レオン・ブロワの『Le salut par les juifs』(ユダヤ人による救済) をようやく読み終えた。
ものすごく抵抗がある本だった。
いくら通常の意味での反ユダヤ主義の本ではないと言っても、強烈に19世紀末の宗教事情を反映しているし、もし隣の席にユダヤ人が座っていたらと思うと、恐ろしくてメトロの中では読めない。
私は戦後日本で育った普通の人間だが、それでも子供の頃から『アンネの日記』などでユダヤ人はナチスのホロコーストの犠牲者でユダヤ人排斥は悪、というのが刷り込まれていたらしく、なんだかポルノ小説を隠れて読む中学生のように罪悪感にさいなまれる。
もちろんレオン・ブロワは「ユダヤ人排斥主義者」ではなく、ゾラを非難したがドレフュスは擁護したくらいの人なのだが、キリスト教が旧約から新しい道へと進んでいったことを認めず、神とユダヤ人との関係が改善されなければ救いはない、とこだわっているのだ。
キリスト教は普遍宗教になったので、いってみれば、「民族神にしがみついている人々は無視」という形で発展した部分があるのに、レオン・ブロワはそれをご都合主義だとみる。
ユダヤ人がナザレのイエスを「救い主キリスト」であると認めない限りはキリスト教は普遍宗教になれない、救済はこの世で実現できなくて、ただの信仰と期待の問題になってしまう、という。
たとえば、分かりやすい例を引くと、聖書の中の有名な
『放蕩息子の帰還』のたとえ話(ルカ11.15-32)の解釈がすごい。
そこには父と2人の息子が出てきて、兄はまじめに父のもとで働き続けるが弟は金をもらって家を出で放蕩したあげく、一文無しになって豚の世話をするまでに身を落とした。豚の食べる豆を食べたいと思うほど飢えて、結局父の元に戻ると、父は帰還を祝って子牛を屠って祝った。兄はそれに不満を覚えたという話である。
で、レオン・ブロワによると、
父は「神」、
兄は父なる神に忠実だった「イエス」、
弟は神に背を向け放浪する「さまよえるユダヤ人」、
弟が食い物を欲しがった豚は「キリスト教徒たち」、
の象徴である。
そして、弟が改心して帰ってきたときに、救いの成就を祝って父から犠牲に供される子牛が兄イエスだというのだ。
つまり、さまよえるユダヤ人の回帰なしには救いはなく、そのためにはイエスは何度でも十字架につけられる役回りだということだ。
いやあ、すごい。
なんというか、何にインスパイアされているのか知らないが、全編このようなユニークで熱い確信に満ちている。
聖金曜日の祈りから不実なユダヤ人のために祈るという部分が今や削除されていることをブロワが知ったら、キリスト教会はいよいよ豚小屋になったと言うかもしれない。
19世紀末の時点でヨーロッパのキリスト教徒の抱いていた「ユダヤ人」と「ユダ」の関係がどんなものかを探るにあたって、かなり衝撃的な読書となった。