L'art de croire             竹下節子ブログ

宗教と社会 その2

この前の記事の訂正と補足。

義妹と北駅近くのインドレストランで食事した。国民議会の公聴会に招かれたムスリム代表はイマムではなく信者代表だったそうだ。

招かれる基準は、フランス全国を代表するということで、フランスのイマムにはそれぞれの地域のイマムしかいなくて全体のトップという立場の人がいないので信者代表が選ばれたわけだが、彼の言うことはイスラムの宗教者の見解とは直接の関係がない、というのが宗教者側の見解だ。

ユダヤの方は、フランスの大ラビが出ていたのだが、この人はいわゆる信者組織の代表とは結構対立していて、ラビの数より信者の数の方が多いのに、信者代表が選ばれないのは納得がいかないという立場だそうだ。

当然だが、宗教界の代表たちと言ってもみな一枚岩などではない。

同性婚容認法案の後には、安楽死を合法化する法案が控えていて、これについても宗教者代表の公聴会があるはずだ。
こちらのテーマに対しては、他の一神教系(カトリック、プロテスタント、イスラム、正教、ユダヤ)は「条件付きで容認」に近いスタンスだそうだ。

義妹の方は、仏教者代表として「絶対反対」である。

同性婚の場合と同じく、一神教VS無神論的立場の差がくっきりと表れている。

安楽死=死の床で苦しむ人の自殺幇助とは「殺生」であるのだから仏教的には全く容認できない。

死ぬ前に苦しんだとしてもそれもカルマの結果であるから、そこに自殺を望むというような悪いカルマを付け加えたら来世はもっとひどいことになる、この世の生は死もふくめて最後まで受け入れなくてはならない。

そもそも死を恐れるのは死の後に何もないと思っているからだ、という。

私は、でも、たとえ死後の世界があると信じていても、いや、次があると思うならなおさら、事故や老いや病気などで痛んだりボロボロになったりした体から早く離れて自由になって次に進みたいと思うのでは、と質問した。

すると、今の痛みを苦しみと感じるようでは自由からは程遠いので、本当に覚醒すれば、痛みは痛みとして受け入れられるものだ、その時には肉体があろうとなかろうとどんな状態であろうとすでに自由なのだ、と言われた。

逆に今のカルマを受け入れられないなら、今よりもっと恐ろしい死後の世界が待っているかもしれない、と。

私は痛みに弱いから、痛みが去らないまま死ぬならその時間は短い方がいいと考えることに共感してしまうが、今は痛み止めの方法が進化しているから、「死にたい」と言っていた人も痛みがとれると「もっと生きたい」と思うものだそうだ。それは、安楽死以外の痛みの消失があるならその方がいい。

義妹のラマである高僧ゲンラ(本名は伏せる)は今スイスにいる。

教義を民主主義的多数決で整理していこうとするダライラマと彼が対立していることは前に書いた

彼はチベットが中国に侵略される前に最高の教育を修了した最後の世代である。

ラサの僧院は中国の政策によって深刻な打撃を受けたし、インドの亡命政府やインドにできたチベットの僧院でも、伝統を継承させ続けていくことは困難である。

けれども、もともと広大なチベットの東側で前から中国の「支配下」にある地方の僧院は、共産軍のラサへの侵攻やダライラマの亡命などの政治的事件の影響をあまり受けなかった。

だから、哲学としての仏教の真髄が、どこよりもしっかりと受け継がれているそうだ。

その地方のあるラマが、ゲンラが2年前から発信しまくっている呼びかけに呼応して、2人はスカイプで長々と話を交わす仲になった。

まだ50歳前後の若くて力のある世代のラマがが、しっかりとゲールク派の伝統を受け継いでいることを知ったゲンラ(ゲンラは86歳)は喜んだ。

そのラマが二週間のビザでスイスに講演に来たので、ゲンラが会いに行ったのだ。

確かに、ヨーロッパで千年も権力闘争に関わっていたキリスト教がいろいろな分派だの改革だの近代化だのを重ねていったことと、チベット仏教が侵襲されて、共産主義と民主主義の両方から「近代化」を押しつけられて変質するのとは文脈が全く違う。

その意味で、ゲンラやその弟子の義妹らが「伝統」を死守しようとしているのは、キリスト教なら「保守主義」とみなされるだろうが、むしろ革新的にさえ見える。

特に、フランスで、ぎとぎとの「一神教」的環境にもまれている「一神教」出身の義妹のような仏教者は、ほんとうに「無神論」的なスタンスを平気で表明するからだ。

私もフランスでは「仏教は宗教ではない、哲学だ、生き方のマニュアルだ」、とか言われているのを昔から嫌というほど聞かされてきた。

でも、どうみても、たとえば、冠婚葬祭、特に葬送儀礼において庶民の生活の中で仏教が日本において果たしている役割とカトリックがフランスで果たしている役割とは重なっている。

難しい神学や教説や建前はどうあれ、普通の人は、苦しい時に神仏に祈ったり、すがったり、生と死の境界において自分の属する共同体がある程度共有しているシェーマを頼りにして慰め合ったりしているのだ。これが宗教的でなければなんだろう。

フランスでは政教分離法があってアルザスロレーヌ以外では政府が宗教に助成金を与えることはないけれど、ベルギーでは助成金がある。

ベルギー王室は伝統的にカトリックなので、カトリックに特権がないと言えばうそになるが、とにかくどんな宗教でも、一定の基準を満たしていて政府に宗教だと公認されれば決まった助成金が出て、プロの聖職者の生活はある程度楽になる。

もっともそのベルギーでもフランスにならってその制度をやめようという論議もあるのだが、その恩恵を受けている仏教者の間でも、我々は宗教ではない、哲学でありスピリチュアリティ(霊性)なのだから、助成を断ろうという動きもあるそうだ。言いかえれば、助成金を受けていたら宗教と見なされるわけでそれに違和感があるらしい。

フランスの仏教は、カトリック、イスラム、プロテスタントに次ぐ四番目の宗教だが、信者のほとんどは仏教国出身のアジア人だ。

義妹のように元カトリック(というか他に宗教の選択などない環境であり、小教区がいわば町内会という町の出身である)のインテリが仏教に帰依して学僧になったケースでは、当然、フランスにおける何世紀にもわたるカトリック教会と世俗との対立だとか妥協だとかの全歴史をかいくぐった無神論の洗礼を受けている。

彼女は異宗教間対話にもしょっちゅう駆り出されているので、彼女に対するカトリックの聖職者たちの対応も興味深い。宗教と社会の関係というのは、案外、そういう個々の人間の心理のすり合わせに露わになってくるものかもしれない。
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by mariastella | 2012-12-21 06:41 | 宗教
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