L'art de croire             竹下節子ブログ

教皇最初の日曜日 アンジェラスのミサと法王の表記

教皇ネタは火曜日の就任式まで休もうと思っていたのだが、たった今、正午のアンジェラスのミサがローマからTV中継されていたの見たので書きたくなった。(別のテーマの記事は18日付の記事として後からupします)

新教皇の、自然体で気軽に自分の体験などをはさんで語るスタイルはもう認知されたようだ。

昨日の時点ではもう、コンクラーベの様子の情報漏れが堂々とテレビで報道されていた。

それによると、ベルゴリオ枢機卿はコンクラーベ前の会議で、高位聖職者のキャリア志向を批判して好感を持たれたという。

第1回投票でスコラ枢機卿は早くも圏外に去った。その後シェレールとの勝負になったが、最終投票ではベルゴリオが90票、78%を獲得した。

最初にB16と交わした電話の会話ではB16が「自分のできなかったことを全部やってくれ」と言ったそうだ。

こういうことはみな「信頼筋」からの情報としてテレビやラジオで漏れてくるのだが、まあ、戦略的漏洩と考えられないでもない。

土曜日に行われた記者会見では、記者たちがいっせいに起立して拍手したが、「たいせつなのは教皇でなくてキリストですよ」、と言った。

B16 に会いに行くのは23日だとのことだ。

さて、17日正午の教皇は、もちろん「お告げの祈り」を唱えたのだが、最初の顔合わせの時と同じように「私のために祈ってください」とまた言った。 

自分がフランチェスコを名に選んだのは、アッシジのフランチェスコがイタリアの守護聖人だから、この地に少しでも親しくあるようにと思ったからで、ご存じのように私の家族はイタリア出身で・・・と、イタリア人の心をつかむようなことをまず語り、今日はアルゼンチンからの巡礼もたくさんつめかけているサン・ピエトロ広場を埋めた群衆に、「でも私たちはみな新しい家族によばれているのです」と、キリスト者としての連帯の重要性の強調することを忘れない。

「神は飽くことなく赦し続ける。赦しを乞うのに飽きてしまうのは私たちだ。

と、「赦しの神」を強調。

律法通りに石打ちの刑に処されようとしていた姦通の女を救ったイエスの話

(しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」ヨハネ8-7)

にわざわざ言及したのは、数年前に婚外子の洗礼を拒否した司祭を「偽善である」とまで批判したベルゴリオ大司教時代の路線を貫くことの表明でもある。

最後は、「いい日曜日を、いいお昼ごはんを」で締めくくり、家庭的雰囲気のアプローチも確定してきた。

この教皇の、「福音書の精神にのっとった謙虚で貧しい簡素な生き方」という路線があまりにもはっきりしているので、じゃあ、ヴァティカンやカトリック教会が今まで築いてきたこの膨大なこの世の富や権勢や豪華絢爛文化はどうなるんだと心配する人まで出てきた。

そこで引き合いに出されるのはタリバンらの事例だ。

つまり、イスラム原理主義者らが偶像破壊だといって仏教遺跡だのイスラムの聖人廟だのを破壊してきたことが世界的に非難されたことをふまえて、

「ある宗教の中でその宗教の素の精神を逸脱して栄えた文化遺産がある場合、それはもはや人類の共通遺産なのだから、宗教の改革派が破壊することは間違っている」

という認識だ。

ヨーロッパでも、宗教改革やフランス革命などで教会が破壊され、略奪され、多くの貴重な建築や芸術作品や工芸品が失われてきた。

その歴史から学んだことよりも、今イスラム原理主義者の過激派によって行われている「蛮行」の方を例に出すところが(例に出していたのはパリの大司教)都合がよすぎる気もするが、ともかく、「福音書の精神に戻って改革」と言っても、それは富を運用する側の精神の改革であって、いかにこれまでの富を善用できるか、必要としている人に手を差し伸べることができるかという方に向かうらしい。

「今までのはみんな悪かった」と他罰的、破壊的になるのではなく建設的にということだ。

こういうと、当然のような気もするが、言うはたやすく、行うは難し、である。

困難に直面した時には、切れて、あるいは切れたふりをして「ちゃぶ台をひっくり返す」ことでリセットする方が簡単だと思う人も少なくない。

まあ、少なくとも、キリスト教信者だと自称している人は、福音書の中のイエスの言行には逆らえないはずなので、教皇の示すお手本とよびかけに従って、争いのない世界を目指してほしい。

イエスも神殿で商売をしていた証人たちの台や椅子を倒したじゃないかというつっこみは、ここでは、なしである。

(イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。マルコ11-15 )

「罪なき者だけ」が石を投げることができるのだから、ね。

PS:日本では法王フランシスコと表記され始めているようだ。

いわゆる「現地読み」なら「フランチェスコ」なのだが、日本のカトリックがスペイン語やポルトガル読みの「フランシスコ」を採用しているからかもしれない。

そういえばJP2もイタリア語読みならジョバンニ・パオロなのにヨハネ・パウロと呼ばれていたから、フランシスコに落ち着くのかもしれない。

まあ日本人には一番なじみなのは「アッシジの聖フランチェスコ」などよりアメリカの都市サンフランシスコだろうし、その方がいいのかもしれない。
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by mariastella | 2013-03-17 21:31 | 宗教
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