L'art de croire             竹下節子ブログ

ブラジルの世界青年の日(WYD)に思う その3 『ワイルド・ソウル』

最近のブラジルで反政府デモが盛んになった理由のひとつは2014年のブラジルのワールドカップに向けた予算の増大である。

ブラジルではこの他に2016年のリオデジャネイロのオリンピック開催も決まっていていかにも経済発展国の勢いを感じさせるのだが、国内の経済格差が広がり過ぎている。

国民の20%が2ドル/日以下で生活している。けれどもほんとうの最貧層は1%しかいなくて、たとえばアフリカ諸国の貧困ぶりに比べるとどうということがない。

中間層が多くなったことで、交通費の値上げなどに抗議の声が上がった。

最初に「中の上」の層が増え、次に「中の下」の層が増え、ついに「中の中」が広がった。

それでもこの20年間は暴動などがほとんどなかったのだ。

暴力が生まれるのは富裕層と最貧層の格差が大きくなった時である。

経済格差があり若者が失業しても「暴動」に発展しないのは日本ぐらいのものかもしれない。職のない若者は日本では外でアクションを起こす代わりにうちにひきこもる。

それにしてもあれほどのサッカー王国なのだからワールドカップの招致に関してはみんな大歓迎なのかと思っていたので意外だった。
サッカー施設関係の予算が90億ユーロくらいで空港など関連経費がさらに100億ユーロとだんだん膨れ上がったそうで、公共事業予算を上乗せした不当取引の問題もある。
南アフリカ大会では経費が当初の予算の17倍になったというのだから、ブラジルも恐れているのだ。

中間層の子弟のために技術系専門学校などの増設が待たれていて、ワールドカップの予算があれば500の教育施設ができるという話だ。

今回の世界青年の日(WYD)では、百万人単位の若者が一箇所に集まって開放的に騒いでいたのに、事故らしい事故はほとんどなかった。

まあ当然で、世界中から集まる若者たちは一応「巡礼者」なのだから、大会が全体としてうまくいくことをみなが願っている。ワールドカップでは「自国のチームが勝つこと」だけを願う過激なフーリガンなどのサポーターなども押しかけるのだから安全上のリスクは大きい。

といっても、アフリカの最貧国や内戦中の国などと違って、BRICsのような国の場合、少なくとも都会の中間層の様子を見る限り、日本やフランスともうあまり変わらない。

若者たちはスマホを持ってゲームしているし、ショッピングモールにも人がいっぱいだ。

ところが、少し観察するとやはり貧富の差は極端なようだ。

日本のような国はもともと国土が狭いから、大金持ちの豪邸と言ってもBRICsの金持ちの家とは違うし、そもそも、金があっても表向きは質素に暮らす質実剛健や儒教的徳の伝統もある。「出る杭が打たれる」のをおそれる警戒心もあるだろう。貧しい人は貧しい人で、暴動を起こす代わりに片隅でひっそり暮らしていたり、生活保護の申請さえせずに孤独死や自死に至る人も少なくない。

日本では経済格差が見えにくいし、それを顕在化させないメンタリティがあるのだ。

垣根涼介『ワイルド・ソウル』(新潮文庫)という小説がある。

1961年に日本政府の移民募集の甘い言葉に騙されてアマゾンの僻地にわたって次々と命を落とした入植者の生き残りによる外務省への復讐譚である。

彼らは、入植予定地はすでに開墾が終わっていて灌漑用水も家も完備、地平線いっぱいに広がる二十町歩の土地が無償で提供されると言われ、8ミリの映像も見せられ、夢いっぱいで海を渡ったのだ。

ところが映像は現地とは関係のないもので、日本移民に関する特許権を与えられている現地の日本会社は不当な利益を得ているし、入植者はアマゾンの密林を自分で開墾するしかなかった。気候は過酷だし伝染病にも次々とやられた。

日本政府は戦後の食糧難の時代に、「口減らし」のために棄民したわけである。

現在ブラジルの日系移民は140万人以上で、バブルの頃の人手不足で日本に出稼ぎにきた人も多く、その後の不況で職を失ったが帰る費用もなくなってホームレス化するケースさえある。

1960年の悲惨な入植のたった50年後に「飽食」だと騒ぎ、「少子化」だと将来を憂う時代が来た。

『ワイルド・ソウル』を読んでいると、昔も今も変わらないのは「弱者切り捨て」という国のメンタリティだという。

けれども、その末端には、敢えて助けを求めず自分を犠牲にする「誇り高い弱者」が「日本人」を形成している。勤勉で義理堅く真面目。

小説の中で主人公を救ってくれたアラブ人は「日本人」を、

「餓死寸前なのに物盗りになる度胸もない。かといって乞食にまで落ちぶれるにはちっぽけなプライドが許さない…中国人とも韓国人とも違う。馬鹿正直に生きるだけが取り得の黄色人種だ」

と評する。

弱者は誇り高いが、強者はそんな弱者を切り捨てることをためらわない。

その主人公がアマゾンから命からがら逃げ出してリオデジャネイロに流れてきて生ゴミの回収をするようになった頃、60年代の終わりにコパカバーナなどの観光地に日本車や日本製品があふれカメラを持った団体観光客が繰り出しているのを見て愕然とするシーンがある。その日本人たちは現地のブラジル人よりも裕福そうに見えた。入植者が打ち捨てられて死んでいった間に日本は世界史にもまれな経済成長を遂げていたのだ。

コパカバーナは今回のWYDのハイライトとなった300万人野外ミサの行われた海岸である。
2キロに渡って、砂が見えないほどに若者に埋め尽くされた。(枢機卿60人、司教1500人、司祭11000人も出席した)

教皇は、若者たちの連帯に期待している、世界を変えるために政治的にも社会的にも現場に関わるようにと言った。
人生をバルコニーの上から眺めていてはいけない、社会を変えるために動け、イエスもそうした、と語った。教会を惰眠から覚醒しなくてはいけない、と。

マイノリティである日本のカトリックの中には、「ミッションスクール出身のお嬢さま」が上流の男と結婚した後、ブルジョワ教区の教会に通って社交に励んでいるというケースもある。そんなところでは「社会派」の司祭の話などはもちろん歓迎されない。教会に政治を持ち込むなとも批判される。

教皇フランシスコは、教会を出ろ、辺境に行け、無関心の地に行け、政治を変え、社会を変えろ、と言ったのだ。

『ワイルド・ソウル』には、生き延びた入植者や日系の二世や三世が「ラテン化」するうちにブラジルの民衆宗教であるキリスト教とどう関わったのかは書かれていない。でも、復讐に手をそめる二世である後半の主人公ケイは、底抜けに明るい。

中南米の「殺し屋」たちは外交的で陽気な人間が多いと書かれている。物語に出てくる陰湿な殺し屋というのは恐怖を煽る嘘っぱちで、プロの殺し屋にはサイコパスもいない。仕事は単なる「作業」であって、相手の苦痛や恐怖が内面にしみこんでいくことなどない。だから心の平衡を失わずに仕事を続けていけるとある。

日本人二世の主人公ケイは「殺し屋」ではないが、暴力に対してそういう変な「自然体」を保つことができる明るい男だ。

ここで、なんとなく伊藤計劃の『虐殺器官』(ハヤカワ文庫)のことを思い出した。そこには、兵士たちが心の平衡を失わずに人を殺せるように、戦場で余計な感情負荷を追い込まないように脳の神経回路をブロックする予防措置が施される時代が書かれている。

そんな措置をされなくとも、自分が害する他者を自然に「作業の対象物」としか見なせない人がいるということだろうか。

それは環境なのか素質なのか、相手との関係性が変われば変わるだけのものなのだろうか。

「弱肉強食」と称される新自由主義経済の中では、強い者が「感情の負荷」なく弱い者を食い物にするのだろうか。

ブラジルと日本の経済発展にまつわるこの半世紀の劇的な関係性の変化を思う時、アルゼンチンの貧困や暴力を近くで見てきた教皇がブラジルから発した言葉のひとつひとつがいろいろな響きをもって聞こえてくる。


次のWYDは2016年にポーランドのクラコヴィで開催されるという。

もちろんWYDを始めた聖人JP2を記念するためである。
JP2も故国ポーランドから冷戦を終結させた社会変革の立役者だった。
そのポーランドも今はすっかり新自由主義の洗礼を受けている。

これからの3年で世界はどう変わるのだろうか。私はそれをバルコニーの上から見ているだけなのだろうか。
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by mariastella | 2013-07-29 08:54 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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