのフェミニストだったとか、声をマチエールとしてクリエイトしていくやり方とかそれなりにおもしろい話はあった。モーツアルトを上演するときはいつも彼の臨在を実感するというのも興味深い。

流された音源の中にはもちろんパトリシア・プチボンの歌っているものもあり、彼女がとても気さくなので、最後の質問やコメントの時に、せっかくだからここで少しばかり歌ってくれないかと頼む人が出てきた。

その時の彼女の答えはすぐに「ノン」だった。

歌うことはincarner(歌う人物になりきる、変身するということ、憑依するようなシャーマニックなニュアンスもある)することだ、この場で普段着で舞台のテーブルの前に座った状態ではそれができない。それができない限り、歌うことは道化を演ることと同じで、私はサーカスをやるつもりはない、と言うのだ。

それを聞いて、もう20年ほども前になるが、パントマイマーのヨネヤマママコさんがパリ郊外のセーヌの岸辺に館を購入したときのことを思い出した。

首尾よく契約のサインが終わって、お祝いに、私の友人である公証人の自宅で食事をする事になった。

表情豊かなママコさんがパントマイマーだということを知った公証人の奥さんが、

じゃあ、ちょっとここで何か簡単なものをやって見せて、

と所望したのだ。

ママコさんの答えはもちろんノーだった。

奥さんの手料理を食べていたママコさんは恐縮したが、ママコさんがマイムを演るということはやはりincarnerすることであって、かくし芸大会での演し物ではない。

「即興で、少しばかり」やることができないのは、ママコさんにとっても、パトリシア・ブチボンにとっても、準備していないからとかその気になれないからとかの問題ではない。

「ちょっとばかり披露」することなど簡単にできる。
それで周りの人を感心させることも簡単だろう。

けれども、それは、彼女らの全身全霊が伴わない限り、彼女らにとっては空っぽの猿芝居なのである。そして、彼女らには、猿芝居をする気はない。

時を隔てて、2人の姿が、重なって見えた。
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by mariastella | 2012-02-14 08:03 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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