L'art de croire             竹下節子ブログ

『汚れなき祈り』クリスチャン・ムンギウ

『汚れなき祈り』クリスチャン・ムンギウ監督・脚本は、去年のカンヌで脚本賞とダブルの主演女優賞を獲得した2012年のルーマニア映画だ。

こちらではDVDが発売になったばかり。

2005年にルーマニアの正教会修道院で起こったエクソシスムに続く死亡事件をテーマにしたものだ。プロテスタントのエクソシスムのことを読んだばかりだったので、正教会のエクソシスムについても知りたくなったので見てみた。

大聖バジルが何度も喚起されるところが正教的だ。

聖バジルは四世紀のカッパドキアの司教で、カトリック教会でも聖人で教会博士の称号を持っている。正教の修道会の規則も作り、カトリックのベネディクト会規則にも影響を与えた。

で、まだ若いと思われる修道会付きの司祭が、エクソシスムにはリスクがあり、家族の要請が必要だと言って躊躇しているところを見ると、もともとかなりの荒行だと意識されていたようだ。

こう言ってはなんだが、カトリック世界もハンガリーやポーランドなど東欧圏のものは、フランスなら18世紀の田舎でももっとシニックな人々がいたろうと思えるくらい、保守的というか中世的である。

ルーマニア正教の女子修道院がアナクロニックな感じがするのも不思議ではない。

国自体の貧しさもある。

電気も水道もないという過酷な生活も、エコロジー原理主義や伝統にこだわる保守主義などではなくて本当に貧しいからだ。

この話では、孤児院にいた二人の女性の一人が修道女になったわけだが、成人すると孤児院を出なくてはいけないので、結婚相手でも見つからない限り、里親と称して労働力を搾取する家庭に引き取られるか修道院に入るくらいしか若い女性の進路は限られている。

この悲劇も、修道院という閉鎖的空間がカルト化して修道女を洗脳しているとか、ドイツの都会に移民労働者として出稼ぎしているレズビアンの女性が精神に異常をきたしたとかいう問題以前に、親が子供たちを育てられないで孤児がたくさんいる冷戦以降のルーマニア社会の荒廃自体が諸悪の根源だ。

フランスにはルーマニアの孤児院から養子をもらうカップルが少なくない。ベトナムやハイチにまで目を向ける前に、できれば「ヨーロッパの白人の子」を望む場合が多いのだ。

それもだんだんと難しくなってきている。

でも、最近の「ゲイの結婚」法がゲイのカップルの養子縁組許可を前提としていて、さらには人工授精や代理母による子供の獲得を合法化することが視野に入っていることを思うと、「ルーマニアの子供たち」を優先しろよ、と言いたくなる。

で、女子修道院で再会するアリーナとヴォイキツァだが、空手をやっていたという勇ましそうなアリーナ(性同一性障害的にも見える)と少女っぽいヴォイキツァを比べると、実は修道女になったヴォイキツァの方が、きっと昔からアリーナを心理的に支配していたのだろうなと思わせられる。

こういうケースでは男の子っぽい側が純愛で脆弱で、愛されている絶対の自信を持てる「守ってもらえる側の女の子」というのは、結構残酷なのだ。

そんな二人が司祭に告解する時に、二人の関係をどこまで告白したかは気になる。アリーナに罪の免償の必要性を説き、無理やり告解させたヴォイキツァが、「ディティールは言わなくてもいいからすべての罪を告白するのよ」という意味のことをややあせったように言っているので、おそらくヴォイキツァ自身は同性愛のことは話していないのだろう。

ヴォイキツァが修道院の生活を選択したのは孤児だった自分が疑似家族を得て、パパだのママだの姉妹だのと呼べる存在(しかも絶対に自分を捨てないし家から出ていくこともない)と暮らせる安定を選んだからだと思われる。

それに必要な「神さま一番」のレトリックを受け入れることは実社会の過酷さと比べたらどうということはない。

そんなところに、本音を語るどころかヴォイキツァを取り戻すために挑発的な言動を繰り返すアリーナが現れる。

修道女たちや司祭は信仰の型に凝り固まっているとはいえアリーナに対して別に懲罰的ではなく、むしろ同情的だ。

それがいつのまにか最後のエクソシスムのカタストロフィへとつながっていくのだが、この映画は最後のカタストロフィを盛り上げるために構成された娯楽映画ではない。

むしろそこにたどり着くまで、延々と、伏線とも言えないリアルな日常のあれこれを積み上げていく。
飛行機の音など環境音も丹念に配する。

散漫なdigressions自体がコンテンツになっているのだ。

2時間半が必要という意図は分かる。
事実を刈り込んで濃縮し、クライマックスへ突き進むフィクションとして完成させるというのが目的ではない。

チャウシェスク以来の、国の荒廃という空気そのものが底に流れるテーマなのだ。

修道院内の倒錯という点ではロベール・ブレッソンの『罪の天使たち』(1943)を連想した。

ジロドーが書いたシナリオを「罪と恩寵」として舞台化したものを昨年観たのも記憶に新しい。

それにしても、こういう題材を扱いながら、センセーショナルな眼ではなく、登場人物の人間性の機微を淡々と描きあげていく監督の手腕を見ると、次の作品も大いに期待したいところである。
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by mariastella | 2013-04-11 17:12 | 映画
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