L'art de croire             竹下節子ブログ

トロムラン島の謎

TV のニュースでトロムラン島の発掘について「ポンペイのような考古学の宝庫だ」と学者が興奮して言っていたのを見て複雑な気がした。

インド洋、マダガスカルの東450kmにある周囲が3,7kmしかないサンゴ礁に囲まれたこの無人島は、絶えず強風にさらされて林すらない平らな砂ばかりの標高7mの島だ。

1722年にフランス人が発見したこの島は現在モーリシャスとフランスの間で領土問題となっている政治的な場所でもあるが、一応フランス領とされていて、1953年に設置された気象観測所の点検のために2カ月に一度フランスの空軍機が訪れるそうだ。

当初「砂の島」と名付けられたこの島が「トロムラン島」になったのは、1776年にこの島で漂流者とその子孫を救った船長の名を冠されたからだ。

1761年に置き去りにされた60人のマダガスカルの奴隷は、15年後に救助された時には、8か月の赤ん坊とその母と祖母と5人の女性だけだったという。

その組み合わせがいかにもミステリアスだったので、調べてみると、1774年に救助を試みた船が、結局島に近づけずにボートと船員一人だけを残して去り、泳いで島にたどりついたその船員が、翌年に男と女数名を連れて筏で脱出したが行方不明になってしまったということだ。

その時に去った船員だか男だかが赤ん坊の父親で、1776年の救助よりも17カ月前(9か月の妊娠期間を足して)の時点では少なくとも男がいたということになる。しかし、もし最初の遭難で残された男女がみなカップルだったとしたら、もっと他に子供や赤ん坊がいても不思議ではないから、ひょっとして島に残っていたのは女性ばかりだったのだろうか。

ことの起こりはこうだ。

1761年、フランス東インド会社が、マダガスカルで男女子供の奴隷160人を密買して当時フランス島と呼ばれていたモリシャス島に売るために向かった。

ところが「砂の島」の近くで遭難し、鍵のかかった船底に閉じ込められていた100人の奴隷と、フランス人20人が命を失った。

この時に閉じ込められていたのがそもそも屈強な男の奴隷で、助かった60人はもとより女子供だったということも想像してしまう。あるいは全員閉じ込められていたのだが、遭難した時に女子供だけかろうじて解放されたのかもしれない。

ともかくフランス人122人とマダガスカル人60人が「砂の島」に漂着、船からはSOSを知らせるための大砲(錆びついたまま今も浜に残っている)や食料や道具類を持ちだし、船の残骸をかき集めた。

島には何もなく、木の実も果物もない環境だ。

船長は正気を失っていたので、リーダーが代わった。

とりあえず、奴隷用とフランス人用の二つのテントを作り、井戸を掘り、鋳造炉まで作って、船を造り、2ヶ月後にフランス人122人が脱出した。

残された60人には少量の食料を置き、すぐに救助に来るからと言い残した。

彼らは4日後にマダガスカルに着き、さらに「フランス島」で総督に救助を要請したが断られた。

「フランス島」の総督は奴隷売買を禁じていたからだ。

奴隷売買を禁じるような人道的な総督がなぜ救助を出さないのかと思うが、奴隷を入れたくなかったのは、奴隷を養いたくなかったからであった。

おりしも英仏の植民地7年戦争の時代で、総督はイギリス軍に島を封鎖されることを恐れていたのだ。

奴隷を買って食い扶持を増やしている場合ではないし、ましてや、総督命令に背いて密売されようとしていた奴隷をわざわざ救いに行っている場合でもない。

乗組員はパリに戻り、ことを知った啓蒙の世紀のパリの貴族やインテリたちは、この置き去りを非人道的なスキャンダルだと見なして騒いだが、おりしも7年戦争が激しくなりフランスが敗れたので、「砂の島」のことはすっかり忘れられてしまった。

最初の救助がこころみられたのは7年戦争が終わって10年も経ってからだったが、試みは挫折した。「砂の島」はそれほどにアクセスの困難な「絶海の孤島」だったのだ。

奴隷取引では、男は骨格で、女は腰の大きさで、子供は歯で選ばれたと言われる。

砂の島に残された60人が何歳くらいでどういう性別だったのかという構成は分からない。

2006年と2008 年に考古学者が「発掘調査」を始めると、珊瑚のブロックでできた数棟の建物が発掘された。

食料になっていたと思われる海鳥や亀の骨も出てきた。火打石や手づくりの各種食器も出てきた。

で、絶海の荒野のような孤島でいったいどうやって15年もサヴァイヴァルが可能だったのかについて、学者たちは調査しながらその貴重な発見の連続に興奮しているわけである。

無人島に主人と奴隷が漂着するというシチュエーションはへーゲルの『精神現象学』の主人と奴隷の弁証法を思い出してしまう。

このケースでは、遭難した場合の危機管理のノウハウがあった船員たちのスキル(船から何を取り出すべきかという判断も含めて)が全滅を救ったとも言えるが、船員がすべて屈強な男たちで、屈強な奴隷の男は船倉に閉じ込められて溺死、残ったのは奴隷の女子供と、船員たちとの間にできた子供、という組み合わせだったのではないのかと、どうしても考えてしまう。

もし奴隷の男女と子供の割合がバランスよく残されたのだとしたら、生き残った数のアンバランスも謎になる。

この島は砂の荒地だから、毒性のある動物や危険な獣もいなかったはずだから、リスクを冒す男が命を落としやすいということもないだろう。

奴隷貿易を弾劾すべきなのは当然だが、長い航海のうちにばたばた死んでいったり、植民地のマニファクチャーなどの過酷な労働条件で死んだり殺されたりした無数の奴隷たちの運命の不当さや苛烈さとはまた別に、何もない空っぽの涙型の孤島で15年も生き抜いて、救出された後は「解放された」という以上の記録を残していない7人の女と赤ん坊のそれからの運命を思うと、万感の思いがこみあげる。

女たちと赤ん坊を救助して「砂の島」を「トロムラン島」にした騎士トロムランは、この時31歳だった。

7年戦争で敗れたイギリスに一矢報いるためにアメリカ独立戦争でも戦った。

聖ルイ騎士章を授与され、フランス革命下でも海軍副総督に出世した。

ナポレオンが失脚してイギリス領のセントヘレナ島に置き去りにされた年の翌年、1816年に、81歳で生まれ故郷のブルターニュで死んでいる。

トロムラン島で生まれたあの赤ん坊は、フランス革命をどんなふうに生きたのだろうか。
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by mariastella | 2012-08-17 07:59 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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