L'art de croire             竹下節子ブログ

B16(ベネディクト16世)のリタイア : 最後のメッセージ


昨日(これを書いているのは2月28日)のB16の一般謁見での別れの言葉は、今こうして全文を改めて読んでみると、感涙ものだ。

日本のカトリック評議会か何かのサイトにも全訳が載っていないかと探したが、今の時点では見当たらなかったので、フランス語訳のみ紹介する。

どこが感涙ものかと言うと、

一つには、

おとうさんが、子供たちの前から姿を隠す前に、愛していたこと、愛していること、これからも一人一人を愛し続けると表明したことだ。

私は自分の父親のことを思い出した。

父は亡くなる前に看護師さんにも母にも手を合わせて、ありがとうありがとうと感謝したそうで、それだけで、母にとって、亡くなった後の父の株は高騰した。

私はもちろん充分過ぎるくらいに父の恩恵を受けているし、愛されていたと思う。

けれども、もし父が、B16のように

「私は毎日、あなたたち一人一人を祈りの中で、父親の心を持って抱いていました」

のような言葉を最後に残してくれていたら、どんなに感動しただろう、と思わざるを得ない。

B16からこう言われて、私ははじめてB16が私の父親でもあり、B16から毎日愛されていたのだということを知らされた。

「一方的に愛されていた」んだなあ、という気分だ。

この世で子供を持った人や子供を育てることにかかわった人たちは、すべて、その「子供たち」を愛したこと、愛し続けていることを、死ぬ前に、あるいは姿を消す前に、きっちりと言い残しておくべきだと思った。

今や、重篤な病にかかってその闘病記をブログに書きつづって、同病の仲間を力づけたり経験を分かち合ったりする人はたくさんいるけれど、たとえ無理をしてでも、身近な人に向けた愛の気持ちをできるだけ残しておくべきじゃないかと思った。

もう一つは、B16が、ガリラヤ湖で漁をしていたペトロの後継者であり続けて、ローマ・カトリックという巨大な船の船長などではなく時として逆風や荒波に翻弄される小舟の船頭であると感じていて、それでも、その船が決して沈みはしない、という絶対の信頼に基づいたオプティミズムと喜びを表明していることだ。

イエスとその使徒たちは最後の晩餐の後で賛美の歌を歌ってからオリーブ山へでかけた。

この「喜びの歌」なしにはその後の受難は苦しみの連鎖ばかりになる。

次の日の朝に鶏が最初に声を挙げて再び「歌う」までの暗闇の間に、後に初代ローマ司教となるペトロはイエスのことを「知らない」と言って逃げた。

トマス・アキナスの『神学大全』には「悪とはなにものかではなく、あるべき善が失われている状態である」(De Malo 1-1)とある。

キリスト教的には、神は愛であり愛は善であるから、愛によって愛の中で創造されたこの世は愛であり善であるほかはない。

「悪」と見えるものは独立した要素ではなくて何らかの理由で愛が不足したり迂回されたり倒錯したりした状態だというのだ。

太陽はいつも輝いている。

地球が回って夜になって太陽の光が一時的に見えなくなるとしても、それは光の国と闇の国があるわけではない。

キリスト教が善悪二元論を必死に否定してきたのには意味がある。

アウシュビッツを見て、ヒロシマを見て、自然災害の犠牲者を見て、人は「神も仏もあるものか」、などと叫ぶけれど、キリスト教はそのような「現実」の善悪を見て神がいるのかどうかを考える宗教なのではない。

まず愛ありき、と絶対肯定から出発して、「現実」の闇の中に光を求めたり、眼前の悪の様相をどのように「本来の善」に向けて変革できるのかを問い続けたりする宗教なのだ。

「現実」の「生老病死」を目にして衝撃を受けて出家した釈迦の悟りを基盤とする仏教とはベクトルが全くちがう。

その意味で実にめでたい宗教である。

「福音」とはよく言ったものだ。

キリスト教と言えば十字架に釘づけされて血だらけになっている神の子の姿を崇める陰気でマゾヒスティックな宗教かと思う人もいるが、そして実際そういう苦悩を背負った顔をしているキリスト者もいるわけだが、B16の最後のメッセージに込められた一種の屈託のない喜びは、「絶対肯定」のもたらす自由のすがすがしさを感じさせた。

こういうメッセージをちゃんと残せただけでも、現役教皇の自由意思によるリタイアの意味は大きい。

この世には慈父、尊父と国民から慕われるような英雄や元首だの聖人聖女だのがいるけれど、そして彼らは世を去る時にもちろんすべての人から惜しまれ、涙を流されるわけだけれども、その人たちがまだ比較的元気なうちに、愛や希望のメッセージを用意して伝えてくれればどんなにいいだろうとも思う。

偉大な指導者がなくなっただとか、一つの時代が終わった、という悲しみやノスタルジーではなく、残されるすべての人々に向けた喜びベースの肯定的なメッセージは希望と連帯を促してくれるだろう。

この世の現実を見渡すと、利害や権力、欲望や独善、不平等や不条理にまみれていて、まともな人なら怒りや絶望をおぼえるばかりだけれど、だからこそ、ささやかでも喜びのメッセージの発信が必要だとつくづく思う。

てはじめに、今、このブログを読んでくださっている方、

あなた方一人一人を私は大切に思っています、

とここに表明しておこう。

B16、ありがとう。
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by mariastella | 2013-03-01 00:06 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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