L'art de croire             竹下節子ブログ

「どこでもドア」とカルヴァンの「ダンボール箱」

『カルビンとホッブス(Calvin and Hobbes)』は、ビル・ワターソン(Bill Watterson)のコミックだ。

ネーミングからしてただものではない。

Calvin は宗教改革のあのカルヴァンでHobbesはリヴァイアサンのあのホッブスである。カタカナのタイトルではあまりピンと来ないかもしれないが、アメリカやフランスでこのコミックを手に取る人には明らかにその含意が伝わってくる。

主人公のCalvinは6歳の少年で小学校の1年生という感じ。

ホッブスは彼がいつも抱いているトラのぬいぐるみだが、彼と2人だけの時には大きい2足歩行のしゃべるトラになる。

その掛け合いも面白いのだが、もっとおもしろい小道具は旧式の大型TVが入っていたと思われるダンボール箱だ。6歳の子どもがすっぽり入るくらいの大きなダンボール箱。

子供が「これちょうだい」と言って、自分の部屋で秘密基地にするような大きさだ。

で、この箱が、最初はこの中に入れば恐竜にも昆虫にもなれるような変身ボックスとして使われる。

次は向きを変えて自分の分身(コピー)を製造(5回で機能しなくなる)するマシーンになる。

分身がCalvinの代わりに学校に行ったりするのだ。分身ナンバー4が帰ってきて、「校長室に呼びだされて叱られた」と報告する。分身ナンバー2もナンバー5もすでに校長室行きになっている。
Calvinは「ぼくの評判はどうなるんだ、どうしてくれる」とナンバー4に文句を言うのだが、「文句言うなら自分で学校に行けばいいじゃないか」と反論されて「まあ、なんとかなるだろう」とひっこんだりする。

この箱は最後はタイムマシンとして使われる。

もう宿題が終わっていそうな2時間後に行くとかわりあい細かい実用的なことにも使われるのだが、2時間後も宿題はまだできていないのだ。

このコミックにおける現実と空想の境界の味は、よく読むとちょっと怖い。
脳内世界の現実を見ている感じだ。

たとえばドラえもんの「どこでもドア」を見て、いろんな人がいろんなことを空想するのとは決定的に違う何かがある。

夢の既視感とでも言おうか。

Calvinのダンボール箱を「パンドラの箱」と評した人がいたが、いいところをついている。

ダンボール箱はあまりにもありふれた外観を持つ。そして、日常の中で使い古し、ある時はわくわくしながら中身を取り出したり、ばらして捨てたり、不用品を収納したり、本や書類を死蔵したり、中が詰まったり、空にされたりの繰り返しの中で、それ自体は「なにものでもないもの」でしかない。

なんとなく、「穴」みたいな存在だ。

忘れられた記憶の穴。

ドラえもんが「未来から来たネコ型ロボット」で、のびたくんの友人であるとともにメンターとしての「使命」とか「意味」を持っているのに対して、ホッブスは、Calvinの自我の投影なのか逸脱なのかよく分からないが、ともかくその本質は「ナンセンス」であり、「不条理」を抱えている。

誤解を恐れず言ってしまうと、Calvinとホッブスとダンボール箱が生む奇妙な世界は、ある種の「霊能者」と自称する人たちが日常見ている(らしい)世界に似ている。

Calvinとホッブスの世界に親和性のある人、違和感を覚えない人たちが確実にいて、その人たちの「リアル」とはこういうリアルなのだ。

これを「子供の世界」と言いかえると、無難なのだけれど、少し違う。

なぜなら、それは、そのリアルをキャッチできない人にとって、

「ほほえましい世界」

などではなくて、

「見て見ぬふりをしなくてはならない世界」

であるからだ。
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by mariastella | 2012-08-19 22:28 | 雑感
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