L'art de croire             竹下節子ブログ

フランチェスコという名前

教皇ネタばかり書いていると他のことが書けなくなるのでそろそろ休もうかと思っているのだけれど、「フランチェスコ」という名前について少し書きたい。

最初に発表された時にも「フランチェスコ」だったのだが、各国メディアはいっせいに「フランチェスコ一世」と配信した。

ヴァティカンはただちに「二世」が出てくるまでは「一世」とは呼ばない通達を出した。

これは、もともとローマ教会や王の伝統である。

ナポレオンもナポレオン二世の即位(短かったが)によりナポレオン一世となった。

しかし今でもナポレオンが通称だ。

新教皇が今まで使われていなかった新しい名前を選択したのは1978年にヨハネ=パウロ一世がはじめて複合名を選択して以来である。

とはいっても、前回は、前任者であるヨハネ23世とパウロ6世に敬意を表したのもので、ヨハネもパウロもそれ自体はビッグネームだ。

それ以前の新名選択は913年のランド教皇にまでさかのぼる。

でもランド二世というのははその後出ていないので、今でもランドであり「ランド一世」とはよばれない。

けれども、ヨハネ・パウロ一世の場合は、なぜか最初の発表時から「一世」をつけられていた。

その方が例外だったのだが、結局二ヶ月ほど後にはヨハネ・パウロ二世が誕生してしまったのだからその例外が注意をひく暇はなかった。

ともかく、「一世」とはつけない、ということで、フランスのメディアは安心するとともに少し困っている。

困っているのは日本でも同じだろう。

「…一世」と書けば必然的に称号の印象があるから、わざわざローマ法王だとか聖父だとかいう形容や尊称をつけ加えなくてもいい。

でもフランチェスコという本来はファーストネームであるものを呼び捨てにするのはちよっと抵抗がある。

とくに、フランス語ではフランス語読みで「フランソワ」というので、至極平凡な名前になってしまう。

フランソワ・ミッテランの後に続く社会党の現大統領も、フランソワ・オランドだ。

フランス語ではフルネームを言えば敬称は必要ないので公人のフルネームの呼び捨てはよく使われる。

だから、フランソワというファーストネームは今フランスのメディアで一番多く登場するもののひとつであるのは間違いない。

聖フランチェスコと言えばアッシジのフランチェスコなのだが、この人は生まれた時に父親がフランスに仕事に行っていたのでそれを記念してフランチェスコと名付けられたそうだ。北イタリアではフランスとの交流が盛んだったのでフランス人という意味のフランチェスコが人気だったらしい。(フランスはフランク族"Franci"に由来する。フランクとかフリーの語源でもあるラテン語の自由人"Francus"という含意もこめられるようになった。)

フランスでは逆にローマに巡礼した人がロマンとかロメーヌとかいう名をつけていたが、フランソワという名は少なかった。

アッシジのフランチェスコが1228年に死後2年で聖人となり、フランチェスコ修道会が大躍進したことで15世紀頃からフランスでもフランソワやフランソワーズがよく見られるようになった。一斉に増えてスタンダードな名となったのは、歴代のフランス王で最も有名な一人、レオナルド・ダヴィンチのパトロンとなったことでも有名なフランソワ一世(在位1515-1547)の後である。

フランスでは政教分離が徹底しているから、もしフランス人枢機卿が教皇になればフランス王を連想させる名前は絶対選択されないだろう。

で、フランチェスコ一世、と最初に報道された時には当然フランス語読みの「フランソワ・プルミエ」だったのでみなが違和感を持ったはずだ。

これまでは「フランソワ・プルミエ」といえばどのフランス人にとっても「ルネサンスの王さま」だったのに、これからは教皇の名として一番よく使われるのかと。

で、プルミエ(一世)を外すように言われて、多分みながひそかにほっとしたと思う。

けれども今度は一番平凡な名(今の若者には極端に少ない名であるが、今政治や経済の中枢にいる世代には多い)を呼び捨てにしなくてはならないのだから、称号をいちいちつけ加える必要が出てくる。

姓がないのだから仕方がない。

アッシジの聖フランチェスコは映画『ブラザー・サン、シスター・ムーン』によって日本でも知られている。

彼の名を冠されている「平和の祈り」もマザーテレサ、サッチャー、クリントンなどに引用されていて世界的に有名だ。

太陽は兄弟、月は姉妹と称え、小鳥に説教したと言われるように、フランチェスコは清貧を守って野山を歩き回った。

で、1979年には、神の創った万物を守るエコロジーの守護聖人という称号をJP2から与えられた。エコロジーはB16の優先課題でもあった。新教皇の名前のチョイスにもその路線の継承がうかがえる。

アッシジのフランチェスコは当時のローマ教会の権勢の対極で私有財産を拒否し、福音にしたがって生きた。

新教皇のこれまでの生き方からも、彼がこの聖人を標榜していることが分かるだろう。

さて、就任時から「一世」を名乗ったヨハネ・パウロ一世の話に戻ろう。

実は、ヴェニス大司教だったヨハネ・パウロ一世(以下JP1)と新教皇フランチェスコはとても雰囲気が似ている。

にこにこしていて腰が低く、不正を憎み弱者の側にいたことも同じだ。

JP1はヴェニスで聖職者が信者の金を投資に運用していたことを大司教時代に知った時はそれを隠さなかったし、きっちり清算した。

新教皇は、ローマに巡礼を計画していたブエノスアイレスの信者たちにそれを断念させて飛行機代を貧しい人に寄付させたこともある。

JP1も新教皇も、つつましい家庭の出身だった。

こんな共通点があるので、66歳の若さで急死(金融スキャンダルの粛清を恐れた一派に暗殺されたという噂は今でも根強い)したJP1のように福音的暮らしを実践するフランチェスコ教皇も改革に手をつければ命が危ないかもしれないなどという人々が出てくるわけである。

今回の教皇交替においてヴァティカン改革には、二種類のリセット方法があると言われていた。

一つは、今までの臭い部分にふたをして埋めてしまってから再スタートする方法、

もう一つは徹底的に悪を暴きだして浄化してから再スタートする方法だ。

B16はこれについてはっきりと「浄化」と言う言葉を使っている。

しかしそれを徹底するだけの心身のエネルギーは足らなかった。

でもそのB16が退位してもまだ存命であるということは、新教皇が「浄化」路線をとる可能性が大きいことを示す。

そして、B16世に任命された比較的若い枢機卿はたくさんいる。

「浄化」を表明した前教皇がまだ生きているという状態で改革にとりかかれるというのは、JP1には臨めなかったシチュエーションだ。

新教皇フランチェスコは本当に新しい道を開けるかもしれない。

そう望みたい。

PS.教皇フランチェスコとなったベルゴリオ枢機卿の、アルゼンチン独裁政権時代のグレーゾーンについてもっと知りたいというメールをある人からもらった。以下、説明しますが、興味のない人はパスしてください。

ことの経緯をもう少し正確に言うと、ベルゴリオが1973年に36歳の若さで、アルゼンチンのイエズス会管区長に任命されたことが始まりだった。

そして当時のイエズス会は「解放の神学」のもとに政治的戦いを展開していた。労働者のストを組織するなど共産主義者とも共闘した。

しかし、ヴァティカンは共産主義者との連携を一貫して拒否し、イエズス会との間に軋轢が生まれた。

ベルゴリオはイエズス会のもう一つのルーツであるイグナチオの「霊操」などの霊性にウェイトを置いていたし、ローマ法王への絶対の忠誠も重視していた。

その結果、アルゼンチンのイエズス会士たちに政治活動よりも教区にとどまって司牧を続けるようにという通達を出したのだ。

1978年に教皇となったJP2は東欧を共産主義という名の全体主義から解放することを使命の一つとしていたから、中南米で「解放の神学」が社会主義的イデオロギーに接近して政治体制を変えることには反対だった。

当然イエズス会との確執は深まる。

その結果どうなったかというと、イエズス会総長のペドロ・アルペによって、ベルゴリオは管区長職から追われてしまったのである。

ベルゴリオはそれ以来修道院にこもって、12年間も干された状態にあった。

(ペドロ・アルペというのは、日本の最初のイエズス会管区長となり原爆後の広島で医療活動をし、上智大学の学長でもあった人だ。)

その12 年の間に、東欧とソ連の社会主義体制が崩壊した。

1992年にJP2は、ベルゴリオをブエノス・アイレスの副司教に任命した。

表舞台に返り咲いた形のベルゴリオは、イタリア人のルイジ・ジュッサーニ神父の創始した日本にも支部のあるコムニオーネ・エ・リベラツィオーネという信徒の運動に接近した。

コミュニオンと解放、つまり、キリストの現存が人間の本質的要求に対する唯一の答え、人間の真の解放の基礎であることを告げることを目的とし、文化交流、公教要理教育、司祭の育成、貧しい国々への援助など幅広い活動を行う団体で、政治参加以外の「解放」の形を追求してきたベルゴリオとは近いものがあったのだろう。

イタリアで毎年行われるリミニ・ミーティングにも参加するようになり、イエズス会以外の人脈につながったわけだ。日本の真言宗など他宗教間との積極的な協調もあるようだ。

だから2005年の教皇選の時点で、イエズス会の進歩派と見なされていたミラノ大司教のマルティニとは、イエズス会つながりでは後継者として押されたものの、イエズス会内部では微妙な位置にあったともいえる。

彼がマルティニの支援者たちに持ちあげられることで教皇となってしまうことをおそれたのは充分理解できる。

で、教理省長官として解放の神学をつぶしたなどと言われているラツィンガー(B16)だが、実際は、個人的には解放の神学の闘士たちには友好的で謙虚な態度で接していた。(ラツィンガーも解放の神学の実践者たちも第二ヴァティカン公会議の世代だったことを忘れてはならない)

JP2は、中南米の民主化闘争の頃、1980年にミサ司式中に殺されたイエズス会士オスカー・ロメロ(サン・サルヴァドル大司教)を、殉教者として扱った。(この辺の複雑な事情は『聖者の宇宙』(中公文庫)p189-192に書いた。

これら一連の経緯をみても、中南米の激動の時代において、誰がリベラルで誰が保守反動で、誰と誰が繋がっていて、というような単純な色分けができないということが分かる。

また、そのような単純なレッテルはりの分析では、教皇選を真に動かしているといわれる霊的な部分、聖霊の働きは到底つかめないことになる。

「ほんとうに聖霊が働いているのかどうか」は私には分からないが、少なくとも、「聖霊が働いている」と信じている人たちがその信仰に導かれて教皇を選んだことは確かだ。

だから、今ヨーロッパの伝統的な反教権陣営などが蒸し返そうとしているような「教皇の暗い過去」だのヴァティカンやイエズス会の陰謀論だのについては、ひとまず無視した方がいい。
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by mariastella | 2013-03-17 02:56 | 宗教
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