L'art de croire             竹下節子ブログ

サンタクロースの話

少し前にフランスのある幼稚園で、今年から恒例のサンタさんのクラス訪問を廃止するという通達が出されて話題になったことがあった。

その公立幼稚園にはムスリム家庭の子どもも多く、キリスト教の行事を子供に押しつけるなという親からのクレームがついたからだそうだ。

このニュースが取り上げられると、クリスマスやそれにまつわるいろいろな「子供向けの行事」はフランスでは日本の正月のような伝統行事なのだから、それに対して宗教の文脈であれこれ言うのはおかしい、それこそフランスをイスラム化しようとするイスラム原理主義による介入だ、などとという声があがった。

実は、毎年、これに似た事件はフランスのあちこちで起こっている。

この件は、教育委員会が「サンタクロースは宗教(キリスト教)ではなくて異教のキャラであるから関係ない」というこれも変な見解を出して、結局、サンタさんのクラス訪問は続けられることになったようだ。

では、普通のフランス人に「サンタクロースって何?」と聞くと、「子供のためにつくったお話のキャラ」などと言う人もいた。

フランスではサンタクロースはPère Noël とかPapa Noël とか呼ばれる。

サンタクロースの語源( ?)の聖ニコラウスはサン・ニコラと言って、確かに子供たちにプレゼントを配りに来る伝説の聖人であるが、その祝日は12月6日で、その日にプレゼントを配ったり、聖人型のブリオッシュが売られたりということは、地方によっては今でも根強くある。

それに対して今や「全国区」の「パパ・ノエル」の方はどうだろう。確かに「サンタ」という「聖人」のタイトルもついていないし、フランス語ではクリスマスを表す「ノエル」という言葉自体も、「誕生」という意味だから、「キリストのミサ」っぽい「Christmas=クリスマス」ほどにはキリスト教的ではない。

冬至の頃に大人にも子供にも鞭をふるう怖いおやじのようなゲルマンの「ナマハゲ」キャラもあるので、「サンタクロースは異教のキャラ」と言ってしまう人もいるわけである。コカコーラの宣伝が起源だとか、商業ベースのキャラであると言ってしまってはますます子供たちの夢をこわすからかもしれない。

今年は学期末が21日の金曜に当たったので、実際、あちこちの幼稚園でサンタクロースが現れた。

子供一人ひとりの名を呼んで、プレゼントを渡すが、すぐにクリスマスツリーの下に置いておき、クリスマスの朝になるまで開けないこと、という条件もあるらしい。
イヴの夜のサンタさんは別枠の戸別配達で忙しいから子供たちには会えない。
で、クラスにやってきた特別のその日には子どもたちはサンタさんに抱きしめてもらえる。

そのサンタさんがインタビューされているのを見たが、子供たちの感動を見たサンタさんの方が感動して胸を詰まらせていた。

何かを与えに行ったはずの人が、相手からもっと多くのものを与えられる、という典型的なシーンだ。

こうなると、サンタさんは子供たちのためというよりも、子供たちのすなおな喜びを分けてもらえる大人のための存在かもしれない。

ひとこま風刺マンガにこういうのがあった。

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イヴを過ごすためにやってきたらしいおばあちゃんらしき婦人に、その息子らしきパパが「子供たちももう大きくなったから、サンタクロースのことを説明することにしたんだよ」と言っている。

その横で2人の子供を急かして「用意できた ? みんないっしょに深夜ミサに行くのよ」と言っている母親。

ツリーの後ろでは、子供たちが言っている。

「えーと、ぼくらは…」「神は存在しないってことを大人たちにいつ話す ?」

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史実としてのイエスの誕生日が12月25日でないことは常識だし、ベツレヘムの馬小屋で生まれたということの信憑性も少ないし、誕生にまつわる他のあらゆる「神話」も、真偽の検証のしようがないことはみんな知っている。

それなのに、大人たちが子供たちを連れていく教会のクリスマス・ミサでは必ず「馬小屋」の飼い葉桶に赤ん坊のイエスが寝かされる。星が光り、天使が舞う光景が毎年想起されて、大真面目に讃美歌が歌われるのだ。

そんなことを続けるのなら、大人たちが子供たちに「サンタクロースは存在しない、サンタクロースとは実はパパとママなんだ」などとわざわざ「打ち明ける」必要なんてあるのだろうか。

子供たちのサンタクロースやクリスマスの喜びを生んでいるのはサンタの存在証明などではなくて、「期待」と「確信」なのだ。

考えてみると、起きている時には目に見えないけれど、信じて待っていれば眠っている間にプレゼントを置いていってくれて目覚めればそれを確認できる、などという仕組みは、この世では姿が見えないけれど、この世での生を終えて天国に目覚めればその姿を確認できるというキリスト教の神さま観と同じだ。

サンタクロースを通じて、子供たちは目に見えないものの存在を「信じて待つ」というキリスト教の基本を学ばされているのかもしれない。
幼稚園のクラスに限定的に現れて子供たちを抱きしめてくれるサンタさんの姿は、神が人となってこの世に限定的に現れてくれたイエスの生誕を祝う心と重なるのかもしれない。

だとしたら、起源がなんであろうと、クリスマスとサンタクロースとがセットになって現れるのはうまくできている。

「サンタクロースは実在しない」などと子供の夢や期待を打ち破っておいて、幼子イエスの誕生だけを祝えというのは難しい。

夢や期待は「実在性」に左右されるのではなく、「信じる」かどうかに左右されるのだから。

キリスト教の「人となった神」は、この世で権力をふるったわけではなく、「無償で人々を救いたい」というスタンスで生き、あげくに、そういう善意の人々がしばしばみまわれるような悪意の犠牲になってあえなく惨殺された。

だからキリスト教の「信じる」は、「無償で他者に与える」という「愛」に支えられていないと本物ではなくなる。

でもこの「無償で他者に与える」というのはなかなか難しい。

それが比較的簡単なのは、「小さな子供たち」を対象にする時である。

だからクリスマスには、親たちも「パパ、ママ、ありがとう」という言葉を必要とせずに「匿名」でプレゼントしようとするのだろう。

教会へ行けば、十字架上で苦しそうにしているキリストを見上げて「私たちの罪のために御苦労かけて申しわけございませんねえ」と恐縮する代わりに、寝かされている幼子イエスをやさしく見降ろして「お誕生日おめでとう」と笑いかけられる。

考えれば考えるほど、「みんながハッピー」の可能性を持った行事である。

キリスト教国でサンタクロースを信じている子供たちと近所の教会にクリスマスのミサに行ける家族って、うらやましいかも。

みなさん、メリー・クリスマスemoticon-0123-party.gif
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by mariastella | 2012-12-23 01:41 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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