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L'art de croire             竹下節子ブログ

人類の起源-カトリック教会とインディオの魂

これは前回の記事の続きです。

インディオも黒人もアジア人もキリストにおいてはその違いがなくなり「みな同じ人間」であるという普遍主義の論議は、キリスト教においてはパウロのガラテヤの信徒への手紙の中の有名なフレーズ、

洗礼を受けてキリストに結ばれるなら「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(3-28)

という部分を根拠にして、基本的にはすでに形作られていた。

それなのに、なぜ「インディオには魂がない」から虐殺し放題というような流れができたのだろう。

たとえば、キリスト教ヨーロッパとアフリカの「黒人」との遭遇はそれまであまり問題になっていない。

なぜなら、アフリカは中東と地続きであって、イエスも幼い時に父母と共にエジプトに亡命していたし、そもそも地上の諸民族はノアの三人の息子の子孫だと思われていたからだ。

ところが、旧約における「世界」では、当然アメリカ大陸は想定されていなかった。

だから、アメリカ大陸にも先住民がいて文化もあったということ自体が、ユダヤ=キリスト教の世界観にとっては不都合だったのだ。

その「不都合」の核心とは、なにもも、

アメリカの先住民の文化や宗教が異なっているとか技術文明において「劣っている」とかいう認識による差別があって、そのような劣等民族をも「神の前に平等だ」とするのに抵抗がある、

というようなことではない。

不都合とは、アメリカ先住民を人間だとすると、アダムとイヴから始まってノアやアブラハムやヤコブへと展開していった創世記物語の筋書きと時代(アダムが創造されてから約6000年)とに「合わなくなる」という神学的事情からきたものだった。

「新世界の人間」が神によって別口に創造されていたならば、神の天地創造は単一のもの(monogénisme)でなく複数(polygénisme)だったということになる。

現代なら逆に、すべての人類の先祖はアフリカ大陸に生まれた後で全世界に広がっていき、大陸が切り離されたのはその後のことだったということになっているから、人類のルーツが同じだということが矛盾ではない。

けれども、当時のヨーロッパ人にとっては、「新世界」は文字通りの「新世界」であって、「彼らの神の創った世界」と共通のルーツがあるなどとはとても考えられなかった。

そうなのだ。

西洋キリスト教が「新世界」の先住民を最初は人間だとは見なさなかったのは、いわゆる「人種差別」などではなく、神学的整合性を必要としたからだったのだ。

他に、地球の成り立ちの時期にも、齟齬が出始めた。

ルネサンスの神学者たちは、「聖書の年代記」と「プラトン的時間」をなんとか両立させようとした。

ノアの系譜と、デウカリオンの系譜のどちらも正しいとしたら、どちらが先なのか、などと大真面目に議論した。(旧約のノアは大洪水でリセットされた人類の生き残りで再スタートさせた。デウカリオンはギリシャ神話のプロメテウスの息子で、やはり大洪水の後で石を背後に投げて新しい人間を創った。)

新大陸の先住民を「人間ではない」と切って捨てることも、解決法の一つだったのだ。

といっても、さすがに、現地の宣教者らはすぐに、先住民も彼らの宗教を持っていて神々を信じていることに気がついている。

「相対化」が始まった。

すでにヨーロッパでは宗教改革が始まりつつあった時代だ。カトリック陣営とプロテスタント陣営は互いに互いを「無神論者」だと攻撃し合っている。

そういう時代だからこそ、、偶像を崇拝している先住民たちを「人間」だと認めた上でカトリックに改宗させることの方が、神学的整合性などよりも有効な戦略で、現実的な選択ではないだろうか。

16世紀の半ばに生まれたジョルダーノ・ブルーノは、先住民を「人間ではない」などと言っている神学者たちをからかって、「そう、人間以上だ」と言い、新旧の勢力が殺し合っているヨーロッパ人よりも彼らの方が、宗教に対してずっと敬虔であると言った。

ブルーノは、コペルニクスの地動説も支持していたから、地球が中心でないということは、もうどこにも中心はなく、言いかえればあらゆるところが中心だ、とも言った。

一匹のアリが宇宙の中心かもしれない。

無限の世界の中では地球上のあらゆるところがヨーロッパでもある。

馬にとっての美醜、豚にとっての美醜が違うように、「普遍的美」というのはない。すべては相対的であると同時に動的でもある。

神の似姿である人間の尊厳というのも、所与のもの、存在論的なものではない。

獣のような忌むべき人間もいる。

逆に、獣も人間も、同じ物質が同じ生命の力によって生かされているのであり、無限の生命の中では同等である。

人間が「ひとつである」ことは、純血や固定した概念ではなく、多様で動的な概念である。

それを認めるには、「西洋のキリスト教の形=普遍」という考えを捨てなくてはならない。

この地球に大洋に隔てられた新大陸があり異なった文化や肌の色を持つ人々がいるのは「多様性の調和」である。

多様性の背後に唯一性を見、唯一性の背後に多様性を見ることこそが洞察なのである。

また、宇宙は「無限」ではあるがその中の多様な個々の存在を相互に動的に結びあわせる手のようなものがあって、それは中心を持たないネットワークである。

多様性や差異性は未来への障害ではない。

宗教は殺戮をもたらす道具と化してはならない。

人間の尊厳はよりよい社会を築くための努力にあるのだ。

たとえ「野蛮人の魂の救済のために布教する」という「意図」が肯定できるとしても、伝染病を持ちこんだり戦争をしかけたりして先住民の伝統や文化や自然環境を破壊したという「結果」は弾劾すべきである。

ジョルダーノ・ブルーノのこのような考察は、21世紀の今も全く色あせていない。

それにしても、このブルーノが異端として火刑されたり、一見ばかげた帳尻の合わせ方ばかりしている一神教神学者が多かったりしたとはいえ、全体として、「普遍宗教が真の普遍主義の構築に果たした役割」は、やはり看過できない。

「万物の創造主たる父の前ではみな兄弟だ」

という単純で画一的な普遍主義を掲げて拡散していった普遍宗教が、彼らにとっての「新世界」で多様性に出会った時に、その葛藤からダイナミズムが生じる。

「画一性」と「唯一性」とは違うのだと知って成熟していったのだ。

それとは反対に、もともと画一的全体主義的志向のない共同体的宗教、つまり、利害を共有する限定的な共同体内の「マイ宗教」というのは、他者や他文化と出会ってもショックの種類が違う。

「ああ、おたくはそうなんですか、でもうちではこうなんですよ」

で衝突を回避することもあるし、思考停止に陥ったり、よそ者を排斥したりすることもある。

特に、共同体主義の社会がよそから来た普遍主義に出会った時は、普遍主義が「普遍」の名のもとに押しつけてくる「普遍」の侵襲から当然身を守ろうとする。

その押しつけさえなければ、メジャー「マイ宗教」の秩序で成り立っている共同体は、よその宗教に対して抵抗しないで好奇心を示す余裕がある。

よその神さまたちが「マイ宗教」にどんどん習合していくこともある。

けれども、「普遍宗教」が「一神教」で、

「自分たちの神による救いを受け入れなければ地獄堕ち」だとか、

「ユア宗教を捨てなさーい」

とか言い出すと、共同体主義の社会がそれを跳ね返そうとするのは当然だ。

「新世界」でも同じようなことが起こった。

カナダのオンタリオ地方に最初のフランス人コロニーができた頃、イエズス会士Jean de Brébeufが1635年に残した記録によると、

イエズス会士から唯一神の信仰を天国と地獄の概念と共に説教された時、アメリカ・インディアンは

「それはあなたたちの国ではもっともなんだろうが私たちの国では違う、どの国もそれぞれのやり方があるのだ」

と抵抗した。

そこでイエズス会士は持参した地球儀を見せて

「世界はひとつなのだ」

と示したら、彼らはもう、反論できなかったというのだ。

あらゆる共同体を抱合するただひとつの普遍世界の大きさを小さな地球儀で証明してみせるというのも逆説的でおもしろい。

もうその頃にはキリスト教西洋は「大航海」によって地球の形と大陸の分布をかなりの精度で把握していたし、カトリックは「人類すべて兄弟」の改宗を目指していたから、地球儀という小道具を駆使して「共同体主義を超える普遍主義」を説いてみせたわけである。

もっともそれはまだ「汎ヨーロッパ主義」の域にとどまる「上から目線」のものであったけれど、初期に「インディアンには魂がない=人間ではない」かのように虐殺していった頃とは雲泥の差がある。

ルネサンスの頃のカトリック(普遍)教会が、普遍主義と共同体主義、多様と統一のはざまで哲学的な意味での「グローバリゼーション」の可能性を探ってきたこのような道程は、今も続いている。

ルネサンスの「人間中心主義」から「神の似姿」の根拠を消して「神なきユマニスム」に向かったもの(モダニズム)と、その人間中心主義そのものを解体して、相対化を推し進めていったもの(ポスト・モダニズム)という二つの大きな流れが生まれた。

「相対化」にも民俗学的、構造主義的な人間観の構築を目指したものと、脱構築のための脱構築があった。

相対化されてのっぺりとした世界には拝金主義などあらゆる種類の偶像崇拝が跋扈することになった。

「神なきユマニスム」の方は、普遍主義や普遍理念を「超越」から解放しようとしながらも、実は福音書から受け継いだ理念を守って「弱者救済のために社会問題に参入する」などの姿勢を固持していたのだが、それはたやすく政治イデオロギーという名の偶像崇拝にとりこまれていくことになった。

レミ・ブラグ(Rémi Brague)は、「神なきユマニスム」の限界について考察した好著を上梓したばかりだ。

ブラグは、神なきユマニスムの行き詰まりは、神を否定した時に人は人の尊厳も失ってしまうことに由来するのではないか、人の尊厳と神とはセットになっているのではないか、超越を視野に入れない人間中心主義は傲慢な独善主義となり結局は人間の中にもヒエラルキーを作って疎外してしまうのではないか、と問う。

また、レヴィ・ストロースやミシェル・フーコーによる相対化にも言及して、一神教の神による「十戒」のような上からの倫理規定なしに基本的人権の概念に到達するような「人類に普遍的なモラル」が遍在し得るのかとも問いかけている。

この人や、ジャン=フランソワ・マテイ(Jean-François Mattéi)のようにキリスト教的ルーツをポジティヴに語る人は、実は今のフランスの知識人の中では肩身が狭い。

「カトリックだ」という解説が必ずついてまわる。

「人間の使命は自然と宗教の支配からの解放だ」という考え方からは、「超越的なもの」の必要性を説く者は反動的だと見なされかねない。

ポスト・モダニズムの陣営からは、「未だにヨーロッパ思想の優越性を信じてい」と批判される。

しかし、たとえ自然と宗教から解放されたつもりでも、実際は、人はまたたくまに欲望やイデオロギーに支配された。

自然や神からは自由になったつもりでも、金の奴隷になり労働を搾取され、国家に統制される。

もう一度、自然や宗教との関係性を考えなおしてみるのは大切なことかもしれない。

そう考えていくと、「新世界」を発見し、多様性に直面し、アリストテレスやプラトンに耽溺し、キリスト教普遍主義からユマニスムの普遍主義へと試行錯誤を重ねていた16世紀という時代の研究者たちの集まりが、なんだか、前衛的で熱いものに思えてきた。
by mariastella | 2013-03-24 07:51 | 歴史
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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