L'art de croire             竹下節子ブログ

選択か合意か - アベ・ピエールの言葉

先日テレビで久しぶりにアベ・ピエールのことをやっていて、前後は聞いていなかったのだが、その中で、アベ・ピエールが語っているビデオが挿入された。

「人が選択していると思っていることは、ほとんどの場合、同意(合意)しているにすぎないのです」

というワン・フレーズだ。

ちょっとショックを受けた。含蓄がある。

今の世界では、なんでも自己責任とか自助努力とか、表現の自由とか、あるいは、既成の価値やらに惑わされないで自分の頭で考えて自分の生き方を選択しようとか、「自分が主役」という考え方が主流だ。

それが極端に行くと、他を踏みつけるエゴイズムはもちろん、自傷や自死の権利、売春の権利など、にまで及んでしまう。

でも、確かに、私たちが、そうやって複数、または無限の選択肢から「自由」に「選択」していると思っていることのほとんどは、単に誰かから、社会から、システムから、提案または強引に勧められたものに「同意」「合意」しているにすぎない。

「選択の自由」は巧妙に仕組まれた幻想かもしれない。

「2030年までに原発依存率を・・%にするのに賛成か」

「子孫に借金を残すのか今増税や緊縮を受け入れるか」

などという欺瞞的なものから、

「女性がキャリアを優先するか子供を優先するか」など、

とにかく、選択肢の立てられ方、与えられ方そのものが、すでにイデオロギー的だったり、社会や伝統のバイアスがかかっていたりする。

「選択」したつもりでも、そもそも選択肢の与えられ方に反論する余地がなかった場合には、「自分で選んだのだから後は自己責任」だという論は立たない。

幻想の自由を与えるたいていの「選択肢」は、未知の要素、不都合な要素をあらかじめ恣意的に排除し、見ないようにした上で、分かりやすい情報だけを分析し予測した上で準備される。

その恣意的な選択肢を検討した末に最適解を得たかのようなポーズをとり、いざ未知の部分が立ち現われてくると、「想定外」だったと言って、嘆いたり逃げたり諦めたりごまかしたり開き直ったりするスタイルは、今や、特権階級のレベルでも一般人のレベルでもスタンダードになっているほどだ。

ほとんどのケースは、「合理的な最適解」を押しつける「合意」の強制だったのに。

そういえば、レイプ裁判などでも「あれは女性も合意していた」などという弁護も聞かれるが、合意するか殺されるかみたいな強制二択のような状況の「合意」など、「自由な選択」とは真逆のところにある。

登校拒否、引きこもり、二―ト、住所不定などいろいろな社会的にネガティヴな状況も、
社会や環境から一方的に与えられたやり方、生き方に合意せざるを得なかったり、あるいは
どうしても合意することができなかったりする結果であるのかもしれない。
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by mariastella | 2012-08-08 17:58 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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