L'art de croire             竹下節子ブログ

フランドル派の風景

リールの美術館でやっている二つの展覧会について。書くのが遅くなったが、1月14日までやっているので、観に行ける人はぜひどうぞ。

パリ北駅からTGVで一時間足らずだし駅からも徒歩で行けるので日帰りで十分見られる。

それにパリの美術館の特別展より安い。6ユーロ50で

Fables du paysage flamand /Bosch Bles Brueghel Bri
l(フランドル風景の寓話)

Babel (バベルの塔をメージした作品展)


の二つが見れて、聞き取りができない人のために文字のヴァージョンもある最新式のイヤホンガイドが1ユーロで借りられる。
市長のオーブリ―女史が社会党の大統領候補プレ選挙の時に大型文化予算をとると公約していたのもまんざら嘘じゃないんだなあ、と思う。

このくらい興味深い展覧会なら、日本的な感覚なら東京でもやるんじゃないかと思ってしまうが、これはリール独自の企画で、パリではやらないという話だった。

私が最も知りたかったのは、たとえばボッシュのあのシュールで幻想的な絵が、当時の人の目には一体どのように映っていたのだろうか、ということだった。

ボッシュの絵に出てくる不思議な動物やら不思議な植物やら、人や動物の顔を連想させるやたらオーガニックな風景などは私の子供の頃の日本でもすでによく知られていた。

悪魔的で倒錯的で怪物的なテイストはインパクトがあり独特な印象を残していたが、ボッシュがレオナルド・ダ・ヴィンチと生没が重なるルネサンスのほぼ同時代人だという意識はなかった。

ダ・ヴィンチの画はさらに有名だったが、いかにも西洋ルネサンスの典型的名作という感じで刷りこまれていたので、ボッシュの自由で怪しい造形が、まさかダヴィンチと同時代の同文化(キリスト教文化圏という意味)だということは実感したことがなかったのだ。

今思っても、ボッシュの絵に出てくるさまざまな造形は、昨今のゲームの世界のキャラと親和性があるくらいに現代性がある。

実際、リールの美術館ショップにも不思議な動物のフィギュアが販売されていたけれど、まったく古さを感じさせない。このセンスは一体ボッシュ独特のものなのか、そして、当時の人たちはこれをどのように見ていたのだろうか。

いろいろな答えがある。

まず、キリスト教世界ではカーニヴァルなどの特別なガス抜きの時期を除いて、天地創造をした神の秩序を乱すような表現はタブーだったことだ。半獣半人などという姿や、神の創ったさまざまな動物の部分を合体させたような動物を人間がかってに合成するのも冒涜だ。

また、人間は神の「似姿」として創られたのだから、美しい均斉が求められる。

もちろん「原罪」によって「似姿」状態から一度は失脚したのだから、不均衡はすべて罪や悪や誘惑を連想させる。

奇形の体(teratomorphe)というのも、だから、地獄の含意と共に表現されるのだ。

これは、たとえばインドの神々だとか、マヤの神殿などで、そもそも「超自然」でこの世で実際に目にしない形や組み合わせを畏怖の対象である神像として堂々と視覚化するのとはかなり違う。

タブーであるからこその、あやしいが生き生きした感じがあるのだ。

次に、これらの絵が、広く民衆の教化のために描かれた聖像ではなくて、ブルジョワや貴族たちの個人の注文によって描かれたもので、基本的に個人の所蔵だったことだ。

つまり、これらのタブーの絵柄や怪物の姿に魅惑されたマニアがいて、気に入ったモチーフを何度も執拗に描かせたらしい状況がある。

模写もたくさんあり、さまざまなヴァージョンがあるのだ。

強迫的になほど細部の書き込みがあるが、みな「個人が時間をかけて何度もじっくり眺める楽しみ」を想定しているのだとしたら納得がいく。

実際、この展覧会のポスターにもなっているボッシュ(の作品を摸したものらしい)の『楽園』という作品などは、3メートルくらいにまで拡大されているものもあるのだが、実際のものはたった24.5x19.5という小ささだ。

小さいと言えばブリューゲルの作品もたいていは小さく、日本の学校の教科書にもよく載っている冬の風景(息子)など、すごく情景が細かいのに33x57センチくらいしかない。

ブリューゲル(父)は、実際、細密画の名人として知られていたので、有名な四代元素の絵の『火』
の左端にある装飾品の描き方などはまさに職人技だ。

こういうのを見ていると、日本ならサイズ的にも「絵巻物」のイメージなのだが、板の上の油彩だというのに驚く。

風景の独特さや描き込み方の異常な緻密さと豊饒さのもう一つの理由は、この時代が大航海によって「新世界」のさまざまな新しい動植物を発見した時期で、いわば博物誌、百科事典のようなものを一つの画面に網羅することが求められたことだ。

そしてそれらの動植物が満載されている風景も、いわゆるWeltlandschaft(世界風景)というやつで、空あり山あり岩あり海(川、湖)あり、森あり村あり畑あり、建築なら世俗のシンボルの城もあれば聖なる教会もあるといった具合に「万物」が所狭しと描きこまれる。

点在する人間の活動も狩りやら農耕やらいろいろだ。

その風景の中にもまた人間の顔の形が隠れているなど、ルネサンスのミクロコスモスとマクロコスモスの対応の思想がよく現れている。

古典的なイコノグラフィのコードに従うのではなく、いろんなところにいろんな仕掛けがしてあって、まるで複雑なほどいい、という饒舌ぶりで、「絵解き」の趣向がはっきり見て取れる。

もちろん表向きは、被造物である自然という、「神によって書かれた書物」の解読が目的である。

だから、画のテーマが何であろうと、舞台装置はすべて「宇宙」なのだ。

実際は、そのような細密な名人芸によってびっしりぎっしり描き込まれた情報を「所有」することが有産階級によって欲望され、発注され、彼らの期待にこたえたからこそ作品群が生まれたのだろうが。

19世紀以降には、それらの風景があまりにも意味ありげなので、絵のテーマや人物像は単に風景を担保するだけのものなのではないかと解釈されてきた時代もあった。

しかし、神話や聖書や聖人伝のシーンは、作品の口実などではなくて、風景と共に、すべてを包含する有機的な全体を構成している。

エラスムスの影響が大きいHenri Bles(ヘッリ・メット・デ・ブレス)の Montée au Calvaireは十字架を背負ったイエス・キリストのゴルゴダへの道行だが、やはり小さい画面に驚異的な密度で風景や情景が描かれているのだが、中心人物であるはずの、十字架の重さに膝をついて倒れたイエスの姿は、とても小さく、しかも後ろ向きでお尻を向けている。

市に買い出しに行く風情のフランドルの人々はその様子を遠くから画面の前景でながめているだけで、画面の主役は、エラスムスも言及する海の怪物セイレーンを思わせるカルバリオ山の岩の形だ。

ともあれ、見渡す限り平野の広がるフランドルの風景を見慣れている人々にとっては、山、海、森、村、畑が隣接するこのような風景は、さぞや強烈な、非現実的なインパクトがあったに違いない。

この点については、日本人が見ると、海岸に山が迫っていたり村や畑もすぐそばにあるというような風景はむしろ見慣れたものだから、普通にリアルに見えてしまうのがおもしろい。

だからそこで起こっている出来事のディティールによけいに目が行ってしまう。

すべてが演劇的である。

個人的に好きなのはSimom de Meyleの『アララト山のノアの方舟』で描かれる方舟から出てきた動物たちの様子だ。

40日ぶりに陸に上がった動物たちはそれぞれの生態を繰り広げている。どの動物も種族保存のためにつがいで方舟に乗ったはずだが、ライオンなんて上陸するとさっそく馬を襲っている。

それでは馬が繁殖できなくなるかと心配だが、方舟からまだひとつがいの馬が下りてきているから、ライオンに襲われたやつはもともと食料要員だったのかもしれない。

そんな中で右下のネコだけがちゃっかりと魚をくわえているのも楽しい。

なるほど大洪水で陸の獣は絶滅の危機にあったが、魚たちは別に困らなかったので、水が引いた後にたくさん打ち上げられていてネコちゃんも満足なのだろう。

エキゾチックな動物たちも、多分想像で描いているだけなのに、えらくリアルなタッチでたくさん登場している。

このような風景の描き方を説明するもう一つのヒントは、フランドル派の画家たちもイタリアで修行してきたので、イタリア演劇の芝居の舞台背景の影響を受けているということだろう。

風景のパースペクティブの色使いや、切り取り方が、芝居的なのはそのせいだ。

これは即、その後の時代にフランスのバロック・オペラで花開いたからくり仕掛けやら大道具らを思い出させる。

私は『バロック音楽はなぜ癒すのか』でパリ郊外にあるコンデ城のことをレポートしたことがあるが、まさにあの世界でもある。

だまし絵の伝統も欠かせない。

最近、バロックつながりで知り合いのセシル・クータンが早稲田大学の演劇博物館でカムフラージュと舞台美術についての講演をするために日本に行った。彼女は、フランスが第一次大戦の時に、軍隊の迷彩服や、兵や大砲を隠すためのさまざまなカムフラージュのために当時のアーティストを徴用したことについての興味深い本を出したところだ。

ある効果を狙って人工的に精緻に自然を再構成するというフランス・バロックのお家芸が「だまし絵」の伝統と結びついた例である。

フランドル風景画における内的ビジョンとリアルとの葛藤、ミクロコスモスとマクロコスモスの並列、現実と非現実の融合、ポエジーとアレゴリーの共存、ディティールと全体の拮抗などは、まさに、フランス・バロック・オペラにおける演劇的世界観と共通しているのだ。

しかし、いくら背景が宇宙的であり、ディティールが練り込まれているといっても、そこで展開されている活動が総花式ではなく一つのテーマに絞られていながら、細部の量だけで迫ってくる場合には、演劇的というより、細部に宿る執念の発する臭気のようなものにあてられてくらくらする。

たとえばブリューゲルの『イッソスの戦い』のような作品は「群像」などというレベルを超えている。

これを見てるとなんとなく会田誠さんの『灰色の山』を思い出した。

こっちは細密画どころか3mx7mの大作だそうで、実物を見たことがないので、積み重なってボタ山のように山の稜線をなす背広姿のサラリーマンの死体のサイズはわからないけれど、量と質の転換点とか、ディティールと全体の拮抗という意味でつい連想してしまった。

この会田さんは毎日細かい絵を描いているとストレスがたまると言っているのだが、こういう精密作業を楽々、延々と続けることができる人だっているのだろう。

リール美術館のもう一つの展示「バベル」でも、そういう偏執的な細かいこだわりがあふれる作品がたくさんある。

バベルの塔は天まで届くようにと建設が続けられたのだから、壮大で、そこに働く人間の姿は相対的に微小だ。

しかも、神罰とか崩壊とかいう終末論的ビジョンが当然ともなう。

そのような飽くなき欲望と挫折やカタストロフィにこだわるイメージは、デジタル写真やCGアートでは自在に合成したりリピートしたりして展開可能だから、野心的な作品がたくさんある。

しかし、そんな中に、ぎょっとするほど生の「ディティールだけ」という作品があった。

ミニチュア・フィギュアの兵士や骸骨やらがグロテスクに折り重なってぎっしり詰まっている。全体はかなり大きい。(215x127.5x127.5)

(次のようなブログをスクロールしていくと出てきます。)
http://www.les-lectures-de-cachou.com/categorie/les-expos-et-visites/
http://www.artabsolument.com/fr/default/exhibition/detail/1447//Babel.html
http://dandylan.canalblog.com/tag/Lille (7/17のところ)

部分の情景はあまりにも細かいので近くに寄らないと何があるのか分からない。

そしてディティールのそれぞれに繰り返しがなく、すべてに丹念な「演出」と「構成」があるのに驚き、それでいて、不思議と、有機的な「全体」のイメージは生まれない。

背景がないわけではないし、個々の部分を支える大道具も小道具もそえられているのだが、「全体」はなぜか、常に部分のおぞましさへと還元される。

リアルな細部で起こっていることがいつか全体のイマジネールに結晶していくという感覚は持てない。

ナチスのホロコーストをイメージしたというが、人間の悪意とか、残酷さとか、サディックな倒錯ぶりをこれでもかこれでもかという感じであれこれ工夫しながらグロテスクな光景を繰り広げては並べ、積み重ねる。

あまり驚かされるので、じっくり眺めてしまうことへの罪悪感とか怖いもの見たさへのうしろめたさなどすら感じる余裕がない。

こんな気持ちの悪いものを見たのははじめてだ。

こんなものを制作する人の正体を知りたい。

Jake & Dinos Chapman というイギリス人の兄弟だった。

作品タイトルはNo Woman No Cry という。

もともとエログロで挑発的な作品を出している人たちのようだが、ここまで細かくて数が多いと、アイデアやコンセプトとは別の何かが彼らを突き動かしているのではないかと思ってしまう。

同じことをデジタル処理画像などでやるのならどうということはないが、一体一体のグロテスクなミニチュアを情熱をこめて制作していくというのは、ほんとうに「全体」への志向に支えられてできることなのだろうか。

実は、この作者が誰だろうと考えた時に、なんとなくイギリス人かなあと思った。

なぜだかダミアン・ハーストのホルマリン漬けアートのことを連想したからかもしれない。

調べると、チャップマン兄弟もハーストと同世代だ。

人間がバベルの塔を建てようとしては壊したり壊されたりしてきた歴史の中で、ルネサンスから21世紀までのアーティストの心の風景がどのように変容してきたのかに想いを馳せるのはとても興味深いことだ。

でも、目をそむけたくなるような「普遍」も、確かに、ある。
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by mariastella | 2012-12-10 05:52 | アート
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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